世界で一番すきなひと(12)
結論から言うと、安井が悪い。
三月十三日、土曜日。
霧島夫婦の新居まで藍子と二人、電車に乗って向かう途中だった。
「実は……その、安井課長から伺っていたんです」
藍子は、俺の目を覗き込むようにして言った。
聞いた瞬間からもう、非常に嫌な予感がした。
「何を?」
「主任が、元気がないようだって」
その時の俺の、煮えたぎるような気持ちがわかるだろうか。
なぜそれを、優しくてちょっぴり心配性な藍子の耳に吹き込んだのか。そんなもん、こいつが黙って聞いてるだけってことないだろ。黙ってろあのお節介野郎、昨日かけた呪いの効力、そろそろ発揮され始めてやしないだろうか。
今日の藍子は春っぽいピンクのコートを着ていて、ピンクが似合う女の子はいいもんだと思う。目元もほんのりパステルカラーに色づいていて、当たり前だけどオフの時は化粧だって違うんだな、としげしげ眺めたくなる。髪型は、後ろでぐるんと巻いてるみたいに結んでて、毛先がしゃかしゃか上に向いてる、あの可愛いんだけど名前の一向にわからない結び方。ぱっちん留めが八匹集まってキングになったみたいなでっかいやつで、そのまとめた部分をぎゅっと留めてて、それがまた髪型的にもうなじ的にも大変よろしい。電車の横長の座席に隣り合って座っていると、あちこち観察できていいものだった。
いつだって可愛いんだけど、いつでも『今』が一番可愛い。
そんな藍子の表情を、よりにもよってこんなにめかし込んでる時に曇らせなくたっていいのに。それもこれも全部安井が悪い。
「俺がか? いや、元気ないって言うか……」
打ち明けるまいって思ってたことを突っつかれて、俺は内心ぎくりとした。
すると藍子は真面目な口調で続けてきた。
「言われて私も、とっさには思い当たることもなかったんですけど、もしかしたら年度末だからかなって思ったんです」
心配されてるな、と場違いな嬉しさが込み上げてくる。
俺は藍子を目の端に見る。彼女も俺を一途に見上げていて、心配されるのは嬉しいものの、藍子を無闇に不安がらせるのもかわいそうだし申し訳ない。ああもう、どうしろと。
「疲れてないわけじゃないが、それとは違う理由だろうな」
とにかく安心させようと、俺は考えながら口を開く。
「違う理由……?」
「ああ。いろいろ、考えてることがあって、だから安井には元気のないように見えたんだろう。心当たりはある」
安井マジ外道。同じ目に遭ってみろってんだ。
そもそもどうして藍子に話したりしたんだろう。そこまで元気なく見えたのか俺。あいつはあいつなりに、俺を心配してくれた、なんてことは。
いや、混じりっけなし百パーセントのお節介って可能性も十分ある。あいつは所詮そういう男だ。
「あいつも大概お節介だよな。そんなこと、わざわざお前の耳に入れなくてもいいのに」
俺が困ってちょっと笑うと、藍子は横向きの姿勢から身を乗り出すようにして、
「あの、差し出がましいようですけど……悩み事、ですか?」
より一層本気の面持ちで尋ねてくる。
うわ、やばい。刑事ドラマの落としの達人よりやばい。こんな顔して詰め寄られたら俺の落雁並みの根性なんて、あっという間にほろほろ崩れて洗いざらい白状させられてしまう。
言うのか、あれを。
言えるのか。なまじ愛の告白よりよっぽど言いにくい例の件を――藍子だって聞いたら間違いなく狼狽するくせに。言っていいのか。
「悩みってほどでもないな。結構、些細なことだ」
「わ、私でよければ、聞くだけなら出来ますっ」
彼女は懸命に食い下がってくる。きりっと真っ直ぐな眉の下、両目は何の澱みのなくきらきらしている。電車の中に窓の形をした光や影が落ちる度、その目も揺れるように輝いていた。
汚れた大人だなあ俺、と彼女とのギャップを見せつけられる一瞬。
でも、汚れない大人もいないよな。生きてく上できれいなものばっかり見て、悪いこととか何にも知らないでいる人間なんているわけがない。俺の場合はそれがちょっと早すぎて、藍子の場合は遅すぎるんじゃないかってだけだ。藍子だっていつかはこんな目をしなくなるんだろうし、それでもずっと俺のことを見てくれてるんだとしたら、それもまた堪らなくいい、と思う。
俺は、何の変化もない藍子になんて興味ない。俺といるうちにどんどん変わってって、多少なりとも汚れちゃって、悪いことや人には言えないこともたくさんやって、それでも絶対可愛いはずの藍子と一緒にいたい。
だから、いっそ話した方がいいのかもしれない。
「そうか?」
電車に乗ってからずっと、繋いできた手を握り直してみる。
藍子の肩がびくりと跳ねた。
途端に心細げになる表情を見て、決めた。
「じゃあ、今日の帰りに話す」
話す。その方がいいと思ったから。
ただ、今は無理だ。電車の中だからじゃなく、俺がまだ踏み切る度胸を持ててないから。
一応、あるんだよこんな駄目人間にも、照れとか恥じらいとか――単語そのものは確かに似合わない代物ばっかだが、俺だってこんなふうに思う日が来るとは思ってなかった。
「素面じゃ到底言えないからな」
ちょうど、これから飲み会だ。酒が入れば少しは言いやすくなるかもしれない。勢いでばーっと暴露しちゃうくらいがいいよな。
「藍子」
それで、声をかけといた。
「そんなに心配しなくてもいい。本当に大したことじゃないから」
「え?」
面を上げた藍子がきょとんとする。
「聞いたらお前も、何だそんなことか、って思うはずだ」
実際聞いたら何と言うかはわからないが、大いに動揺するのは間違いない。それは別に仕方ないからせめて、前向きに受け止めてくれたらありがたい。
そして霧島の新居で、程よく酒を飲んだ帰り道――。
二人で手を繋いで、駅まで歩く道すがら、俺は酔った勢いで打ち明けた。
「頼みがある」
一度、藍子の顔を見てから、真っ直ぐ前を見て言葉を継ぐ。
「この間も言ったが、『主任』って呼ぶの、止めにしないか」
彼女からの返事はなかった。俯いたらしいのが横目に窺えたが、頬が赤いのは霧島の家を出る前からだ。
多分、俺も藍子のことは言えなくなってる。千鳥足になるほどではないものの、三月の夜風が涼しくて、気持ちいいくらいだった。
駅に続く道は人影もなく静かで、穏やかだ。ついついのんびり歩きたくなる。
「しょうもない話なんだがな。勤務中に呼ばれると、駄目だ。どうしても思い出す。他の奴に呼ばれてもそうだから、お前に呼ばれた時なんて、一気に仕事が手につかなくなる。かと言って勤務中はそう呼んでもらうしかないしな」
おっさん連中に呼ばれて強制的にお前のことを思い浮かべる。この食い合わせの悪さ、想像してみて欲しい。腹がむずむずするだろ。
「だからせめてプライベートでは、違う呼び方をして欲しい」
俺の言葉を、しかし藍子は生真面目に受け取ったらしい。
「あの……私、ご迷惑を掛けてましたか」
こわごわ聞かれて、ちょっと困った。
「迷惑ってほどじゃない」
そういうわけでもないんだよな。記憶としては、思い出としては、むしろ嬉しくて幸せなくらいの素晴らしい出来。
問題なのはそれを、勤務中から切り離せなくなってしまったことであって。
「ただ、お前があんなに呼ぶからだ」
「え……や、やっぱり私のせいですよね。私が主任に酷くご迷惑を――」
藍子は俺の言わんとしていることをよく理解していない。焦った様子でお詫びモードに入ろうとしているから、こっちだって焦った。そうじゃない。
「何か誤解してないか」
結局、ストレートに説明してやんなきゃ駄目か。
酒が入っててもなかなか、口にしにくい。これ、誤解もできないくらいにはっきりすっぱり話したとして、勤務中のもやもやよりもずっと鮮明にあの夜のことを思い出した俺に対して、お前はちゃんと責任を取ってくれるのか。そういう気分になっちゃっても放ったらかしとか、普通にありそうで恐ろしい。
「俺の言ってる意味、ちゃんとわかってるか?」
「ええと、わかっていないような気がします。一体どういう意味ですか」
暢気なものだ。藍子は自信なさそうにそんなことを言う。
こっちの覚悟もいよいよ決まる。
息を深く吸い込んでから、一気にぶっちゃけた。
「思い出すってのはな、先月の十三日のこと。お前に『主任』って呼ばれるだけであれこれ甦って駄目になる。だからせめて勤務時間外は他の呼び方をしてくれ。じゃないとずっと、仕事が手につかない」
いつの間にか、お互いに足が止まっていた。
水銀灯の光をスポットライトみたいに浴びた藍子は、立ち止まった後もしばし思案の間を置いてから、やがて何かを察したらしい。その瞬間、一歩身を引くようにして叫んだ。
「――や、やだ、変なこと言わないでくださいっ」
「変なことじゃない、事実だ。こっちは本気で差し支えてんだよ」
「そんなこと、きゅ、急に言われると困ります!」
「だから言ったろ、素面じゃ無理だって。俺だって自分がここまで重症とは思わなかった。もう大変なんだからな、瞼の裏っ側にお前の顔がちらちらしてて」
ここ一ヶ月の俺の苦悩を理解して欲しい。仕事さえなければ最高に幸せな連続フル再生の日々となっただろう、しかし脳内記録を再生しちゃ駄目な時だって、社会人にはあるのだ。
「じゃ、じゃあ、安井課長のおっしゃってたのって……」
藍子は安井の言葉も真面目に受け止めてたんだろう。よもやこんな理由とは思いもしまい。
「多分そういうことだろうな。誰かに呼ばれる度に、お前のことを思い出して、他まで構ってられなかった」
元気がない、って指摘もそう間違ってはいない。事実、体力も気力も削られてたんだからな。
そこまで駄目押しされれば藍子の覚悟も決まったらしい。まだどぎまぎした様子ながらも、息を吐いてから問われた。
「どうお呼びしたらいいでしょうか、その……」
「何て呼びたい?」
俺はすかさず聞き返す。
藍子なら、呼び捨てには絶対できまい。しかしここで苗字呼びとかするような気の利かなさは、いくらなんでもありえないはず。
と考えた数秒後に、
「ええと、い、石田さん……とか」
ありえない呼び方をされた。べっこりへこんだ。
「そんな他人行儀な呼び方、へこむから止めてくれ」
「いけませんか」
「駄目。却下だ」
ないだろ普通。付き合ってる相手を石田さん、とかさあ。そりゃ元々苗字にさん付けで呼んでる仲とかだったらまだわかるが、役職呼びからそっち行くって、どんな超進化だよ。
だが、藍子もそこまでできない子ではないはず。失態も挽回してくれると信じてる。
「お名前で呼んだ方がいい、ってことですよね」
次にはちゃんとそう言ってくれたから、来たぜ、と俺は一人にやにやした。
「そうだな。そっちの方が恋人らしい感じがする」
お互い名前で呼び合って、そして心ゆくまでいちゃいちゃしよう。その為にもここはレベルアップすべき時だ。頑張れ藍子。
うろうろと視線を泳がせていた彼女は、どこかで決意したんだろう。直に顔を上げた。
「あのっ」
「どうした、藍子」
「ええと……」
口は開いたが、俺と目が合うと途端に尻込みを始める。もごもご言った後が続かない。
「あの……」
立ち止まったまま、水銀灯の光を浴びた彼女は、俯きたくなるのを必死に堪えているようだった。ぎくしゃくした動きで口を開けかかったり、閉じたりを繰り返している。そういう姿は入社したての、五月の頃とあまり変わらない。
でも、あの頃から何にも変わってないってことはないだろ。
いつまでもちっちゃく頼りなく見えてる、ルーキーのままってこともない。
「その……」
ためらう声すらかすれてきたから、俺は励ますつもりで繋いでいた手に力を込めてみた。
多分それでスイッチが入った。軽く、手を握り返してきてくれた。表情もがらりと変わり、やけに勇ましい顔つきになる。
そして、待ちに待った何秒後か何十秒後かに、
「た、隆宏さんっ」
裏返りまくり震えまくりの声が俺の名前を呼んだ。
勇ましい顔したって、声は心に正直だったらしい。緊張がありありとわかる可愛い声だった。
一応呼んでもらえたんだから男らしく我慢しようと思ったが、藍子と目が合った瞬間、彼女がうわあどうしようって顔をしていたのを見たら駄目だった。ああもう本当にこいつめ可愛すぎるって思いと共にうっかり吹き出してしまった。
「わあ、笑わないでくださいっ」
「いや悪い、可愛いなと思ってな。本当だって、馬鹿にして笑ってるわけじゃないぞ」
藍子なら全部可愛い。それはいつも感じてる。俺の為にって頑張ってくれたことも知ってる。ちゃんと認めるから、げらっげら笑っちゃったことは許してください。
彼女は俺のけたたましい笑いにショックを受けていたようだ。やがて、重々しく宣言された。
「私、家でも練習してきますから」
「は? 家でって、何をだ」
「主任のお名前を呼ぶことです」
さすがに笑いも引っ込んだが、藍子は本気のようだ。さっき以上の勇ましさで付け加えてくる。
「淀みなく、自然に、ちゃんと呼べるように練習してきます。それまでは不格好な呼び方かもしれませんけど……」
「練習ってお前な。そこまで大した話じゃないだろ」
名前だぞ。何回か試してるうちにすらっと呼べちゃわないか。そんな、社訓でも暗唱するような話とは訳が違う。
「大した話です。主任が私のこと、『藍子』って呼んでくれたみたいに、私も自然に呼べるようになりたいです」
熱く語る藍子。その表情には俺への純然たる好意の他、場の空気にそぐわない尊敬の色も見て取れた。
「主任だって私の呼び方、私のいないところで練習してくださってたんですよね」
「いや、あれは練習ってわけじゃないんだが……似たようなもんか」
「だから私も頑張ります」
彼女の決意はどうにも固いらしい。頑張るようなことかと思わなくもないが、可愛い女の子が俺の為に頑張るって思いを踏みにじることなんて、できないよな、男なら。
「いつまで待てばいい?」
「え、ええと、じゃあ、年度末までには!」
「結構掛かるな」
まだ二週間以上ある。そんなに毎日家練ですか。ある意味、頭下がるわあ。
「す、すみません。でもその日までには、完璧に呼べるようになってきます」
藍子はやる気だ。完璧に、なんて自らハードル上げる真似さえしてる。
そうなるとこっちは女々しいことも言えない。それに俺は、ノーベル忍耐賞の受賞者でもあるからして。一千万クローナを貰える気配は全くないが、ともあれ年上らしく我慢強いところも、ちゃんと待ってられるってところも見せてやらなくちゃいけない。
って、今更だが俺の方が飼い馴らされちゃってるな。
「わかった」
そう答えて、俺はポケットに手を突っ込む。
藍子を喜ばせつつよりこっち側に引き込むつもりで、例のお返しを――合鍵を、今日は持ってきてた。
「だったら俺も、ホワイトデーのお返しは三十一日にする」
上着のポケットにしまい込んだままのそれを、しかし今日のところはお預けってことにしてみる。俺だけが待たされるなんてあまりにも癪だし、それに藍子と来たら頭の中が自主練習のことで一杯のようだ。
「お前の頭の中、既に一杯みたいだからな。今は渡さない方が良さそうだ」
俺のお預け通告に対し、藍子はなぜかびっくりしたようだった。
「お返し……用意してくださったんですか?」
「ああ」
「そんな、だって、営業課でも皆さんからいただいてました」
「俺は個人的にも貰ってただろ? そっちのお返しだよ」
あのタルトだけで満足だったのか。それはそれで嬉しいような、またへこみたくなるような。
でも俺はいろいろ貰っちゃったし。お返しって口実でもないと、合鍵なんて受け取ってもらえそうにないし。だからほら、とっとと自然に呼べるようになってくれ。
「あ、あの、ありがとうございます。すみません、お気を遣わせてしまったみたいで」
藍子は嬉しそうに、落ち着きなく礼やら詫びやらを言ってくる。
「別に遣ってない。それに渡すのは今日じゃないからな、礼はその時でいい」
何だか笑いたくなる。礼だけは気が早いな、貰ってから喜べばいいのに。
それにしても俺たちは、お互い『待て』だけは得意らしい。どっちが名ブリーダーなのやら。
「俺を待たせるからには、しっかり練習してこいよ」
「はい。もちろんです」
力一杯頷いてくれたから、俺も気が済んで、藍子の手を引く。
歩き出す。
さっきよりも強く引いてみたせいか、時々肩がぶつかった。
三月にしては軽装の彼女の肩は、そこはかとなくだが柔らかい気がした。二の腕好きになる奴の気持ちがちょっとわかる。もっとずっと歩いていたくなるが、駅まではそう遠くない。
「どうせ、今日も帰る気なんだろ?」
「えっ、それもその、もちろんですけど」
「泊まってけって言っても聞かないだろうな」
「わあ、む、無理ですよ! だって私、何にも用意してきてないです!」
あたふたと藍子が慌てている。用意ができてたら来たかったのか、などと言葉尻を捕まえてやりたくもなったが、考えてみればそれも大事なことだ。
「わかってる。用意が必要だよな、何事も」
俺も思う。
今日、ここで藍子を連れ帰っちゃったりしたらだ。やっぱりまだ慣れてないからこの間みたいに俺のこと、『主任』って呼んじゃうだろ。そうなるとまた仕事に差し障りがあるから――みっちり練習しといてもらってからじゃないと駄目だ。
頑張れ藍子。
俺は真心と下心の両面から、お前を応援してる。




