番外編 リョーヘイの仕事
リョーヘイが新の姉、彩香と出会った話。
※ぬるいですが性的な表現があるので、苦手な方は注意してください。
「官能小説……ですか」
その話が出たのは僕が二十歳の時だった。
場所は喫茶店『黒猫』で担当編集の葉山芹さんといつも通りに小説の打ち合わせをしていた。
葉山さんは三つ年上で今年入社したばかりの新入社員だ。
「はい。ファンレターにそういったお声がいくつかありまして。うちの編集長も乗り気ですので、ぜひ書いていただきたいのですが……」
葉山さんは硬い声と表情で僕をうかがう。
いい方が悪くて誤解されたらしい。
「いえ。書くことに対して抵抗があるわけではないんです。ただ……」
これはいった方がいいのだろうか?
いわなくてもいいような気もする。
葉山さんを見れば、ひどく緊張した顔で僕を見ていた。
彼にとって僕はヒット作をいくつか生み出した小説家だから、機嫌を損ねてはいけないと思っているんだろう。
そんなに心配されなくとも僕はそんなことで機嫌が悪くならない。
「経験がないんです」
恥をしのんで理由をいった。
たっぷり十秒は過ぎただろうか。
「………………は?」
葉山さんは鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔になった。
しかしすぐに顔を引き締め、周りの目を気にしながら小声で尋ねる。
「経験がないというのは……えっと“アレ”の経験がないということですか?」
経験がなくとも話の流れで“アレ”が何を指すのかわかった。
「そうです」
即答すると信じられないような顔をされた。
「……意外です。リョーヘイさんはモテますよね?」
葉山さんは何を根拠にいわれているのだろうか?
普通の体格に普通の顔に、話が面白いわけでもなく、特にこれといった趣味もなく、性格がいいわけでもない。
まして人と関わることに対して消極的な僕がモテるわけがない。
さらに芸能人並みに容姿の整った新と千秋が近くにいて、僕に声をかける物好きはいない。
よく合コンなどに誘われるけど、それだって僕が新や千秋と仲がいいから僕を通じて、二人と仲良くなりたいからである。
あの二人はこの間、ようやく付き合い出したけど周りにそれを公言してない。
普通なら見ていればわかりそうなものだけど、付き合う前から二人はべたべた(千秋は無意識に)していたから、ただの仲の良すぎる友達としか見られていない。
千秋が男の格好しているのが大きな要因だけど、新の態度を見ていれば誰だって千秋しか眼中にないってわかりそうだけども。
いや信じたくないのか。
新と千秋が付き合っていることを認めれば、恋人になりたい自分達のチャンスを潰すようなものだし。
もし仮に二人の関係を壊そうとする人間がいるなら、僕も新も容赦しない。
でもまあ最初の一人くらいは脅すくらいで手加減すると思う。
二人に手を出すとどうなるか、という見せしめのために。
「顔も性格もいい友人がいるので僕自身は全く。葉山さんはありますか?」
少し物騒なことを考えたけど、これだけは変わらない。
僕はモテない。
「まあ……それなりには」
葉山さんは気まずそうな顔をしてコーヒーを一口飲んだ。
一度も染めたことのなさそうな黒い髪は短く切り揃えられて清潔感があり、きりっとした目元は葉山さんの真面目で誠実な性格が表れている。
薄ピンクの唇の右下にある艶ボクロは色気がある。
体質なのか、かなり食べる人なのに細身で余計な脂肪などがついていないくて、スーツがよく似合う。
男の僕から見てもかっこいいと思う葉山さんはさぞかしモテるだろう。
「よければその話を聞かせてくれませんか?」
経験がないのなら、想像で書くか、人に聞くしかない。
ということで目の前にいる葉山さんに聞いてみた。
「そ、それはちょっと……。小説の参考にされるんでしたらご友人の方がいいのでは?」
葉山さんに遠回りながらはっきりと断れてしまった。
「友人のそういった話は長い上に特殊なので聞きたくないです」
二人は僕にとって家族も同然だ。
そんな二人の話なんて聞きたくない。
新は嬉々として話してくれそうだけど、その分話も長そうというのもある。
軽く一時間。いや二時間は話し続けるだろう。
「とりあえずこの件は保留ということでいいですか?」
「そうですね」
葉山さんの提案に一二もなく頷く。
この話はこれで終わり、と僕は思っていた。
それから数か月後。
偶然フラれて呆然としている同級生と再会して、居酒屋で飲んでいる時だった。
携帯電話の着信音に出ると相手は葉山さんで、申し訳なさそうな声で出来れば駅前に今すぐに来てほしいといわれた。
時刻は十時を過ぎ、そろそろ解散しようかと思っているところだった。
明日は日曜で特に用事もない。
今まで葉山さんがこんな時間に電話をかけてくることはなかった。
それだけじゃない。
葉山さんは何かと僕のことを気にかけてくれる。
例えば以前の担当編集は大学の試験中であっても小説の打ち合わせをしたり、締切日にしたりしていた。
雑誌連載と文庫本発行が被った時期には二週間の平均睡眠時間が二時間なんてこともあった。
でも葉山さんはそんなことしない。
まず僕から大学のスケジュール表をもらい、さらに学校行事に変更があればスケジュールをずらしてくれる。
大学の試験中に打ち合わせも締切もない。
雑誌連載と文庫本発行が被った時には、文庫本の締め切りをぎりぎりまで伸ばしてれた。
おかげで睡眠時間が削られることなく、余裕を持って書くことが出来た。
僕だって人間だ。
余裕がある方がいい登場人物や物語も浮かび、執筆も進む。
僕の担当編集が葉山さんに変わって以来、本の売り上げが伸びているらしい。
本当に頭の上がらない人である。
そんな人がわざわざ連絡してきたのだ。
おそらく何か事情があるんだろう。
だが、同級生はすっかり酔っていて一人にしているのは危ない。
帰るように勧めても、頑固な彼はまだ飲むといって聞かない。
説得する時間もないから、二人分の食事代とタクシー代にと彼の側に一万円を置く。
彼の家がどこか知らないけど、一万円もあれば足りるだろう。
痛い出費だけど、歩いて帰らせると事故に遭いそうだ。
店主の草原さんに軽く頭を下げてその場を後にした。
不安は残るけど、彼も男だし、草原さんの目の届くカウンター席に座っているから多分大丈夫だろう。
駅前につくと葉山さんともう一人男がいた。
その人は編集長の蔦谷さんで、直接会うのは高校生の頃に文学賞をとった以来だ。
これは葉山さんも仕事の付き合いとかあるから断り切れない。
「お!こっちだこっち!」
蔦屋さんが俺に気づいて、軽く手を振る。
僕は少し小走りで二人に近づく。
軽く息を整えてから、頭を下げた。
「蔦屋さん、葉山さん、こんばんは。お疲れ様です」
「呼び出して悪かったね。友達と飲んでたんだって?」
蔦屋さんは悪びれもなくそういう。
僕は良くも悪くもはっきりというこの人が苦手だ。
「夜遅くにすみません」
葉山さんは深く頭を下げる。
「はい。ですが、そろそろ解散するつもりでしたのでお気になさらないでください」
「それはよかった。じゃあ行こうかね」
「編集長、行くってどこへ?」
「ついてからのお楽しみってことで」
蔦屋さんはいたずらっぽく笑って、教えてくれなかった。
連れてこられたのはキャバクラだった。
「いらっしゃいませ〜!」
目がくらむほどきらびやかで豪華な家具に部屋、華やかなドレス姿の女とバーテンダー姿の男が出迎えてくれた。
蔦屋さんは慣れた雰囲気でバーテンダーの男に話しかける。
「今日、しいちゃんいる?」
「いますよ。お連れ様には誰をつけましょうか?」
「二人ともキャバクラ始めてだから誰でもいいよ」
「かしこまりました。お席にご案内いたします」
「ありがとう」
ガラスのテーブルにコの字型に置かれたソファーに案内された。
「ごゆっくりおくつろぎください」
バーテンダーの男は深く頭を下げて、その場を後にした。
蔦屋さんと葉山さんは僕を真ん中にして座る。
端のほうが落ち着くんだけど、何かいう前にそうなったから仕方ない。
「蔦屋さん、ご指名ありがとうございます!今日は会社の方と一緒ですか?」
それほど待たずに三人のキャバ嬢が僕達の座る席に来た。
その中で一番綺麗な人が蔦屋さんに話しかける。
誰かに似ている顔で上品な笑み。
プロポーションはグラビアアイドルのよりも整っていて、体の線を強調する露出過多なドレスがやけに似合っていた。
「ああ。こっちのスーツが俺の部下でもう一人がうちの作家先生様よ!今日は期待の新人を労うために連れてきた!」
「作家さんってこんなにお若い人もいるのね。私のことはしいちゃんって読んでください」
しいさんはさり気なく僕と蔦屋さんの間に座る。
他の二人はそれぞれ蔦屋さんと葉山さんの隣でソファーの端に座った。
「えっと……葉山です」
葉山さんは緊張しているようで、声も表情も堅い。
「……佐藤と呼んでください」
あまり苗字で呼ばれたくはないけど、今日だけの人に名前を教えるのは憚れた。
「葉山さんに佐藤さんね!二人ともかっこいいから好きになっちゃいそう」
「しいちゃん、俺は?」
蔦屋さんが少しすねたように口を尖らせた。
ただのリップサービスなのに、子どもっぽいと思ってしまう。
「もちろん。蔦屋さんもかっこいいですわ!抱いて欲しいくらい」
キャバクラ嬢は性的なことをしないと思っていたが、実際は違ったらしい。
店だけでは厳しいところもあるんだろうか。
「ほんと?じゃ、しいちゃんにお願いがあるんだけど……」
蔦屋さんはしいさんに手招きする。
「えぇ?なんですか?」
しいさんは蔦屋さんとの距離を縮めて、口元に耳をよせる。
「実は……」
蔦屋さんがしいさんにな何か耳打ちした。
「えぇ!?嘘ぉ!?その話ほんとですか?」
「いや俺もそう思ったんだけどどうも本当らしくてね。だから百戦錬磨のしいちゃんがいろいろ教えてあげてくれない?」
「あたしでよければ喜んで教えますわ。あ、食べちゃってもいいのかしら?」
「しいちゃんは相変わらず初モノ好きだね。うちの先生を襲わないでよ?」
「あらそれは残念ですわね。とっても美味しそうなのに」
しいさんの意味ありげな視線に背筋がぞくりと粟だった。
初モノとか、美味しそうとかまるで旬の食べ物のようだ。
僕の中で警戒心レベルが跳ね上がる。
無意識に距離をとった僕の腕にしいさんが自分の腕を絡めた。
「ふふ。怯えちゃって可愛いわ。でも大丈夫よ。ここは健全なお店だからエッチなことはできないの」
しいさんは艶っぽい目で僕を見つめる。
その視線から顔をそらして、空いた手で僕の太ももを官能的に撫でるのはエッチなことにならないんだろうか、と別のことを考えた。
アキに世間知らずっていってたくせに俺もそうだったらしい。
あけすけな言動にも関わらず、下品だと感じないのは、しいさんの持つ独特の蜜で虫を誘う花のような妖艶な雰囲気のせいだろうか。
こんな人、今まで会ったことがない。
僕の好奇心が刺激され、もう少しこの人のことが知りたくなった。
「そうではないお店も知ってるんですか?」
「ええ。一時期働いていたこともあるわよ。いろんな性癖の人がいてその人にあったプレイをするの。けっこう楽しかったわ」
「プレイってどんなことをしたんですか?」
「そうねえ……比較的ノーマルな人だと軽いSMをしたわ」
「SMって物理的に拘束したり、言葉で相手を罵ったりするプレイのことですよね?」
隣に座っていた葉山さんが盛大にむせた。
慌てて金髪のキャバ嬢さんがおしぼりで机に飛び散ったそれらを拭き取る。
「そうよ!よくわかってるわ!私のおすすめは鞭ね!打たれるのも打つのも楽しいわよ!佐藤さんも今度してみない?」
しいさんは子どものような無邪気さで、SMを教えてくれる。
「痛いのも人を傷めつけるのも好きではないので遠慮します」
小説家として知識としては欲しいけれど、実際にやるのは尻込みする。
実体験のある方がいいらしいと聞いても、やはり男でも女でもそれ以外でも、好きでもない相手とはやりたくはない。
そんなことをするくらいなら一生やらなくてもいいとすら思う。
僕は年頃の男としては異常なのかもしれない。
「あら残念ね。佐藤さんはSの才能がありそうだから、手錠とベルトか亀甲縛りで全身を拘束されて鞭打ちされながら罵られたかったのに」
しいさんは本気で残念そうに呟く。
隣では葉山さんはまたむせていた。
そういえば新やビーム動画でドSといわれたこともあった。
僕としては正論を述べたつもりなのに、どうしてそう思われたのだろうか?
「そのプレイは全然軽くないと思うのですが……」
上級者向けのSMで、とてもじゃないけど初心者にやらせるものに思えない。
しいさんは僕を何だと思ってるんだろう。
「あら。軽いわよ?上級者はそれプラス目隠し、蝋燭、三角木馬、大人の玩具なんかも使うわ」
葉山さんが再びむせていた。
さっきから大丈夫だろうか。
度数の強いお酒に弱いのか?
それとも体調が悪いんだろうか?
「葉山さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。俺には少し刺激が強かっただけですから」
葉山さんは少し赤くなった顔で弱々しく首を横に振る。
葉山さんはお酒に弱いらしい。
少し意外だけど、それならもう飲まない方がいいだろう。
「そうなんですか。ならお水かソフトドリンクに変えたほうがいいですね」
葉山さんはなんともいえないような顔をして、「そうですね」、と苦笑した。
編集はプライベートなんてない厳しい仕事だと聞いているし、疲れているのかもしれない。
そんな葉山さんを蔦屋さんは意地悪そうな笑顔で見ていた。
それから閉店時間の深夜一時まで話しこんでしまった。
お代は全て蔦屋さん持ちで申し訳なかった。
だけど。
『遠慮なく五十万くらい飲む先生もいるのに佐藤さんも葉山も全然飲んでなかったからこれくらい払うよ。いやむしろ若い二人に払わせちゃ俺の顔が立たないんだよ』
そこまでいわれて払うのもどうかと思ったから、おごってもらった。
『この恩は仕事で返えします』
といったら盛大に笑われた。
おかしいことをいったつもりはないのに、なぜだろう?
「佐藤さん」
しいさんに呼び止められて振り返る。
「今日はいろいろ新鮮で楽しかったわ。よかったらまた来てくれないかしら?」
とても素敵なお誘いだけど、僕はそれを首を振って断った。
稼ぎがあっても一学生が来る場所じゃない。
多分、卒業しても蔦屋さんのようにに連れてこられなければここにはもう来ないと思う。
きらびやかで夢のようなこの場所は来るべき人しか来てはいけない。
少なくとも僕にはその資格がないとそう思った。
「良平です。またいつか会えたらそう呼んでください」
しいさんにだけ聞こえるような小さな声で名前を教えた。
特に深い意味はない。
ただもう一度。
今度はプライベートで会いたいと思っての行為だった。
しいさんは驚いたように赤みがかった茶色の目を見開く。
でも次の瞬間には色っぽい笑みを浮かべながら僕の腕を引いて、耳打ちした。
「彩香よ。またいつか会えたらそう呼んでちょうだい」
空いた手が頬に触れて、彩香さんの顔が近づき、唇に柔らかいものを感じた。
「じゃあまたね、リョーヘイくん」
彩香さんは僕から手を離し、また上品な笑みを見せる。
動揺を無理やり胸の奥にしまってなんとか別れの挨拶をした。
だが、それからどうやって帰ったのか覚えていない。
ただ覚えているのはファーストキスは甘いお酒の味がしたことだけだった。
リョーヘイは主に家庭の事情が原因で重度の恋愛潔癖症です。
彩香とは真逆ですね(笑)
でもこれという人が現れたら一途に愛してくれることでしょう。
病的な新とは違う意味で(笑)




