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世界と引き替えにしても守りたいひと(1)

 小坂に名刺を渡してから一週間が過ぎた。

 初っ端に食らったビジネスメールの衝撃も薄れ、どうにか普通のやり取りができるまでには漕ぎ着けた。


 だが、あいつは自発的にはメールをくれない。

 こちらから送ればレスポンスはあるが、向こうが先に寄越すということは目下一度としてなかった。普通でいいとは言ったものの、上司と部下の枠を抜け出すのもまだまだ容易でなさそうだ。両立はどうした小坂。

 メールのやり取りをしたのは既に三回ほどだ。いつも大体三往復くらいしたら挨拶をして終わりになる。最初のうちはそんなもんかとわかってはいるが、今からもどかしさも覚えている。本当言うともっと一杯したい。早く頻繁にやり取りできる仲になりたい。

 だって小坂は可愛いんだもんな、メールの文章だって。


 俺が晩飯食いながらテレビを見てたら、ちょうど犬が出てくる番組をやってた。真っ白くて身体はそんなに大きくないけど尻尾がやたらふさふさしてる奴。その尻尾をちぎれんばかりに振って、人懐っこく飼い主にまとわりついてる姿を眺めてたら、つい小坂を連想してしまう。ちょうどどんなメールを送ろうか考えてたところだったから、これは言ってやらねばと思った。

『今テレビに小坂そっくりの犬が映ってた』

 だからそう送ったら、二十分後くらいに返事があった。

『他の人には言われたことなかったんですけど、私ってそんなに犬に似てますでしょうか』

 二十分まるまる考えたのかどうかは知らないが、とにかくそんだけ時間かけて返事がそれかよとか、どこもかしこも犬っぽいのに似てるって自覚ないのも不思議なもんだなとか、他の誰も指摘しないのは霧島みたいに失礼だと考えてるからなのかなとか、いろいろ思う。そして、何にせよ微妙にずれてる返事に笑えてくる。

 別の日、晩飯に惣菜の餃子を買った。その日も小坂にどんな文面で送ろうかって考えていたところで、そしたら餃子が食べたくなって、何でだと疑問に思った後で気づく。俺の中では既に肉料理イコール小坂の構図が出来上がっていたからだ。そういえば飲み会でも食べてたよな、鉄鍋餃子。ってことで送った。

『夕飯に惣菜の餃子を買ったら、小坂の食べっぷりを思い出した』

 小坂の返信はやはり二十分ほど経ってからで、

『食べっぷりはそれほどでもないつもりですけど、でも餃子は美味しいですよね!』

 このメールのポイントはびっくりマークであります。食いしん坊なのは否定したいのに餃子の美味しさと食欲は否定できない乙女心。可愛いじゃありませんか。いっそ全部肯定しちゃって好きなだけ食ってればいいのにな、食べてる顔がまた可愛いんだから。

 そんなこんなで俺もすっかり楽しんじゃってはいるんだが、しかし小坂の方からメールがないことも気になるというか、寂しい。別に上司からのメールなので仕方なく相手をしてやってる、というわけでもあるまいに、何でもいいから気軽に送ってくれればいいのに、なぜあいつは自分からメールをくれないのか。

 まあ、小坂だからなんだろうが。


 小坂っぽいと言えば、ずれてはいるが真面目に返事をしてくるところも見逃せない。

 あいつはいつも日付が変わる頃には寝るらしい。残業の後は帰ってご飯を食べた後、部屋で読書をするのが日課だとか。あいつどんな本読むんだろうな、きらっきらした女の子向けファッション雑誌か、それともロマンチックな少女漫画か、はたまたメルヘンな童話なんか読んでたりするのか。今度聞いてみよう。

 たまたま『今何してる?』ってなことを聞いたら、『明日に備えて早めに寝ようか、もう少し起きていようか迷っていまして、ひとまずパジャマに着替えたところです』という返事があった。

 そう言われるとそりゃもう、気になっちゃうわけだ。パジャマが。小坂はどんな格好で寝てるのか知りたくなる。もっと言うと見てみたい。とりあえず俺みたいに上Tシャツ下ジャージで寝る派ではないようだが、はてさてどんなもんでしょうか。

 好奇心から俺は尋ねた。

『お前のパジャマってどんなの?』

 自分で言うのも何だが、立派な変態である。

 これが一般的な二十三歳の女性ならすぐさま罵られるか、あるいはギャグでかわされるかというのが当たり前の反応だろう。だが相手は小坂だ。真面目に、二十分後くらいに答えてくれる。

『今着ているのはごく普通の、ギンガムチェックで前をボタンで留めるタイプのパジャマです』

 聞けばああ、あれかと想像できる模範解答。いいですな、俺も好きですそういうタイプ。一個一個ボタンを外していくのが大変楽しくてよろしい。

 更に突っ込んで聞いてみる。

『色は?』

 そろそろ通報されそうなレベルである。

 ともあれ小坂はいつものペースで返事を寄越し、

『私は青で、父が緑なんですが、同じ模様のせいで母がたまに取り違えてしまうので、私もうっかり父のパジャマを着てしまったことがあります』

 何そのドジっ子エピソード。あれか、お前のうっかりは遺伝性か。

 しかしその、お父さんのパジャマの色までは聞いてないんだが……想像にノイズが入る。別にお前のお父上に悪い印象とかないけど、まだ顔も知らない相手だけど、どっちにしてもそれほど知りたかった情報ではない。

 いや待てよ。小坂がお父さんの、恐らくはちょっと大きめのパジャマを羽織ってる姿を想像するのもなかなかよいものではないか。グラビアとかでよく女の子が男物のカッターシャツを羽織ってる画があってそれはそれで好きなんだが、現実にはありえねーシチュエーションだとも思っていた。だって服貸すならカッターシャツとか着させないだろ。無難なTシャツとかにしとくだろ。――しかしながらそのシチュエーションを現実のものとする可能性を、小坂は秘めているということになる。何と言うポテンシャル。大きめサイズなら着る前に気づけないか、なんてツッコミは野暮だよ野暮。

『見てみたい』

 その五文字を送信してしまったのはほんの出来心からだ。

 本当は『写真に撮って送って』って付け足したかったんだが、それ言うとさしもの小坂も引くだろうと思って踏み止まった。いいよ、そのうち実際に見るから。

 小坂の反応は今回に限ってものすごく迅速だった。

『これは結構くたびれかけていて襟の辺りがよれっとしているので、とてもじゃないですけど目上の方にお見せできるものじゃありません!』

 あ、気にすんのそこなのか……。

 やっぱずれてるよなあ、可愛いけど。向こうからすれば、何で主任はパジャマなんて気にするんだろう、ってなとこだろうな。


 欲望のままにメールを送り続けていたらいい時間になってしまって、やがて小坂からは『おやすみなさい』メールが来た。

 何せ一往復で二十分以上かかる応酬だから、せいぜい三往復ちょいが限度だ。そのくらいもすれば日付の変わる直前になって、小坂は翌日に備えて寝てしまう。俺は缶ビールを半分くらい空けたところで、まだ寝るには早いし寝る気にもなってない。こっちも『おやすみ、また明日な』と送り返してから、ふと一人の部屋で溜息をつく。

 寂しい。

 なぜ俺は貴重な三往復ちょいのメールをパジャマ云々で使い切ってしまったのか。いやそれはそれで興味深い話題ではあったが、他に聞くことだって相当あったはずだ。なのにずっとパジャマの話に終始するとは、これだから男ってやつは。

 小坂のことをもっと知りたい。今時珍しいほどに真面目で、ちょっとずれてて、どちらにしてもとびきり可愛い二十三歳の女の子の詳細を、なるべく早いうちに把握しておきたい。あいつについて知らないことがあるって事実が、妙な焦燥を駆り立ててくる。

 となると、時間が欲しい。メールでも電話でもなく、直接会ってそういう話をしてみたい。小坂藍子という人間を知る機会が、勤務時間外にも欲しくなる。

 そろそろ誘うかな、休みの日にでも。

 残りのビールを流し込みつつ、考える。それも休日をまるまる使うくらい長時間のデートがいい。小坂となら時間はどれだけあっても足りない気がする。日帰りじゃなくてもいいくらいだ。

 ただ今週末は恐らく用事があるから、早くても来週以降になりそうだ。

 それまではしばらくこの調子が続くのか。辛いな。アドレス教えてもらってからやっと一週間ってとこなのにもう物足りなくなってるのがやばい。俺、あいつのことそんなに好きだったっけ、と自問自答したくなる。

 もちろん霧島にからかわれるまでもなく好きは好きだし、いてくれたらいいよなと、こと一人暮らしの部屋では思うんだが、でもそこまでとは思ってもみなかった。

 メールの後でふと寂しくなってしまうほど、なのか。


 体温を吸い込んで温くなってる携帯電話をしばらく見つめていた。

 そして脈絡なく背面ライトがぱかぱか光り出したから、あれっと思ってディスプレイを確かめる。もしかして小坂、同じように寂しく思ってかけてきてくれたんじゃ――と期待できたのは一瞬だけ。すぐに『安井』の文字を見つけて激しくがっかりする。

『……早いな、出るの』

 あいつはあいつで、俺の通話ボタンを押す速度に驚いている。

 突っ込まれてから説明するのも何だし、先手を打っておく。

「小坂とメールしてた」

『へえ。幸せ一杯だな』

「まあ、な」

 安井の声が楽しげで、ちょっと癪だった。幸せどころか寂しい思いしてるよ。そりゃメール中は幸せだけどな、終わった後の反動が酷い。

『やっぱり、骨抜きにされてるんじゃないか』

 まるで見透かしたように言われて、密かにぎくりとする。いやそんなはずはない。ないと思う。皆無だとは言い切れないが、そこまで重症ではないだろ。

「骨は……あれだよ、俺より小坂の方が抜かれてるって」

『そうは見えない』

「いや本当に。小坂は俺にべた惚れなんだからな」

 事実なのにどういうわけか、説得力のある物言いにならない。どうしたもんかと一人首を傾げる俺を、安井が笑う。

『お前がどう思ってようと事実は変わらないし、別にいいよ。俺としてはお前が、同じ失敗さえしなければいい』

「失敗って?」

 何かやらかしてたっけと聞き返す。

 忘れたのか、と安井には溜息をつかれた。

『もうお前の為に合コンのセッティングはしてやれそうにないから』

 言われればすぐにでも思い出せたんだが、それならそれでこっちにも反論したいところがある。

「あれって俺の為のだっけ? 元々は安井が――」

『半分はお前の為だろ。失恋したてのお前を慰めようと企画したようなものだ』


 三年前。

 割と長く付き合っていた彼女に見切りをつけられた俺は、その悲嘆をつい安井に打ち明けた。すると安井は秘書課の女の子たちとの合コンをしようと誘いをかけてくれ、いろいろ計画もしていたらしい。当時は長谷さんというアイドルがフリーだったし、俺もそれなりに乗り気でいたわけだ。

 が、結果はあの通り。長谷さんを霧島に取られたショックで合コン自体が立ち消えとなり、俺は今現在まで独り身という顛末だ。


『あの後、結構大変だったんだぞ。向こうの幹事には、長谷さんの件でこっちが及び腰になったって気づかれちゃっててさ。こっちは平謝りだよ』

「それは初耳だ。そんなことがあったのか」

『あったあった。お前に苦労かけるのも悪いし、黙ってたけどな。だからもう、社内ではそういうのはやりたくない』

 安井はどうやら、振られたての俺をそれなりに気遣っていてくれたらしい。もともとお節介大好きな奴だからと任せていた部分もあったが、そんな裏があったとは。

 意外な事実の発覚に俺は戸惑い、ついでに悪いことしたな、とも思う。安井にも、秘書課の幹事役にもだ。

『お蔭でその幹事役の子に、お詫びのデートしろって言われちゃってさ。本当に大変だったよ』

 だが次にそう言われた時、俺は早々に手のひらを返した。

「……初耳だなそれも。って言うか、それで大変だったのか」

『大変だって。全部俺の奢りにされたんだぞ、散々な目に遭った』

 いや全っ然大変そうに聞こえない。むしろ役得っぽくないかそれ。しかも振られたての俺に黙ってってそりゃないだろ。ちゃっかりしてるな!

「お前、その子とはどうなったんだよ」

『いや別に。どうもこうもそれっきりだ』

「本当か? 何か怪しいな」

『まあいいだろ、俺の話は。とにかく今は石田の方が心配だよ』

 不審なくらい強引に話を戻した安井は、その後も粛々と続けた。

『小坂さんは逃がさないようにしろよ。次はもうないかもしれないぞ』

 後に続く言葉がずしりと重い。

 いやマジで、本当にそうなんだよな。

「三十だもんなあ……。もう合コンってあれでもないよな」

 つくづく年齢ってやつを噛み締めてる。

 後がないという実感はまだないが、ないかもしれないなという予感は多少ある。これ逃したらもう結婚できないかもな、的な焦りもあるし、考えなきゃいけないよなとも思っている。小坂とお付き合いしたいって思ってるのは別に結婚したいからではない、でもお付き合いの先に見据えていなきゃいけないことでもある。三十になったら急にあれこれ現実的になってきた。だるい。

 ただ、三十になってよかったこともある。

「俺、小坂にも逃げられたらさすがに追っ駆けるよ」

 打ち明けた時、安井は少なからず驚いたようだ。

『へえ。本当にか?』

「だって後がないかもしれないだろ。それだけではないけど、今は小坂がいいって思ってるけど、ただ三十だからではあるんだよな。追っ駆ける気になれたのは」

 小学生の頃はおろか、二十七の時でさえできなかったことだ。


 あの当時、結婚してと言われた俺は、仕事が忙しいのを理由にそれを後回しにしようとした。忙しかったと言うか、ぶっちゃけ面白かった。当時はちょうど霧島が仕事をめきめき覚え始めてて、安井もまだ営業にいて、俺は責任ある立場になってなくて、営業の仕事が充実してて面白くなり始めてた頃だった。そんな時に家庭を持つなんて考えられなかった。

 待っててくれるんじゃないかと思ってたのに、当時の彼女は待っててくれなかった。

 それは結構ショックだった。でも俺はやっぱり『しょうがないよな』って思うようにして、彼女を追い駆けはしなかった。追い縋るのは格好悪くて嫌だったし、彼女の気持ちに向き合う気も起こらなかった。しょうがなかったのは俺の根性だった、というオチだ。

 三十になった今なら――格好悪いのは今更だからいざとなったら小坂に追い縋るつもりでいるし、小坂のどんな気持ちにも、三十だからこそ向き合えるような気がしてる。少なくとも、その気だけは大層ある。

 何より俺には小坂が、いてくれた方がいい。

 だから逃げられたら迷わず追い駆けるつもりだ。


「成長してんだよ、俺も。振られたらあっさり引き下がるなんて、逃げの姿勢にはもうなれない」

 俺が本音で言うと、安井は失礼にも吹き出しやがった。

『成長? それはその表現でいいのか?』

「何で語尾上がるんだよ。疑問に思うなよ」

『悪い悪い。強いて言うなら、ある意味磨きはかかってるよな、近頃の石田は』

 謝意なんて微塵も感じさせない口調の後、安井はまた話題を変えた。

『ところで……本題なんだが、今週末の件、霧島から何か聞いてるか?』

「あ?」

 そういえば、何で掛けてきたのか聞いてなかった。脱線しすぎだよ安井。

 呆れつつも答える。

「いやまだ詳しくは。何とか間に合うように掃除するとは言ってたが、どうなるかな」

 今週の土曜は霧島の部屋に、安井と一緒に乗り込む予定になっていた。少し早い結婚前祝いの会、みたいなもんだ。

 料理上手の長谷さんがごちそうを作ってくれるそうだから楽しみにしていた。が、会場が無頓着の象徴たる霧島の部屋だから、当然あいつの予定が立て込めば掃除なども立て込み、飲み会自体が中止にもなり得る。普段は長谷さんが通ってまめにきれいにしてくれてるらしいんだが、彼女にも仕事はあるし、あまり無理させたくないという意識も霧島の中にはあるらしい。だったら頑張れよと言いたい。こっちはデートも我慢して空けといてやってるんだから。

『霧島も結婚、するんだよな』

 安井が呟くように言い、

『結局三年か。随分かかったな……あいつら、付き合うまでだって時間食ってるしな』

「他人事とは言え長かったよなあ。もたもたしすぎなんだよ、あいつ」

 結婚に踏み切るまでそんなにかけてしまうほど、半同棲ってのは楽しいもんなのか。あいつに限って、いつぞやの俺みたいな『家庭を持つ気になれない』なんて考えはなさそうなものだが、急ぎたい理由もなかったのかもな、とは思う。真面目な奴が踏み切れなかった理由なんて、どうせ現状に満足してたからってとこだろう。

『お前は他人事じゃないだろ』

 そこで、水を差すような笑い声がした。

『若い女の子と青春の追体験なんてしてる場合じゃない。もたもたしてると他の男に取られるぞ、そうなったらもう追っ駆けることだってできなくなる』

 詐欺師みたいに脅しをかけてくる安井。つくづくお節介だ。

「一緒にすんな、俺はあんなにのんびりしないよ」

 反論はしてみたものの、ここ一週間のメール交換を思い返せば不安もなくはなかった。


 本当、パジャマの詳細なんか聞いてる場合じゃないよな。

 脱線しすぎなのは俺もそうだ。

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