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世界は優しいとわらったひと(3)

 その日の夜、営業課行きつけの居酒屋で飲み会が催された。

 小坂は入店する前から既に緊張していたようだったが、例の上座下座は忘れてなかったらしく、座敷に通された後はちゃんと一番下座に座ろうとした――が、すぐに『小坂さんは今日の主役だから』なんてノリで上座近くの席へ連れて行かれてしまった。

 お蔭で俺は、やや離れた下座近くの席から小坂の挨拶を眺める羽目になった。


「今年度より営業課に配属となりました、小坂藍子です」

 起立させられた小坂は両手を腹の辺りでぎゅっと組み合わせ、視線を泳がせつつ挨拶を始める。

「わ、私は営業課員としてももちろんですが、社会人としても一年生なので、いろいろ至らないところばかりかと思います。でも、精一杯頑張ります」

 思っていたよりも、結構型通りの挨拶が来た。

 これなら無難に『ご指導ご鞭撻のほど』でまとめられるし、失敗もないだろう。

 と思った拍子、

「それと――」

 不自然に言葉が途切れた。

 その後、何秒間か沈黙が続く。放送事故みたいな間があり、ルーキーは俯き、次第に室内が気まずい空気に揺れ始める。ざわざわし始める。

 失敗か。思わずひやりとした俺に、小坂はちらっと視線を向けてきた。ああこれはやっちゃったか、助けでも求めてるのかと思いきや。

 目が合うが早いか小坂は、すぐに視線を向こうへ戻して、

「あの、石田主任には『手短に』とご指導いただいていたんですけど、これはどうしてもお伝えしておきたいことなので、もう少しだけお時間よろしいでしょうか」

 急に勢い込んで訴えてきた。

 誰かが、

「いいよー」

 と合いの手を入れる。座敷は一転して軽い笑いに沸き返る。

 小坂は緊張した面持ちのまま、ぺこりと会釈をしてから、続けた。

「先日、主任に名札と名刺用の写真を撮っていただいたんです」

 そんなのは、この場にいる営業課員全員が知っている話だ。何の話だ、と思った。

「主任はすごく努力してくださったんですけど、私は緊張してしまって、結局何だか気負ったみたいな顔で写ってしまいました。それは私の責任であって、石田主任のせいではないです」

 写真の写り具合も皆が知ってる。もっと可愛く撮れたんじゃないの、って霧島以外にも言われた。

「その時に、主任が言ってくださったんです。『来年はもっと可愛く撮るから』って」

 皆が一斉に俺を見た。

 物問いたげな、好奇心に溢れた目だった。

 何だこの空気。俺は目のやり場に困って、とりあえず小坂を見た。

 小坂は俺の視線には気づかない。はにかみながら、酔っ払ってもいないのに頬っぺたを真っ赤にしながら、意外とはきはき話し続ける。

「それで私――私はまだ入社したてで、右も左もわかってなくて、来年どころか明日どんな仕事をするんだろうってことすらわかっていないような新人ですけど、でも私の来年を考えていてくださる方がいるんだってことが、嬉しかったんです。私にも来年があるんだってこと、時々忘れそうになったり考えられなくなったりしますけど、そういうことも覚えていてくださる方がいたから、私も頑張ります」

 このいっぱいいっぱいの新人はいつだってやる気が空回りしている。真面目すぎて潰れるんじゃないかって、こっちが焦りそうになるくらい余裕もない。

「それで来年は、もっといい写真にします。可愛くは……元がこうなので、写れないかもしれませんけど、せめて営業課員として恥ずかしくない立派な写りになるよう、頑張ります!」

 そんなんだからこの場の空気だってわかってない。自分と同じように皆が真面目だと思っている。

「優しい方たちばかりの職場で、幸せです。これからもよろしくお願いいたします」

 小坂は最後こそ複数形の言い回しで、笑って挨拶を締めた。

 が、さほど真面目でもない連中は『来年は可愛く撮る』なんて口説き文句未満の台詞だけを捕まえて、何やらにやにやと俺の方を見ている。

 その中でも一番真面目じゃない俺は、居た堪れないのか嬉しいのか面食らっているのか、自分でも掴めない心境でいた。

 とりあえず、そういうのは二人きりの時に言って欲しかった。


 結局、小坂はその挨拶だけで燃え尽きたらしい。

 それからはもうろくに飲みもせず食いもせず、話しかけてくる連中に行儀よく返事だけをしながら座り続けていた。あの食いしん坊が箸すら持たずにいるっていうんだからよっぽどだ。腹減らしてないかと離れた席から気にしつつも、居酒屋にいるうちは特に何もできなかった。


 飲み会がつつがなく終わり、店の外で解散した後、俺はすぐに小坂を探した。

 小坂の方も俺を探していたらしい。見つけた途端にぱっと笑顔になって、とことこ駆け寄ってきた。

「主任!」

 結んだ髪を左右に揺らして、小坂は俺の目の前に立つ。その瞬間はものすごくいい笑顔だったのに、急に思い出したように照れた面持ちになる。

「あ……えっと、挨拶、無事にできましたよ!」

「知ってるよ。見てた」

 あの場にいただろと苦笑したくなる。

 とは言え、わざわざ報告に来る辺りは可愛いなとも思うわけだが。

「とりあえず、噛まずには言えてたな。よくやった」

「ありがとうございます!」

「でも人の名前出す時は前もって教えといて欲しかった。ちょっとびっくりしたから」

「す、すみません」

 たちまち小坂はしゅんと項垂れる。

「皆さんにもあの後、言われました。主任の話ばっかりになってたって」

 だろうな。言われてもしょうがないと思う。

「でも、自分の言いたいことを考えてたらあんな風になったんです。社会に出たらいろいろすごく厳しいんじゃないかなって思っていましたから、優しい方ばかりでよかったなあって」

 真面目な言葉の後、表情がにわかに硬くなり、

「それに、嬉しかったのは本当なんです。主任が言ってくださったこと」

 ぎこちなく、手探りの口調で語り出す。

「私、失敗しちゃいけないって思ってました。失敗するのが怖くて、何にもできないのが不安で、早く一人前になりたくて。それは今でもそうですけど、自分に余裕がないのも自覚してるんです」

「そうだな」

 心の底から肯定してやると、小坂は恥ずかしそうに首を竦めた。

「はい。でも、主任に教えていただいたんです。来年があることも、失敗したくないって頑なになってても駄目だことも」

 小坂は、背はそんなに低くない。でも奇妙に小さく見えてしまう。ぴかぴかのリクルートスーツに着られたままの新人。

「失敗はもちろんしない方がいいですけど、でも今日はちょっとくらい失敗してもいいかなって……そう考えたら少し気が抜けて、思ったより挨拶もちゃんと言えました。主任に、その、覚えていていただけるならって……」

「そんなに弱み握られたかったか」

 からかい半分で言ってやると、今度は耳まで真っ赤になる。

「あ……や、そういうことじゃないですよ! 確かに主任が笑ってくださったら嬉しいですけど、そういうのもいいなって思っちゃいましたけど、でもどうせならばりばり働いているところを覚えていていただきたいですから!」

 思っちゃったのか。しょうがない奴め。

「それであの、明日――はお休みですから、来週、ですね。主任、来週からもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

 小坂は無理に話をまとめるみたいに言い切ると、また大きくお辞儀をした。

 眩しいくらいにぴかぴかの、羨ましくなるほど若くて、可愛いルーキーだった。

 居酒屋のあるこの一帯はそれほど大きくもない繁華街で、さっきまでいた店の看板やあちらこちらのネオンが夜の空をぼんやり照らしている。

 俺たちの立つ歩道は、ひっきりなしに人の行き来があっていささか騒がしい。

 この場に馴染まないちっちゃな彼女が控えめながらも嬉しそうな笑顔を上げた時、それほど酔ってないはずの俺もさすがにぐらっと来た。

 だから、そういうのは、人のいないとこで言えって。

「小坂、お前電車だっけ」

 課の他の連中はもうあらかた帰ったはずだ。その辺で覗かれてる可能性もなくはないが、それなら場所を移せばいい。

「え? あ、はい。電車で帰ります」

 小坂は何にもわかってない顔で答える。

「なら、――」

 終電までまだ時間もあるし。

 俺がそう言いかけた時。

 がらりと、傍の居酒屋の戸が開いた。

「――あれ、先輩。待っててくれたんですか?」

 霧島の声が、店の騒がしさや料理の匂いと一緒くたに割り込んでくる。

 振り向くと、なぜか霧島が店から出てきたところだった。もう全員帰ったんじゃないかと踏んでたし、こいつのことなんて頭にもなかったから、俺は素直にびっくりした。

「待つも何も……どうしてお前、まだ店に?」

「俺、今日幹事ですから。会計して、領収書貰ってました」

 奴の手には手書きの領収書が吊るされている。驚く俺を睨んだ奴の目は、次の瞬間でようやく小坂の存在に気づいて、あれ、と怪訝そうに見開かれた。

「お疲れ様です、霧島さん」

 小坂は明るくそう言った。そして俺たち二人の顔を見比べるようにしてから、

「じゃあ私、お先に失礼します!」

 にっこりと、でもいくらか疲れた顔で挨拶をして、くるりと踵を返す。

「一人で大丈夫か? 何なら駅まで……」

 慌てて呼びかけると小坂は身体ごと振り返った。

「そんな、お気遣いなく! 私は全然平気です、そういう運はいい方なんです!」

 いやそれは運とかって問題じゃないだろ。

 とは言え爽やかに言い切られた後では見送るよりしょうがなく、あっという間に小坂は人混みの中へと消えてしまう。それはもう名残を惜しむ暇もないほどの速さで振り切られた。

 呆然としていればやがて霧島が、低い声で尋ねてきた。

「俺、邪魔しました?」

「ああ……いや、どうなんだろ」

 こっちはこっちで微妙に煮え切らない返事になった。

 確かに小坂は、そういう運がいいのかもしれない。


 飲み直したいから付き合ってくれと言ったら、霧島は二つ返事でついてきた。

 二人で適当な店に入り、適当に注文を済ませた。

「今日はあんまり飲めなかったからな」

 俺が言うと奴はすかさず突っ込んでくる。

「小坂さんが心配だったんですね?」

 その質問には面倒だったので答えなかった。

 すると向こうは向こうで勝手な解釈をしたらしく、

「まあしょうがないですよね。今日の主役ですもんね、皆にもずっと囲まれてましたし……でも先輩、だったらどうしてあんな端っこの席に座ってたんですか?」

「何が?」

「席ですよ。小坂さんの隣にいればよかったのに。何もあんな下座にいなくたって」

「……何となく」

 それは自分でも失敗したなと思ってたところだ。次は気をつけよう。


 と言うか、次、なあ……。

 飲み会のことじゃなく、今度が、果たしてあるだろうか。

 確かにさっきはぐらっと来た。小坂の若さ、可愛さが、眩しくも羨ましくも思えた。弱みを逆に握ってやりたくなった。

 でもそういう考えは、小坂が俺に向けてくる好意とは全く相容れない代物だ。あいつは若いけど、若さ以上年齢以上にこう、何と言うか。さっきの俺を見つけて駆け寄ってきた時の顔とか、わざわざ報告しに来たところとか、言いたいことは言わないと気が済まないらしいところとか、全部本音で話しちゃう垣根の低さとか――可愛いけどな! そりゃもうすっごく可愛いけどな!

 そこまで考えて、俺はふと、以前覚えた違和感の正体に気づく。

「ああそうか、犬だ」

「はい?」

 思わず声を上げれば、グラスを傾けていた霧島が眉を顰めた。

 俺は込み上げてくる笑いを堪え切れないまま奴に向かって訴える。

「犬だよ。ずっと何かに似てるなって思ってた。お前どう思う? 似てるだろ?」

 あのすばしっこさも人懐っこさも可愛いとこも全部犬っぽい。とっつかまえて頬ずりしてやりたい。でも抱き上げたらあっさり逃げられそうな気もする。

「犬って、小坂さんに失礼ですよ」

 霧島は優等生的な態度で俺を非難したが、

「俺はまだ『誰が』とは言ってないぞ。何で小坂だって思った?」

「うっ……それはその、話の流れであの子のことかなと推測したんですよ!」

「失礼さで言ったらお前も大差ないだろ」

「ああもう、いいですよそれで! 俺は先輩みたいな目で小坂さんを見てないですし!」

 突っ込んだらあっさり切れた霧島が、その後でふと、真剣な顔になる。

「でも、どうするんですか。小坂さんのこと」

「どうって?」

「先輩のことだから、据え膳だと思っちゃうんじゃないかなと」

 眼鏡越しの視線は冷ややかだ。霧島も小坂に負けず劣らず真面目な奴だから、ことこういう話題では相容れない。

「そりゃあんだけ可愛かったらしょうがないだろ? 向こうがいいって言ったら手も出るって」

「七つ下だから出さないって言ってたじゃないですか」

「それはそれでいいよなってさっき思った。あの何にもわかってない感じとかな」

「先輩は駄目な大人のいい見本ですね」

 実際、どうなるかはわからないがな。

 さっきみたいに変な気が起きたら次こそ手が出るかもしれないし、でもそれが仕事に差し障ると判断したら、やっぱり踏み止まらざるを得ないだろう。先に小坂の気が変わるかもしれないし――俺の性格とは相容れない真面目さゆえに、あっさり愛想を尽かされたりする可能性だってなくもない。年齢がハードルなのはこっちに限った話でもなし。そして来年のことなんて考えられないのも、小坂に限った話じゃないわけだ。

 ただ、どう転んでもまあいいかと思っている。訴訟沙汰にならない限り、このボーナスステージを満喫しようが自由のはずだ。

「確かに、小坂さんは可愛いですよね」

 霧島は言う。

「『今時の子』で括ったら申し訳ないくらい、いい子だと思います」

 それは思う。今のところ仕事で手を焼かされる羽目にはなってないし、若干融通の利かないところはあるものの、珍しいくらいの優良物件だった。

「まあな」

「だからああいう子は、幸せにならなきゃいけないんですよ」

 自分で言って霧島は一度首を捻り、

「いや、違うな。ああいう子がいつも笑顔で、幸せでいる世界じゃないと駄目なんです」

「世界? 急にスケールがでかくなったな」

「つまり先輩のような大人がのさばる世界は駄目です。猛省してください」

「何だよ、俺だけが駄目人間みたいな言い方すんな」

 実際、理想的な大人になれたとは思ってもいない。俺にも小坂みたいな頃があった、なんて嘘でも言えない。『今時の若い子は』なんて言われた機会はあっても、俺と小坂じゃ通ってきた道が違いすぎる。

 だからこそ、眩しく可愛く見えるのかもしれない。

「そもそも先輩は社会人としての自覚が足りないですよ。明日の日本を担っていく若者を、一時の劣情で毒牙にかけちゃっていいと思ってるんですか」

「合意の上ならいいだろ」

「そうじゃない、そうじゃないですよ先輩! 小坂さんの為を思うならまず節度と責任を持つべきです! 社会人として生きるということは全ての言動に責任が生ずるということでもあってですね――」

 霧島は今更のように酔っ払い始めて、何やら難しい話にシフトしそうな雰囲気だ。長谷さんはこいつを重たいとか思ったりしないのか、どうでもいい心配までしたくなる。


 俺は霧島の話を聞き流しながら、でもやっぱり小坂が可愛いんだからしょうがないだろ、と軽い気持ちで思っている。

 一時の劣情という単語には全く反論できなかったが、そういうもんだとも駄目な大人なりに思う。自分から行こうとはまだ思わない、でもまた機会があれば考える。向こうからアクションがあったら遠慮はしない。そのくらいは普通だろ。

 それに小坂だって、俺といる時は結構嬉しそうだし、笑ってくれてるし、きっと――とそこまで考えて、思い出した。

 記憶の中にある、一番幸せそうな小坂の顔は、社食のAランチを食べてる時の笑顔だった。

「……あれ?」

「どうしました、先輩」

「いや、何か……」

 もしかして俺、南蛮揚げに負けてない?

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