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世界で一番すきなひと(2)

 そうこうしているうちに車は、小坂家の前へと着いてしまう。

 デートで迎えに行く時は、意外と距離あんな、なんて思うのに、こうして送っていくとやたら近く感じてしまう。そしてここから俺の部屋に帰るまでがまた長いんだ。寂しい。


 でも今日は、別れの挨拶の前にこう切り出された。

「すみません、もうちょっと、あと五分だけお時間いただけますか?」

「ん?」

 小坂の申し出を俺は一瞬だけ怪訝に思ったが、すぐににんまりしてしまう。いやもう引き止められるのとか大好きだ。もうちょっとだけ一緒にいたい、なーんていつでも言われたい。

 一応、すぐ目と鼻の先の小坂家を確かめる。

 ご両親の姿がないことを確認の上で、答えた。

「そういうおねだりなら大歓迎だ。……名残惜しくなったか?」

 尋ね返せば小坂は、いつもの困ったような顔をして、言いにくそうに口を閉ざした。別に深刻そうではなく、照れているようでもある表情だ。街灯の明かりがまた青みがかってて、小坂をより白くきれいに見せている。

 俺はいそいそとエンジンを切り、ついでにシートベルトも外した。


 静かになった車内で、小坂が意を決したように口を開いた。

「実はバレンタインについて、お話ししたいことがあるんです」

「何だ、まだ質問があったか?」

「そうではなくて……あの、仕事じゃない方のバレンタインです」

 来た。

 チョコか。チョコの話か。それはもうお前から貰えるものなら何だって貰う所存だが、俺はまずお前の方が――って、いくら何でも早まりすぎか。小坂はまだ何かくれるとも言ってないのに。

 でも言うだろうなと思うから、

「ああ」

 俺は頷いておく。

「今年は上手い具合に日曜日だもんな。何か考えてたか?」

「はい。私、主任に何かプレゼントをしたいなって思ってたんです」

「プレゼントなんていいよ、別に。今月はチョコ用意するのに金かさむだろうし、別に張り切らなくたって」

 ただでさえ金のかかる時期に、これ以上散財させるのも悪い。そう思って俺は告げたが、彼女は彼女で、この日の為に備えてましたみたいに胸を張ってみせる。

「予算については大丈夫です。ばっちりです!」

「そんなこと言われたってな……」

 あ、そっか。金の使い道ってこのことか。いくら用意したのかは知らないがつくづくしっかりしてんなあ。

 俺の欲しいものなんて結構前から一つに絞られてるのにな。

 お前がいい。

「だったら、なるべく低予算で済むプレゼントにしてくれ」

 俺が本心を、あるいは下心を匂わせると、小坂は強気にかぶりを振った。

「お気遣いなく。主任にはいつもお世話になっていますし、それにクリスマスの時とはまた別の、形に残る贈り物がしたいんです」

 小坂は強気に押してくる。一体いくら貯めたんだ、俺の為にわざわざそこまでしなくたって。可愛いけど、嬉しいけど、少しだけ胸が痛んだ。

 ちなみにそんな彼女がクリスマスにくれたものは、鮭だった。瓶に入った鮭フレークだ。美味かったけど、好きな子から鮭を貰ったのは生まれて初めてのことだった。

「まあな、鮭も美味かったが、今度は違うものがいい」

「ですよね。今度は食べ物以外でって考えてます」

 はにかみながら首を竦める彼女は、どうやらクリスマスとは違うものをくれるつもりのようだ。

 だがそれが、俺の欲しいものとは限らない。

 いや、俺は小坂のくれるものなら何でも嬉しい。それこそ鮭だろうと直筆のラブレターだろうとその辺の空気を詰めただけの瓶だろうと後生大切にする。だがそれはそれとして、俺にはかねてより欲しくて欲しくてたまらなくてもはや渇望の域に達しているお目当てがあるのだ。

「むしろ買ってくるような物じゃなくてもいいだろ? 俺は小坂がいてくれればそれで十分だからな」

 言いながら目を向ければ、小坂は笑うのをやめて息を呑む。どぎまぎした様子のその顔に、俺は声を落として誘いをかける。

「十三日、泊まりに来ないか?」

 閉じていた小坂の小さな唇が、そこでぽかんと軽く開いた。

「上手い具合に日曜だからな、バレンタインデー。どこか旅行に連れ出すのもいいかと思ってたんだが」

 つぶらな瞳はぼんやりと俺を見上げていて、怪訝そうだった。俺の言わんとするところをわかってるのかわかってないのか、少し不安になった。

 でも、いい。

 わからないなら理解できるまでとうとうと口説き落としてやる。

「今のお前の張り切りようを見るに、遠出でもしようものなら日中だけで電池切れそうだからな。最初はもう少し落ち着いて過ごすのがいいんじゃないかと思った。どうだ?」

「え、ええと……」

 ようやく、小坂が震える声を絞り出す。こわごわと尋ねてきた。

「主任のお部屋に、ってことですか」

「ああ」

 俺は顎を引く。わかってるじゃないか、少し安心する。

「二人だけで、ですか」

「当たり前だ。他にいたら邪魔だろ」

 俺が笑っても、小坂は笑わない。

 もちろん彼女だって、他の人間が必要だとは思っちゃいないだろう。そういうことだ。

「嫌か?」

 運転席から助手席側へ身を乗り出し、固まっている小坂の顔をそっと覗き込んでみる。彼女はまだシートベルトに捕まっていて、俺がどんなに近づいても逃げ場がない。鼻先がくっつくほどに顔を寄せると、小坂の瞳が動揺したように潤んだ。

 すぐ目の前で、可愛い唇が震えながら動く。

「い、いいえ。そんなことはちっとも、ないです」

 息も絶え絶えに、小坂は返事をした。

 そうやって答えたくせに、まだ迷うみたいに下を向こうとする。逃げられないのをわかってて、拘束されていない部分だけで逃げ場を探している。

 拍子抜けするくらいあっさり了承しといて、及び腰になってるのはどうなんだ。俺はもう答えを聞いたし、翻らせるつもりはない。

 逃がさない。

 どれだけこの機会を待ってたと思ってる!

「じゃあ決まりだな」

 だから俺はその顔を、シートベルトの代わりに捕まえる。両手で頬を挟んでぐいと上を向かせて、もう決まったことだって念を押しておく。

「十三日と十四日。忘れるなよ、小坂」

 小坂は黙ったまま、目を潤ませて俺を見ている。

 笑ってない不安そうな表情は、だがちゃんと『わかってる』ふうでもあった。

 手のひらには彼女の頬が持つ熱が伝わる。熱くて、柔らかくて、俺はこの感触が大好きだった。頬ずりしたい。かぶりつきたい。一つにくっついちゃうくらいに密着したい。もっと、傍にいたい。

「約束したからな」

 早くも込み上げてくる熱情に押されて、俺は彼女の唇に自分の唇を押し当てた。

 下唇を軽く甘噛みすると、わずかに身を引いた小坂が温かな吐息と小さい声を漏らす。

「主任……」

「どうした、小坂」

 唇を離して聞き返したが、彼女は俺を見つめるばかりで、それ以上何も言わなかった。

 その沈黙が答えだってことを、俺はちゃんとわかっている。

「心配すんな。俺がついてる」

 これまでずっとそうだったように、今回だって俺が傍にいる。見守ってる。怖いことがあるんなら、いくらでも縋ってくれていい。

 だから、黙って食べられに来い。


 経験上、寝るという行為について、男と女の捉え方はかけ離れているように思う。

 女の子たちにとっては、こと最初の一回は非常にしんどくて、負担が大きいものらしい。そうは言われても俺がそのしんどさや負担を身をもって知る機会なんて一生かかっても訪れないわけで、せいぜい毎回辛くないように、怖くないようにって気を配ってやるくらいしかできない。

 そういう前提があるからか、女の子たちは男が自分と寝たがるのを見下したり、非難したり、時に嫌悪したりする。寝るのが嫌だというわけでもないくせに、いざこっちがそういうそぶりを見せると、頭の中にそれしかないのかと呆れた目を向けてくる。デートの度に事に持ち込もうものなら『所詮身体目当てなんでしょ?』とかいかにもわかったふうに言い出す。

 俺に言わせれば、それは半分当たりで半分外れだ。

 最初っからそれ込みで好きになってんだ。切り離しては考えられない。身体目当てっていうのは間違いでもない、ただ、それ以外にも好きなとこがあるってだけ。身体的な魅力を感じない相手を好きになるなんてありえないし、だから好きになった子に対して、会う度にやりたいって思うのも普通じゃないか。心身共に惚れ込んだ相手を、こっちも全身全霊を懸けて愛さなかったらかえって失礼だろ。

 ――とまあ、詭弁を弄しつつも主張しておく。

 頭の中がそればっかりなのは事実です。仕様です。そうじゃない男ももしかしたらどっかにいるのかもしれないが、少なくとも俺の周りにはいない。あいつとか、あいつもそうですよ。同類ですよ。そんなもんなんだって。


 小坂が今回の件についてどう思っているのかは、実のところよくわからない。

 約束をしたその夜は、うろたえた様子で車を降り、それでも家の中に入る前に一度俺を振り返って、ぺこりと可愛くお辞儀をしてくれた。

 俺が車の中から手を振ると、ぎこちなく笑って振り返してくれた。

「おやすみなさい」

 口の動きだけで、そう言ってくれた。


 それでも約束をしてから数日間、俺はじっと様子を見ていた。

 あれきり一緒に帰る機会がしばらくなく、二人でじっくり話をすることもあまりなかった。それでもメールや電話ではやり取りしていたから、例えば冷静になってじっくり考えた小坂が、やっぱり泊まりはちょっと――などと思ってしまったとして、断る暇がないというほどではなかったはずだ。

 つまり、今のところは断られてない。

 ただ、小坂なりに意識はしてるらしい。会社にいる時に目が合うと、何やらぎくしゃく会釈をされた。こっちが笑いかけても非常にぎこちなかった。

 メールや電話ではバレンタイン関係の話題が全く出なくなった。だからと言って話が弾まないということはなく、それ以外の点ではいつも通りの小坂だ。まるでバレンタインのことを忘れようとするみたいに、はしゃいでみせることさえあった。


 思えば、泊まりの誘いは拍子抜けするほどあっさり了承された。

 とりあえず断っちゃ悪いと思って頷いてはみたものの、覚悟は決まってない。そんな感じかもしれない。

 怖いって感じるのは、わかる。

 わかると言うか、俺の理解なんて事実には程遠い当て推量でしかないんだろうが、それでもできるだけ考えて、正解に近いところまでには辿り着けるようにする。だから小坂も、俺の気持ちを少しずつでいいから、ゆっくりでいいから、わかってくれないかなと思う。

 頭の中がえろいことで一杯なのも、お前がめちゃくちゃ好きだからだ。

 ここ半年ほどの俺の妄想は、自慢じゃないがほぼ小坂オンステージだ。

 お前と外へ遊びに出かけたり、一緒に酒飲んだり飯食ったりするのが楽しくて、幸せなのと同じように、思いっきりやらしい気分でいちゃいちゃしたりべたべたしたりするのも絶対楽しいし、幸せなはずだ。だからお前も俺を信じて、一人で怖がったりしないで、一歩踏み込んだ後はここぞとばかりに頼って縋ってくれればいい。

 とりあえず決めてることがある。その時には思いっきり好きだって言ってやろう。小坂が本当に必要で大切でいとおしいんだってこと、言葉でもそれ以外でも精一杯伝えておきたい。あと最初くらいはなるべくノーマルに。噛み癖のある飼い犬としては、あまり噛みすぎないよう、あと意地悪な子とも言いすぎないよう、そして一人で突っ走んないように気をつける。

 それから、名前で呼んでやろう。

 小坂藍子。下の名前を、本人の前ではまだ呼んだことがない。だって呼んだら小坂のやつ、絶対照れるし慌てるし真っ赤になっちゃってそのまましばらくショートしたみたいに動かなくなるだろ。それなら動かなくなってもいい時に呼ぶ。


 考えを巡らせつつ数日間を過ごし、遂に二月十二日を迎えた。

 明日は運命の十三日だ。

 しかし今日は今日で忌まわしき、営業的バレンタインデーである。

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