102号室 小説家と天才少年 その1
小説家と天才少年は沁みるような寒い日に出会う。
僕はその日機嫌がよかった。
朝すっきりと起きられた。
たまたま見た占いで一位だった。
駐輪場で自転車を楽々置けた。
三回に一度当てられる教授の講義で当てられなかった。
友人に昼食をおごらされなかった。
誰かと肩がぶつからなかった。
急にバイトを頼まれなかった。
帰りに今日発売されたばかりの好きな作家の本が買えた。
道路で千円を拾った。
なんとなくついている気がして、簡単にいえば調子に乗っていた。
でも、そんなことは長くは続かなかった。
予想外の出来事はいつだって突飛な事象だ。
僕はアスファルトで舗装された道の真ん中で倒れている子供を見つけた。
家の近くのどこにでもありそうな狭い住宅街の路地に小学生がまるで地面に抱きつくように倒れていた。
というのはもちろんただの比喩であって、その小学生はただ行き倒れていた。
行き倒れ。
他の国ではどうだが知らないが、この国では中々どうして珍しい状況だ。
この小学生がどこに向っていたのか、当然僕は知らない。
その時の僕は見当違いな現実的な、いたずらかだろうという勘違いをしていた。
小学生とわかったのはのは、僕がエスパーで思考が読める特殊人間でも、観察眼に優れた探偵でもなく、お下がりのような古い傷だらけの黒いランドセルを背負っていたからだった。
今は男女平等ということで女の子が黒いランドセルを、男の子が赤いランドセルを背負っても何もいわれない。
その子供の自由だ。
今やランドセルは色のバリーエーションも増え、ファッションの一部となっているように思う。
だから僕は目の前に倒れている小学生が男の子なのか、女の子なのか判断できなかった。
判断できなかった理由はもう一つある。
その子供はうつむせで倒れていた。
ある程度の年齢になれば、髪型で分かるのだが、小学校までは髪型に関する校則が存在しない学校が多いため、様々な髪型をした小学生がいる。
そして、行き倒れていた小学生の髪型は、肩を越える長さの少し濁った緑色だった。
何日も櫛でといていないようにぼさぼさで、風呂に入っていないかのようにべたべたとしていて、艶がなかった。
手先の感覚がなくなるほどの寒さの中、小学生は半そで、ハーフパンツ姿で、子供は風の子という言葉を納得させる格好をしていた。
僕は恐る恐る小学生に声をかけた。
何度聞いても、いつまで経っても返事はなかった。
不審に思って、氷のように冷たいアスファルトに投げ出している小学生の腕を掴むと、とても熱かった。
沸騰したお湯に手を触れた時のように、反射的に離した。
その熱さは風邪をひいたときの熱さとよく似ていた。
子供は風の子という言葉は嘘だったらしい。
僕は周りを見渡した。
けれど、誰もいなかった。
どうやら僕しかこの小学生を助ける人がいないらしい。
今年はもうあと一ヶ月もないから、皆忙しいのだろう。
という僕もそれほど暇をしているわけではないけど、少なくともこの小学生を見捨てなければならないほど切羽詰まっていない。
「大丈夫?」
小学生の体を起こすとその顔は青白く、息も絶え絶えだった。
予想よりもずっと重い症状に僕は着ていたコートを脱ぎ、小学生に着せた。
僕のコートは小学生には大きかったらしくぶかぶかで、まるでかけ布団のようだった。
首に巻いていたマフラーと手袋も外して、小学生に貸した。
念のため、ホッカイロも貸した。
ポケットから取り出した携帯電話を取り出し、119をプッシュする。
緊急であること、小学生の病状を伝えると住所を聞かれた。
大まかな住所と目印を伝えると、五分程度で来るといわれた。
それまでに出来る応急処置を教えてもらうも、すでに行っていて特にすることがない。
肌を刺すような寒さに耐えながら、救急車の到着を待った。
予定よりも早く救急車は到着し、なぜか僕も同乗させられた。
救急隊は小学生に素早く処置をしていく。
残念ながら、何をしているのかよくわからなかった。
状況の説明を求められ、素直に答えた。
数十分で病院に到着し、慌ただしく病院内へ運ばれる。
小学生を乗せた担架はは手術室ではなく、別の部屋へ運ばれた。
僕は近くにあったベンチに腰かけ、これからどうするかを考えた。
とりあえず病院に搬送されたため、最悪の事態は避けられた。
目立った外傷はなかったから、きっと内臓か別の理由で倒れていたんだろう。
僕の目的は果たされたといえるけれど、このまま帰るのもどうかと思う。
容体も気になるし、もう一度事情を聞く場合に誰にも連絡先を伝えていないから、いないと困るんじゃないか?
そういえば貸した衣服は返ってくるのだろうか?
考え出すときりがない。
僕は立ち上がって、ズボンのポケットから財布を取り出し、近くの自販機から温かいコーヒー(無糖)を買った。
暖房がついている病院内でも、隅々まで温めることは難しいようだ。
手を温めるように両手で握って、寒さに耐えた。
コーヒーがぬるくなった頃、看護師さんが僕を見つけた。
看護師さんの後に着いた先は診察室だった。
白衣を着た四〇代の医師が僕に容体を説明する。
小学生は空腹と栄養失調による重度の風邪だったようだ。
念のために二、三日様子を見るために入院するとのことだった。
ここで問題が起きた。
僕は親戚でも、保護者でもない、だたの通りすがりの大学生だ。
医師は驚き、看護師は困った顔をした。
僕が一番驚き、困っているんだけど。
三人で話し合いの結果、迷子として警察に連絡することになり、僕の連絡先を伝えた。
懸念していたことが片付いたので、あの小学生に貸していた服を返してもらってから僕は家に帰ることにした。
小学生に出会った時は夕方だったのに、いつの間にか日が暮れて辺りは夜に包まれていた。
すっかり冷たくなったコーヒーは骨まで浸みそうな寒さをいっそう強くした。
通りかかったごみ箱に空き缶を投げ捨て、手袋ごとコートのポケットにつっこみ、マフラーに顔を埋めた。
角を曲がったところで、誰かにぶつかった。
幸いにも互いに大した衝撃はなかった。
「すみません。ちゃんと前見てなくて……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。リョーヘイくん」
そこにいたのはバイト先の店長、唄田猫だった。
癖毛なのか、ただ手入れを怠ってぼさぼさしているだけなのかよく分からない、ミルクティー色の腰辺りまで伸びたとても長い髪。
そして、顔の半分を覆う長い前髪のせいで、その表情は分からない。
女のように細い体躯に、長い手足。
白いワイシャツに、黒いベストとパンツは店で見かける姿と同じだった。
「猫さんが外を歩いている姿を初めて見ました。それにその格好だと寒くないですか?」
「私は暑がりだからこのくらいの気温が丁度いいよ」
「そうなんですか」
それなら猫じゃなくて犬のようだと、寒がりの僕は羨ましく思った。
「リョーヘイくんはどこに行くんだい?」
「家に帰るところですよ。猫さんこそどうしたんですか?」
「そうか。私は夜の散歩だよ」
猫さんは楽しそうに口の端を緩めて、名前の通り猫のようなことをいう。
「そうですか」
今日は星が良く見えるから散歩もいいのかもしれない。
もっと暖かい時期になったら、夜に散歩してみるか。
「引き止めてして悪かったね」
「いえ。ぶつかってすみませんでした。またバイトでよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね、リョーヘイくん」
なにやら猫さんは意味ありげに笑った。
僕はその意味を考えても答えが出せなかったので、別れの挨拶をして足早に家に帰った。
住んでいるアパートは築三十年以上のとても古い建物だ。
部屋は四階建てで、風呂が共同で四階にあり、全部屋数九つの小さなアパートだ。
僕の部屋は一階の真ん中、102号室だ。
外見に比べ、内装は広く、一人暮らしには十分すぎる広さだ。
何より家賃が驚くほど安い。
僕は鍵を開け、家の中に入った。
玄関で靴を脱ぎ、台所を通り、リビングの隣の寝室に辿りついた。
近くのハンガーにコートとマフラーをかけ、手袋はコートのポケットに押しこんだ。
予想外の事態に疲れた僕は、押し入れから布団を引っ張り出して敷いた。
そのまま食事も摂らず、お風呂も入らずに眠りについた。
小説家の青年は極度の寒がりです。