ナーバスな男
ナーバスな男
目覚まし時計の音で男は目を覚ました。
しかし、目は閉じたままだ。
やがて、男は右目を開いた。八回目の目覚まし音が鳴ったからだ。続いて左目を開く。まずは右目、次に左目。この順番は間違ってはいけない。
目を開けた男は、寝転がったまま目覚まし音の回数を数える。
「ジリリ」「ジリリ」「ジリリ」
今ので十三回目。
「ジリリ」「ジリリ」「ジリリ」「ジリリ」
ぽちっ。
男は十七回目で目覚ましを止めた。
「よし」と呟く。
右手で掛け布団を払いのけ、男は立ち上がる。
最初の一歩は左足だ。
「1、2、3、4……」
十二歩歩いた時、男は洗面所の前に立っていた。
右手で蛇口をひねり、三回顔を洗う。
顔を洗った男は左手でそばの棚からタオルを取り出す。顔を拭く。
その次に髪を整える。
といっても、男の髪は寝癖がつきにくいタイプであるから、クシで何回か撫でるだけである。
いや、「何回か」というのは語弊がある。七回だ。
「13、14、15、16……」
二十五歩目で、男は妻に「おはよう」と言った。
妻は「おはよう」とだけ返す。
朝、余計なことを言うと、男が激怒することを妻はよく知っている。
男はダイニングテーブルの椅子に座った。
トーストとハムエッグが載っている。
いつもと同じ組み合わせ。
男はまず、ハムエッグのハムだけを口に運ぶ。
次に、トースト、卵と続く。
もちろんこの順番も決まっている。
トーストとハムエッグを食べ終わった男は、お茶を三口飲んでから、「ごちそうさま」と言う。
妻は「はい」とだけ返す。
男はスーツに着替えるため、寝室に戻る。
「30、31、32、33……」
寝室に戻った男はまず上の服を脱いだ。
もちろん脱ぎ方も細かに決められているが、詳しいことは省略する。
きりがないからだ。
男は下着を着て、ワイシャツを着る。
次に、ネクタイを締めて上着を羽織る。
その次はズボン。
ジャージのズボンを脱いで、スーツのズボンをはく。
右足、次に左足の順番をしっかり守る。
ベルトを締める。
次に靴下。
ここは重要である。
そもそも、男のこだわりは靴下から始まったのだ。
靴下を右足から履くか、左足から履くかで、その一日が決まる。
男は出勤途中、トラックに撥ねられたことがある。その日は左足から靴下を履いていた。
男は会議で大きな失敗をしたことがある。その日は左足から靴下を履いていた。
男は妻に浮気がばれたことがある。その日は左足から靴下を履いていた。
そういう経験を積み重ね、男は右足から靴下を履くことを決めた。
始まりはそこからだった。
それからどんどんエスカレートしていった。そして、今の状態になったのだ。
とにかく、男は今日も右足から靴下を履く。
鞄を持った男は、台所へ戻る。
ここからの歩数は数えていない。
だがそのうち、ここからの歩数も数えるようになるのかもしれない。
男はダイニングテーブルに置いたままになっていた湯呑みを手に取り、お茶を二口飲んだ。
そして「行ってくるよ」と言う。
妻は「行ってらっしゃい」とだけ返した。
玄関へ行き、男はここでも右足から靴を履く。右足の次は左足。
右手でドアノブを回す。外に出た男は右回りでドアの方へ振り返り、右ポケットから出した鍵で施錠する。
鍵を右ポケットではなく、左ポケットにしまう。
男の家はマンションの八階にある。
しかし、朝はエレベーターを使わず、階段を使う。
これも、そう決めているからなのだが、理由はそれだけではない。
エレベーターでは、近所のサラリーマンたちと顔を合わせる可能性が高い。
しかし、彼らと会う日もあれば、会わない日もある。一人だけに会う日もあれば、五人もの人と会うこともある。
そういう不確実性はなるべく少なくしたい。
であれば、まず、誰とも会うことがない階段で降りるしかない。
彼は、階段で降りる日とエレベーターで降りる日の、「一日の過ごし方の違い」についての分析はしていない。もしかすると、エレベーターで降りたほうがより安全で、よりよい一日を過ごすことができるようになるのかもしれない。しかし、それは何人の近所の人に会ったかという、自分ではどうしようもない不確実性が含まれている。従って、彼は特に分析は行っていないが、階段を使っている。
階段を降りて外に出た。
大雨が降っている。
二日前から降り続いている雨は止む気配がない。何十年に一度の雨量であるとマスコミは言っていた。堤防が決壊して、水浸しになっている町もあるらしい。
男は折りたたみ傘を鞄から取り出した。いつも持ち歩いている傘だ。
いつも、晴れの日は傘をささないから、雨の日も傘はささない、などという馬鹿なことはしない。晴れの日には晴れの日のやり方が、雨の日には雨の日のやり方がある。
男は歩き出す。
会社までは歩いて十五分ほど。もちろん、どういう道を通るかは決まっている。
家の前の通りから大通りに出て最初の曲がり角で、両側に民家や田畑が並ぶ小道に入る。小道の途中に川があって、そこに架かる橋を渡って、また別の大通りに出る。その大通り沿いをまっすぐ五分ほど歩くと会社に着く。
会社へは必ずその道順で行かなければならない。
もっと近い道順もあるが、必ずこの道順で行く。遅刻しそうな時もどんなに急いでいる時も、それは変わらない。いや、男にとってはそもそも、遅刻しそうになるということも急いで会社へ向かうということも縁のないことだ。いつも同じ時間に起きて、同じ時間に家を出て、同じスピードで歩くのだから。
男には百を超えるこだわりを持っている。
その中にも優先順位というものがある。必ず守らないといけないものと、必ずしもそうとは言い切れないもの。
この、会社への道順については、優先順位のかなり上位にある。
靴下の履き方と同じくらい重要である、と言っても過言ではない。
男はこの道順で会社に行かなかった時、軽自動車に撥ねられたことがある。
そう。男は過去に二度も、車に撥ねられたことがある。
一度目はトラック、二度目は軽自動車。
どちらも足の骨折だけで済み、命に関わるようなことはなかったのだが、二度の事故がなければ、男が百をも超えるこだわりを持つようにはならなかったかもしれない。
トラックに撥ねられた時は、靴下を左足から履いていた時だった。
そして、軽自動車に撥ねられたのは、靴下を右足から履くようになってからのことだった。
この時の男のショックは大きかった。軽自動車に撥ねられたショック、もちろんそれもあるのだが、もっと大きかったのは、靴下を右足から履いたのにも関わらず、事故に遭ってしまったことだった。それまで、靴下を右足から履くようになってからは、仕事で大きな失敗をすることもなかったし、健康に過ごすこともできていた。
にも関わらず、事故にあってしまったのだ。
なぜ事故にあってしまったのか、男は考えた。やがて、その日はいつもと違う道順で会社に向かっていたことに気が付いた。
そうか、道順のせいだったのか。
それから男は、どの道順で行けばより良い一日を過ごすことができるのか、分析した。
そして導かれたのが、今の道順である。
この道順で行くようになってから、仕事での小さなミスも少なくなったし、もちろん事故に合っていない。妻との関係もよりよくなった。
男は自宅のマンションから続く通りを抜け、大通りに入った。大通りの最初の曲がり角で小道に入る。
今日も順調だ。男は心の中で呟いた。
だが、小道を歩いて行くと、前に警官が立っているのが見えた。
よく見ると警官が立っている後ろには黄色いテープが引いてあり、そこから先は水で浸っている。
警官は男に声をかけた。
「川が増水しています。危ないですから、他の道を通ってください」
男は舌打ちをした。こういう例外的なことを男は嫌う。
「ここを通るしかないんです。通してください」
「見てください。通れる状態だと思いますか」
警官は後ろを指差した。百メートルほど先に橋が見える。
橋の上にも増水した川は浸かっていた。確かに、危険は危険だ。
だが、渡れないことはない、と男は思った。いや、渡らなければならないのだ。
「問題ありません。通ります」男は警官の制止をすり抜け、橋へ向かおうとした。
しかし、警官は男の肩に手をやり、引き戻そうとした。
「やめろ! 俺の勝手だろ」
「危ないですから。通れません」
「大丈夫だ。離せ」
しかし、警官は手を離さない。
男はため息をついた。
こういうことはあまりやりたくない。こういう偶発的な行動をとることで、今日がどんな一日になるか分からなくなる。
だが、優先順位がある。
必ず、この橋を渡らないといけないのだ。
男はクルッと左方向に回って、警官の方へ振り向きながら、右手に拳を作った。
その回転を活かしながら、警官の右頬に拳をぶつけた。
警官は「ぐわぁ」と言って倒れた。
男は橋へと向かう。
膝から下が水に濡れて歩きにくい。しかし、男は足を緩めない。いつもと同じ歩幅で橋へと向かう。橋の前まで行くと、橋が水圧でみしみしと音を立てているのが聞こえた。
水流は強いが、頑張れば渡れそうだった。
腰あたりまで濡れるだろうが、欄干に頼りながら進めばなんとかなるだろう。
男は橋へと踏み出した。もの凄い水圧が足にかかる。
ズボンがずぶ濡れになって、鞄も濡れてしまった。
だが、こういう例外的な場合でも優先順位を守らなければならない。
鞄やズボンを濡らさないで会社へ行く、ということよりも、この橋を渡って会社へ行く、ということを優先しないといけないのだ。
男はゆっくり、しかし着実に進んでいく。
後ろで警官の怒鳴り声が聞こえた。だが、なんと言っているのかは分からない。
男が橋の三分の一にのとろに差し掛かった時だった。
「みしっ」と大きな音が響いた。
その時、男は宙に浮いたような感覚を味わった。
視界がガラリと変わって、茶色い濁った色が目に飛び込んできた。
「あ」
男は呟いた。
橋が崩れたのだ、と理解した。
男は、顔から濁流した川に突っ込んだ。
息ができなくなる。
ああ、どうしよう。男は困惑する。
男はもがくが、自分がどういう状態にいるのか分からない。
どっちが上で、どっちが下か。水面はどこだ。息ができない。
ああ、どうしよう。男はもがく。手足が引き裂かれるような痛みが襲った。息ができない。
ああ、どうしよう。どうすれば……。
男は息をひきとる直前まで考えていた。
橋を渡らないといけないのに。橋が壊れてしまったら渡れないじゃないか。
仕事で失敗したら、どうしよう。
ああ。車に轢かれたら……。どうしよう。
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