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世界で一番すきなひと(13)

 家で名前呼びを練習してくる、なんて冗談だと思うだろう。


 でも藍子ならやりかねない。

 と言うか想像さえついてしまう。俺も藍子の真面目さならそのくらいやるんじゃないかなと思っていたから、それ自体には今更驚かない。

 驚かされる要素があるとすれば、タイミングだ。

 思い返せば彼女と出会った頃からずっと、俺は不意打ちばかり食らってきた。

 こっちだって毎回毎回隙だらけでいるつもりもないのに、彼女は俺の全く予期しないタイミング――例えば話が落ち着いたと思わせた瞬間とか、畏まったメールの後半部分とか、俺が車運転してる真っ最中なんかに繰り出してくるから恐ろしい。この件に関してもそうなりそうな予感がひしひしとしていて、藍子は緊張緩和の為だけに俺の不意を突いて俺の名前を呼ぼうとするだろう。毎度毎度。隙を狙われては堪らない。

 俺だって心臓に毛が生えてるわけじゃない。好きな子の言動にはどぎまぎすることくらいある。藍子はその辺りをまだわかってくれてない。


 訪れた約束の三月三十一日。

 俺は藍子が退勤するところをがっちり捕まえて、いつものように駐車場まで連行した。お互いに何かを意識しつつ俺の車に乗り込み、ほぼ同時に運転席と助手席のドアが閉まる。

 そして俺がシートベルトを締めかけたその時に、

「あの、隆宏さんっ」

 ――ほら、思ったとおりだ。

 藍子が俺の名前を、不意を突くタイミングで呼んだ。

 もちろん俺はその奇襲攻撃を読みきっていたし、どっかで来るだろうとしっかり心の準備もしていた。彼女の性格上、本当に真面目に練習してくるだろうこともちゃんとわかってた。

 実際、今の藍子の声は裏返ってなかったし、噛んでもいなかったし、早口だがはきはきとした声で、こっちが吹き出しちゃうような要素はまるでない。

 なのに呼ばれた途端、口元がじわじわと、だらしもなく緩んでくる。

 それから心臓がどきどきする。何こいつ練習頑張りすぎだよ可愛すぎんだろって、性懲りもなく単純明快にときめいてる。心の準備はどうした、何の役にも立ってないじゃないか。

「お前な、まだ会社の中だぞ」

 車は駐車場に停めたままだ。しばらく出せそうにない。

 で、俺の表情とは裏腹の文句に対し、藍子は申し訳なさそうに答える。

「あ、その、退勤後だからいいかなって思ってしまったんです」

「いや、駄目だと言いたいわけじゃないが……相変わらず不意を打ってくるよな」

「す、すみません。びっくりしましたか」

 びっくりは違うな。驚いたのとはまた違うどきどき感を味わった。藍子の言動一つ一つで自動的にときめいちゃう仕組みに、身体が躾けられたみたいだ。

 俺は余裕を装うべく、黙って締めかけの――そうだ、今の今、この瞬間まで締めかけのまんまで放置していたシートベルトを、取り繕うように締めた。

「練習したか」

 すぐに藍子がぶんと頷いた。

「はいっ。家で、ばっちり練習しました」

「面白いよな。人の名前呼ぶのに家で練習してくるんだからな」

 藍子ならそういうことはしそうだ、と想像がついてしまう。

「一体どんな練習をしたんだ」

 次に尋ねると、藍子は素直に答えてくれた。

「はい。まず、いただいた名刺を音読することから始めました」

 音読と来たか。それは確かに正しい自習の姿ではある。

 ただ、実家住まいの奴がそんな練習をしてるとか、家族が見たらどう思うんだろう。俺なら、もし見られたら軽く一ヶ月は引きこもる。

「……親御さんに怪しまれなかったか」

「そこもばっちりです。家族に怪しまれないよう、ドアを閉め切った自分の部屋でぼそぼそと繰り返しました。そうしてお名前を頭に叩き込んだ後は、枕に向かって小声で呼びかける練習をしまして――」

 やたら手際がいいのが面白おかしい。コントの泥棒のようにこそこそと、家族の目を盗んで練習する藍子を思い浮かべるだけでツボすぎて、俺はしばらく声を立てて笑った。ハンドルに突っ伏して腹が痛くなるまで笑った。

「お前本当に面白いな。可愛さと面白さの両方が揃ってる女なんて、そうそういないぞ」


 好みとは違う、と思ったことは何度でもある。

 だが多少はある不満や物足りなさを補って余りあるいいところが、藍子にはすごくたくさん存在している。常に抱きしめて磨り減るほど頬ずりしたくなるような可愛さはもはや言うに及ばず、腹いっぱいの笑いを提供してくれる面白さで退屈もせずに済む。

 俺を懸命に好きでいてくれるところ、俺の為にいろいろと取り組んでくれる一途さはいつでも幸せな気分にさせてくれるし、そして若さと真面目さが与えもうた伸びしろは、五年十年二十年後の将来性を俺に見せてくれる。

 去年の五月に顔を合わせた頃の彼女が、俺を名前で呼ぶようになるなんて、誰が想像できただろう。

 こんな調子でどんどん成長していけばいい。


 俺に誉められて、藍子はちょっとはにかんでいる。

「あ、ありがとうございます、……隆宏さん」

 そしてもう一度名前を呼んできたから、何だかもうむずむずしてきて、頬っぺたとか顎とか痒くなってきた。もしかして俺、相当にやけてんのかなとバックミラーをちら見する。酷かったので一秒で見るのやめた。

「これはこれで、何かこう、落ち着かない気分になるな」

「やっぱり、社外でするべきでしたか?」

「と言うより、早くたくさん呼ばれたいと思ってな」

 放送禁止コードにも引っかかりそうなこのだらしない顔を、藍子以外には見られなくても済むような日に、彼女しかいないところで、もっとじっくり呼ばれたい。そう思う。

「それでしたら今度から、頻繁に呼ぶようにします!」

 藍子がわかってない様子で張り切る。こういうところはまだまだ鈍いよなあ。

「いやそうじゃなくて……ん、まあいいや」

 俺もその説明は置いておくことにする。これからゆっくりわかっていくだろうから、それはいい。

 今日の用事は名前を呼んでもらうことだけではないのだし。

「ところで、渡したいものがある」

 改めて、スーツのポケットから合鍵を取り出す。

 手品師並みにもったいつけて握り拳の中に隠しつつ、藍子の手首を取り、手を開かせ、その中にそっと握らせる。

 冷たい金属がゆっくり受け渡されるまで、藍子は物珍しげに目を瞠っていた。タネも仕掛けもないわけがないのに、何かを見極めようと一生懸命だ。

「ホワイトデーのお返し。失くすなよ」

 そう声をかけると、はっとしたように手の中を見る。そして中身の鍵に気づく。

「これ、何でしょうか」

「合鍵だ」

「へえ……どこのですか?」

 お前、俺から貰っといてそんなことを聞くか。

「どこのってお前、俺の部屋以外のどこが考えられる」

 まさか合鍵を貰うって意味、わからないわけじゃないよな。藍子も二十三歳とは言え、ずれてるところも大いにあったりするから、不安になって聞いてみた。

「俺だって、何にも考えてない相手にこんなもの渡したりはしないからな。どういう意味かわかるだろ?」

「え、あの、その、えっと」

 言葉に詰まってる様子を見るに、わかってないというほどではないらしい。安心した。

「結婚を前提に考えてるってことだよ」

 俺は説明を続ける。

「今度から、親御さんに聞かれたらそう言え。もちろん『必要とあらばいつでも挨拶に来させる』ってな。いい加減な付き合いだとは思われたくない」

 こんだけ真面目なお嬢さんだ、親御さんだって真面目で礼儀正しい方々に違いない。俺が娘さんの交際相手として、近い将来に結婚相手となる人物として信頼に値するってところを、しっかり伝えておかなければならない。

 当然、俺だって藍子を信頼している。そうじゃなけりゃ鍵なんて渡さない。

「それから、俺のいない時に部屋に来てもいい。いつでもいいから、適当に荷物を運び込んでおけ」

「に……荷物、ですか? それって」

 藍子の思考プログラムが俺の言葉に追いついてない。いっそ混乱したままでもいいから詰め込んで保存しておけばいい。後で順を追って実行させるから。

「あの可愛いルームウェアとかな。俺の部屋に置いとけば、いつでも泊まりに来られるだろ」

「え、そ、そんなっ」

「こっちは一晩くらいじゃ足りないんだよ」

 呻いてから気づく。

 ああこれは、霧島にしたり顔されるコース確定だ。

「俺もようやく半同棲のありがたみが理解できそうだ。――そういうわけだから藍子、結婚するまでは頻繁に通えよ。合鍵渡したんだからな、有効に活用しろ」


 そんなにすぐ結婚できるもんじゃないってことはわかってる。

 俺はそういう歳でも、彼女は違う。まだ二十三歳だ。早すぎるってわけでもないが、しかし急ぐ必要だってない。

 だから結婚するまででも、空いた時間にはいつでも一緒にいられるように。もうお互い顔合わせない日は全然ないんじゃないかってくらい二人でいたい。朝から晩まで、真夜中にふっと目を覚ましてもすぐ隣に藍子がいる、みたいな生活がしたい。二人でならどこへ出かけても、ちょっとした買い物程度でも楽しいし、何食ったって美味しい顔が見られるし、どこへも出かけなくたって絶対に幸せだ。合鍵はそんな夢の生活を現実にしてくれるはずだ。


 藍子は手のひらに載せた鍵を、夢から覚めたての顔で見つめている。

 しばらくしてから、恐る恐る聞いてきた。

「い、いただいてもいいんですか、本当に」

「馬鹿。冗談でこんなもん作ってくるか」

「そうですよね……あの、じゃあ」

 五本の白くて細い指が、手のひらの鍵を優しく包み込んだ。親指を中にしまわない握り方が、女の子っぽくてやけにどきっとする。爪がつるつるしてるのも可愛い。

「ありがとうございます。大切に、します」

 藍子が嬉しそうに笑う。俺もパブロフの犬みたいにつられる。

「大切にするだけじゃなくて、ちゃんと使え」

「も、もちろんわかってます!」

「何なら休みごとに来てもいい。逆にあんまり来なかったら拗ねてやるからそこは肝に銘じておけ。金曜の夜にお前を攫って帰るくらいのことはするぞ、俺も」

 こう見えても寂しがり屋さんですから。めっちゃくちゃ構われたいし構いたい人間ですから。放置なんてしてみろ、反動で週末は一歩も部屋から出さない、なんてことになりうるぞ。何もなくてもするかもしれないけど。

 ともかく、受け取ったからには覚悟決めて、生涯俺に付き合っていただこうか。

「何か質問その他、言いたいことはあるか」

 俺が尋ねると藍子は少し考えてから、真剣な表情で言ってきた。

「私、隆宏さんには一生敵わない気がします」

 その発言には心からの異論がある。

「俺に始終不意打ち食らわせてるお前が言うな」

 敵わないのはどう見たって俺の方だ。

 全く手も足も出ないってほどではないものの――あえてない、としておく。力技を用いれば俺だって藍子の一人や二人は勢いで押し切れる。そこはまさしく年の功ってやつ。

 でもふとした時にやっぱ敵わないな、って思ったり、弄ばれてんな、と実感したりする。これが同い年だったらまあわかるんだが、七つも下じゃちっとも格好つかないから困る。今更か。

 お互い、一生敵わないって思ってるくらいがちょうどいいのかもな。

 藍子がなぜか、愉快そうにくすくす笑っている。

 何を考えてるのか、間違いなく俺のことなんだろうが、愉快そうにってのがちょっと癪だ。でもいい、俺も笑っておく。

「今年度は大変お世話になりました」

 それから、折り目正しく挨拶をされた。

「こちらこそ。お蔭で三十になってから、全くもって退屈してない」

 俺も素直に応じた。

 三十一歳まで残り四ヶ月を切ったが、去年に比べるとさほど憂鬱じゃなかった。理由は説明するまでもない。

「その……来年度も、これからも、よろしくお願いします!」

 彼女がそう言って、可愛らしく小首を傾げた。

 それがいかにも仕事中の態度とは違う、プライベート用のご挨拶って感じがして、俺は早速でれでれしたくなる。私的な藍子、っていうのがまた何かいいよな、俺専用って感じがして。

 いや実際俺だけのものですがね。他の奴の出る幕なんて端からない。名前は書いておけないから、もっともっとわかりやすく俺しか見てない感じになっちゃえばいい。

 俺も、お前しか見てない。

「ああ。よろしくな、藍子」

 そういう気持ちを込めて、挨拶に応じた。


 かくして恋人としての藍子は可愛くも著しい成長ぶりを見せてくれたわけだが。

 営業課ルーキーとしての小坂は、どう変わったかと言うと――。


「じゃあ、主任。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げてから、彼女は白い壁の前に立つ。

 四月某日。社会人二年目を迎えた小坂に対し、かつての約束を果たす時がやってきた。

「何せ約束ですからね。可愛く撮らないと駄目ですよ、先輩」

 デジカメを構える俺のすぐ横では、霧島がいつかのように小うるさいことを言っている。

 蹴飛ばしてやろうかと思いつつ、俺はモニターを覗き込む。名札と名刺用の写真を今年度版にバージョンアップしなければならないので、写真撮影に勤しんでいるところだった。


 画面に映っているのは姿勢よく立っている小坂だ。

 見た目は去年配属したての頃とそう変わっていない。やけにちっちゃく見えるのも相変わらずだし、髪の結び方を毎日のように変え、おしゃれに余念がないのもそうだ。それでもスーツに着られている感はそれほどなくなったように思えるし、何より写真を撮られようとしている姿から緊張感が目減りしている。

 無事にルーキー卒業と相成った彼女だが、営業課に今年度の新人がやってくるのは五月だから、今のところはまだ一番の若手として可愛がられている。撮影時にギャラリーが集まっちゃうのも去年と同じで、外野のくせに少々やかましい。


 おまけに今年は、声の飛ぶ方向が間違っている。

「ほら約束果たす時ですよ、主任頑張ってー!」

「去年から言ってましたもんねー可愛く撮るって。これは仕上がりが楽しみですね!」

「一年越しの約束を叶えてあげる、なんてロマンチックですよねー」

 口々に好き勝手なことを、俺に対して言ってくる。

 それで俺は悔しさと気恥ずかしさとを誤魔化す為にわざとしかめっつらを作る。でも、モニター越しに見る小坂は何だかもじもじと、くすぐったそうに笑っていて、その可愛い顔を見ると外野の声なんてどうでもよくなってしまう。

「じゃあ、撮るぞ」

「はいっ」

 声をかければ元気な返事だってくれる。

 その後でちゃんと、証明写真らしい真面目な表情も作ってくれる。

 そうして去年よりもずっとスムーズに撮れた写真は、モニターの中で静止画像として残り、

「……うーん」

 勝手に、いち早く覗き込んできた霧島が、生意気にも唸る。

「これはもうモデルさんの問題ではなく、そもそも先輩の腕が」

「違うって! こんなもんだろ、証明写真って言ったら!」

 可愛さの点では、やっぱりどうしても本物に敵わない、という結果が証明された。

 断っておくが俺の腕が悪いわけじゃない。去年よりは硬くも暗くもなくちゃんと写っているし、初対面の相手に渡すなら遜色ない出来だ。

 しかし小坂は笑っている顔が一番、最高に可愛いのであって、それを無理に笑わせすぎないようにと指示したら可愛さだってちょっとは少なくなっちゃうだろ。本物より可愛い写真なんて撮れっこないだろ。こういうもんなの、名刺の写真は!

「あ、私も見ていいですか?」

 壁の前から離れた小坂が、ぱたぱたこっちに寄ってきた。俺がデジカメを見えるように傾けてやれば、霧島と一緒になって覗き込み、その後で嬉しそうな顔をする。

「ちゃんと撮れてますよ。ばっちりです!」

「そうですかね……遠慮しないで、撮り直せって言っていいんですよ小坂さん」

 霧島が口の減らないことを言ったって、小坂はかぶりを振るばかりだ。

「去年よりもずっといいです、主任にお任せしてよかった!」

 俺も霧島の言うことにはつい反論したが、可愛さが足りないのは事実だと思ってる。もう一回くらい撮ってみて、よりいい方を使うとかでもいいんじゃないかと、言ってみた。

「本当に遠慮は要らないんだからな。もう一回くらいなら撮ったって」

 それでも小坂は首を縦に振らない。

「十分です。是非これでお願いします!」

「いいのか? 可愛く撮ってやるって約束したのに」

「あ、可愛さはその……素材のよさを最大限引き出していただけたと思ってます」

 優等生的なコメントの後で、照れながらこう付け加えてきた。

「これ以上可愛く撮っていただくなら、私も頑張らないと……というわけでまた来年、よろしくお願いいたします!」


 小坂の撮影が終わり、彼女が自分の席に戻ってしまった後で、こっそり霧島が話しかけてきた。

「来年の約束もしたんですか、先輩」

「まあな。来年は、スーツ姿じゃないけどな」

 俺の答えに奴が、訝しそうな顔をする。

 だから自分のことみたいに得意になって言ってやる。

「あいつならドレスでも打掛でも、どっちでも似合う」

 いいだろ、花婿が花嫁さんの写真を撮りまくったって。


 本物の可愛さにはいつだって敵わないだろう。しかしこれからも毎年、春先に彼女の写真を撮って、あとで二人で眺めては、山と積もった思い出話をするのも悪くないと思う。

 去年と今年の分は確保済み。

 来年の約束だってちゃんと果たすつもりだ、霧島に話した通りに。

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