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世界は優しいとわらったひと(2)

 写真を入れた名札が出来上がった頃には、とりあえずの新人指導も始まっていた。


 うちの場合、営業の仕事は外回りが基本だ。

 もちろん右も左もわからない新人をいきなり外に出すわけにもいかないから、春のうちは雑用と電話応対、各種書類の作り方などを社内で教えることにしていた。それも俺の仕事の片手間にだから、毎日なかなか慌しい。女の子と仕事をする楽しみを味わう機会はまだ多くない。

「小坂悪い、これ総務に置いてきて」

 他社との電話中、保留メロディの間に指示を出す。判押したての書類を差し出せば、小坂はぱぱっと駆け寄ってくる。

「わかりました」

 俺が他の仕事をしている間は手持ち無沙汰な様子で突っ立っていることも多いが、一つ頼めばすぐに返事をしてくれる。小坂に頼める仕事はまだそんなに多くないが、まずまずの反応速度ではある。

「じゃあ行ってきます」

「頼んだ」

「はいっ」

 手渡した書類を胸に抱え、小坂は張り切って営業課を飛び出していく。結わえた髪が尻尾みたいに揺れたのは数秒間だけで、すぐにドアが閉じて見えなくなる。

 そのドアを意味もなく眺めていた俺は、受話器の向こうで保留メロディがぶつっと終わった瞬間、何となく苦笑した。

 ここ何日か見ていても、フットワークが軽いと言うか、むしろ純粋に身軽な奴だと思った。ちっちゃい子みたいにすばしっこい。トラック系のスポーツでもやってたのかもしれない。

 ――と、そこまで考えて首を捻りたくなるわけだ。

 違うな。うん、ちょっと違う。

 何がかって言うと、自分でもよくわからないが、とにかく違う気がする。

 そうこうしている間にも通話は終わり、次の書類に取りかかり始めてふと、そういえば腹減ったと思って時計を見れば午後二時ちょっと前。はたと気づき、またやったかと反省する。

 こんな業務内容上、昼の休憩が遅くずれ込むのはもう慣れっこになっていた。昼の二時三時なんて十分にランチタイムの範疇で、運が悪いと昼夜兼用なんてことにもしょっちゅうなる。外回りの時ならそれでもコンビニなんか寄れるからどうにでもなるが、社内にいるといろいろ不便だ。買い出しは会社周辺の地理を覚えるまで時間もかかるだろうし、社食はあるがそれなりに人気らしく、昼時を過ぎるとめぼしいメニューは売り切れになる。

 前に聞いたところ小坂はうちの社食を大層気に入ったそうだ。だからなるべく早い時間に休憩を入れてやろうといつも思っているのに、ちょうどこんな感じで忘れてしまう。

 ちょうどぱたぱた軽快な足音が聞こえてきて、

「ただ今戻りました!」

 いい姿勢いい笑顔の小坂が帰ってきたから、すぐに次の指示を告げた。

「ありがとう。じゃあそのまま休憩入ってくれ」

「あっ、はい」

 聞くが早いか小坂はものすごくうれしそうな顔をした。じわじわっと込み上げてくる喜びを、でもあんまり面に出しちゃまずいぞと自覚しつつ、全然隠しきれてないって顔だ。そんなに休憩が好きか。好きだよな。俺もだ。

「休憩入ります!」

 弾む足取りで出ていく小坂を見送れば、つられて猛烈に腹が減ってきた。

 こっちも早々に切り上げて、飯を済ませることにしよう。


 十五分遅れで社食へ行くと、やはり小坂はそこにいた。

 この時間ともなると食堂内は空席が目立つ。隅の方のテーブルに一人ぽつんと座るルーキーもすぐに見つけることができた。それほど背は小さくないのに、一人でいるところはやたら小さく映る。

 俺は買い置きのカップ麺にポットの湯を注いでから、割り箸を食堂のおばちゃんに貰って、それから小坂のいるテーブルへと近づいていく。どうせなら女の子と一緒に食べるほうが美味しいし、仕事中よりもいろいろ堪能できるから、機会のある時はなるべく一緒に食べるようにしている。趣味と実益を兼ねた素晴らしい休憩の取り方である。

 こちらの気配に小坂はあと三歩のところで気づいて、顔を上げるなりはっとする。

「主任もご飯ですか?」

「カップ麺だけどな。……そこ座っていいか?」

「あ、ど、どうぞどうぞ。今片づけます」

 六人がけのテーブルだから広く使ってもいいはずなのに、小坂は自分の座っていた端っこのスペースから大慌てで物を片していく。携帯電話にパステルピンクの手帳に仕事では使い道のなさそうなカラフルなペン。それからいかにも女の子の持っていそうなちっちゃな、しかし中身の謎めいたポーチ。それらを手早くバッグにしまうと、

「どうぞ主任!」

 と再び勧めてくれる。

 そこまでしてもらって離れて座るのも悪いから――という大義名分の下、俺は小坂のすぐ隣に座った。

「小坂は何食ってた?」

「Aランチです。金曜は、南蛮揚げだそうです」

 社食の日替わりランチは肉メインのAセットと野菜メインのBセットというラインナップだ。Aランチのボリュームはなかなかのものだが、小坂は果敢に食べ進めているようだった。見かけによらず、結構よく食べる子らしいというのはここ数日で知ったことだ。

「美味いか?」

 そう聞くと、小坂はえへっと口元を綻ばせた。

「はいっ」

 幸せそうにしやがって。俺もちょっと笑ってしまう。

 と言うかこいつ、食べ物の営業やればいいんじゃないだろうか。目の前で食べてみせるだけで結構売れそうな感じするよな。食べるの、好きなんだろうな。

 そう思ったら休憩の遅さが申し訳なくなった。

「悪かったな、昼、遅くなって」

 俺が詫びると小坂はきょとんとしてから、慌てたように両手を振った。

「い、いえいえそんな! 全然遅くないですよ、ちゃんとAランチ残ってましたし大丈夫です!」

 重要なのはそこか。

「そんなにAランチ食べたかったのか」

「あの、金曜日は南蛮揚げって聞いて、それでちょっと楽しみにしてたんです……」

 特に肉が好きなのか。間に合ってよかったと俺までほっとしてしまった。

「何だか私、食いしん坊みたいですね」

 小坂が照れたように笑う。

 その顔は確かに皆の言うとおり可愛かったが、今の台詞に『みたい』は要らないと思った。

 心配しなくていい、お前は正真正銘の食いしん坊だよ。さすがに女の子相手には言えないが。

 代わりに違うことを言ってみる。

「だったら今日の飲み会も楽しみだろ? お前が主役みたいなもんだしな」

 今日の夜は新人歓迎会と称した飲み会が催される予定となっていた。ここ数日が忙しかったのは主にそのせいで、俺だけじゃなく他の連中も、どうにか今日の為に仕事を片づけようと必死だ。

 小坂にとっては初めてとなる、営業課での飲み会だった。楽しみ半分、緊張半分ってところだろうと思っていたら、意外にも小坂はそこで、笑わなかった。

 むしろ不安げに箸を置き、おもむろに居住まいを正した。

「あ、あの、主任。……今日の、その飲み会のことで質問があるんですけど」

「ん? 何だ」

「実は私、目上の方とのお酒の席はほぼ初めてで、そういうマナーには不慣れなんです。それでいくつか事前に確認しておきたくて」

 やけに真顔で聞いてくる。

「主任。下座って、入ってすぐの席でいいんですよね?」

「は? いや、まあ、そうだけど」

「あとお酌は、やっぱりして回った方がいいんでしょうか?」

「お酌?」

「はい。あ、それともご挨拶に回る時だけにしておいた方がいいですか? あんまりしつこいのもよくないのかなって思うんですけど、でも何にもしないというのも不作法なのかなって……すみません、こういうの本当に詳しくなくて、一応本も読んだんですけど」

 本って何の本だ。こっちは笑いを堪えるのが大変だった。いや当人はかなり本気なんだろうが、考えすぎだしそんな真顔で聞くようなことでもない。真面目な子だからなあ。

「ああ、うん。そういうのは、うちの課に限っては気にしなくていいから」

「えっ、そうなんですか? でも……」

「いいんだって。うちの課の連中は皆、仕事で飲む機会も多いからな。職場の飲み会くらいはフランクにやりたいって思ってんだよ」

 営業やってれば外で飲む大変さも味わうことになる。小坂だってそのうち、上座下座をいやってほど気にしたり、腕がしびれるほどお酌して回るような羽目になるかもしれない。だから社内で飲む分はなるべく気楽にやって欲しい。

 理想としてはやっぱり、『営業課の皆さんと飲むお酒は美味しいです!』なーんて言って欲しいわけですよ。まあ現実に上司同僚その他と飲む酒が美味いかどうかは置いといてだ、小坂がそう言ったら皆喜んでテンション上がっちゃうだろ。俺もだ。

「お酌、しなきゃいけないものだと思ってました。そっか……」

 小坂は胸を撫で下ろしている。よほどプレッシャーだったのか。

「そもそも注ぐ酒頼まないしな、皆ジョッキとかグラスとかだ。あ、お前は飲めるのか?」

「私はそれなりに……そんなにいっぱいは飲めないですけど」

「じゃあ適量にしとけよ。自分が主役の飲み会でぶっ倒れたりしないように」

「はい。気をつけます」

 からかい含みで言った俺に対し、小坂は生真面目に頷いてみせた。

 ますます笑いにくくなる。笑いたいのに。

「ああ、それと挨拶な。何か適当でいいから、ちょっと挨拶してくれ」

「挨拶ですか?」

 その生真面目な顔がたちまち、緊張に凍りついた。肩もびくりと動いて、小坂が酷く驚いたらしいのがわかる。また大げさに考えてるのかと思い、俺は急いで釘を刺す。

「挨拶っつっても結婚式のスピーチみたいな長ったらしいのじゃないぞ。酒飲む前の挨拶は短いほどいいんだから」

「あ、そうなんですか……。ええと目安として、原稿用紙で言うと何枚くらいでしょうか」

「いや何枚とかそもそも要らないから。コンパの自己紹介程度でいいからな」

「そんなものでいいんですか、びっくりしました」

 むしろ俺がびっくりだよ。どんだけ長い挨拶する気だよ。ビールの炭酸飛んじゃうだろ。

「それでもちょっと、緊張します」

 小坂はこの間の写真撮影もかっちこちだったし、今日もそうなるかもしれない。皆の温かい目を一身に浴びて錆びついた動きを披露する小坂の姿が、たやすくイメージできる。

「失敗してもいいんだから、気楽に構えとけ」

 だから俺はいかにも先輩らしい助言をしてみる。

「新人なんて失敗するのが普通だろ。お前が何かとちったって、むしろ初々しくて可愛いなんて思ってもらえてお得なもんだ」

 こういう時、若さは武器になる。もちろん全く通用しない相手もいるが、大抵のおっさんは初々しい女の子が大好きだ。小坂がちょっと噛んだりつっかえたりしても、皆かえって相好を崩して終わるだろう。

「でも……」

 小坂はその助言に、不服とはいかないまでも、納得していないらしい表情を見せた。

「でも私、頑張ります。できれば失敗したくないんです」

「頑張るのはいいが、気負いすぎないようにな。皆お前には優しいんだから」

「はい、皆さんすごく優しいです。でも、だからこそって言うか……」

 言葉を探すようにゆっくりゆっくりと、

「期待に応えたい、っていうのもちょっと違う気がするんですけど」

 小坂は続きを口にする。

「あの、皆さんが優しいからこそ頑張りたいんです。私、新人ですけど、まだ何にもできてないどころか細々したことでご迷惑かけどおしですけど、だからこそ挨拶くらいはちゃんとして、その程度はちゃんとできるって証明したいって言うか」

 俺はそれを、意外だと思いながら聞いている。

 意外というのも違う気がする。小坂のこと、意外だと思うほどはまだ知らないからだ。

 どちらかと言えばそれは俺の持つ『女の子』像や『今時の若い子』像からすると意外だ、ってことになるんだろう。こんなに真面目なのも、今のうちから軽く空回りしてるくらい一生懸命なのも。

「気負ってるってわかってます。でも、頑張ります」

 そう言い切ってから小坂は困ったように笑った。

「す、すみません。何か私すごく生意気なこと言ってるような気がします。でも主任が心配してくださってるのもわかるので、そういうご負担もなるべく減らしたいなって。無理なことかもですけど」

 そんなに頑張らなくてもいいって、女の子相手なら言いたくなる。

 でもそれを言ったら、今の小坂はかえってへこんだりするんだろうなとも思うから、逆の手段に出ることにした。

「そこまで言うなら、今日はお前の挨拶を一字一句逃さないくらい魂込めてじっくり聞いてやるからな」

 俺が言い放った途端、小坂は大きく目を見開いた。

「え、ええっ」

「それでちょっとでも間違えようもんならずーっと忘れないで覚えてて、事あるごとに言ってやる。お前が営業課のエースと呼ばれるようになってもだ」

「エース……。呼ばれるように、そもそもなるでしょうか」

 小坂は自信なさげだ。

 だからその肩を軽く叩いてやる。

「なれよ。お前が『小坂先輩すごーい素敵!』って後輩から尊敬の眼差し集めるような営業になんないと、俺だってお前の愉快な失敗談話す甲斐がないってもんだろ」

「そっかあ……あ、で、でも、それって私が失敗するの前提ですよね……?」

 ものすごく控えめなツッコミをされたので、笑って頷いておく。

「だから、失敗しないよう頑張れ。じゃないと俺に弱み握られることになるぞ」

 それで小坂はぽかんとした。

 少し前にも見たような、一瞬だけ怪訝そうな顔だった。そんなこと言われるなんて思いもしなかった、ってな感じの。

 その表情がしばらくしてから感情を取り戻して、次第に緊張気味の硬さを帯びていき、やがてぎくしゃくした声の返事があった。

「が、頑張った方が、いいですよね?」

「何で疑問系になる」

「あ! いえそんな別に、ななな何でもないですっ!」

 慌てすぎってくらい慌てた後、小坂は南蛮揚げの残りをあたふたと食べ始めた。


 俺もすっかり忘れてたカップ麺の蓋を開けて、のびかかってるやつをもそもそ食う。

 その後はあまり会話もなかったが、何度か思い出し笑いはした。

 全く、真面目で素直なのにも程がある。

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