番外編 風邪をひいた日
102号室のリョーヘイが風邪をひく話
十二月の上旬の日曜日の朝九時に103号室のチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だ?」
突然の訪問に黒野原千秋は首を傾げた。
今日は友人との約束も宅急便からの配達予定もない。
「約束してたのを忘れたんじゃない?」
普段から千秋の家に入り浸っている多福新は雑誌から顔を上げ、からかうような笑顔でそういうが、笑顔の裏に警戒心が出ている。
幸が不幸か、千秋はそれに気づかない。
「あー。そうかも」
テレビを見ていた千秋は電源を切って立ち上がり、玄関の扉を開ける。
扉の先にいたのは佐藤良平だった。
「朝早くにごめん」
そういったリョーヘイの声はいつもと違い、風邪をひいたようにかすれていた。
それを証明するように彼はマスクを着け、額に冷えピタをつけている。
マフラーとニット帽のわずかな隙間から見える顔は真っ青で、病人そのものだ。
「別にいいけどどうしたんだ?風邪でもひいたか?」
千秋は冗談半分でリョーヘイにいった。
彼が風邪をひいたのは小学生低学年以来で、本当に風邪をひいたとは、にわかには信じられなかったからだ。
「そうだよ。だから明日か明後日くらいまで颯太くんを預かってくれない?」
いい終わるとリョーヘイは辛そうに咳をする。
隣に立っていた三神颯太は不安そうな顔で彼を見上げた。
それに気づいたリョーヘイは安心させるように頭を撫でる。
「え?お前が風邪!?嘘だろ!?」
千秋は目を見開いて、リョーヘイを見つめた。
驚いた声を聞きつけ、新も玄関にやって来た。
「え!?リョーヘイが風邪ひいたの?それインフルエンザじゃない?それも超強力なやつだね」
リョーヘイを見るなり、新も千秋と同じような反応をした。
『二人して僕をなんだと思っているんだよ。風邪くらいひくよ』
普段の彼なら、肩でもすくめてそういっただろう。
「……そうかもね。迷惑をかけてごめん。出来るだけ早く治すからそれまでの間、颯太くんをお願い」
だがリョーヘイはかすれた声でそういった。
「ああ、わかった。颯太くんのことなら心配すんな。ゆっくり休めよ」
「ありがとう……じゃあ僕は病院に行ってくる」
酔っ払いよりも頼りない足取りでリョーヘイは病院へと歩いていく。
目ているだけで危なっかしい。
途中で力尽きそうだ。
「ねえ一人で行かせて」
新がいい終わるよりも先に三人の不安が的中する。
ふらりとバランスを崩したリョーヘイは、顔面から電柱にぶつかった。
「……っ!」
リョーヘイは声を上げずに、顔を押さえてそのままずるずると地面に座りこんだ。
「リョーヘイ!?」
颯太が悲痛な声を上げて、リョーヘイの元へ駆け寄った。
「大丈夫、だから。寒いし、部屋に入って。ほんと大丈夫、だから。颯太くんに、まで風邪、ひかせられない」
リョーヘイは意識が朦朧としているのか支離滅裂な話し方で、息も絶え絶えだった。
「いや、どう見ても大丈夫じゃねえだろ!新、リョーヘイを病院まで連れてってくれねえか?」
「そうだね。このままだと辿り着く前に力尽きそうだよ」
新は座り込んだまま起き上がろうとしないリョーヘイを見下ろす。
「リョーヘイ……苦しいの?」
「大丈夫、だよ。僕は、大丈夫」
「はいはい。行くよ、リョーヘイ」
新はタクシーを呼び、平均的な体格のリョーヘイに肩を貸し、軽々と立ち上がる。
もう自分で歩く気力もないのか、リョーヘイは新にされるがままだ。
「颯太くんを頼んだよ、アキ」
「おう。そっちこそリョーヘイを頼んだぜ」
アキは颯太の頭をくしゃりとかき回した。
「リョーヘイをよろしくお願いします」
颯太は不安を顔に浮かべながら、健気にもそういった。
新とリョーヘイはタクシーに乗り、近所の病院へと向かった。
診察結果は『風邪』だった。
予想通りの結果だが、病名がはっきりしてほっとする。
これほど酷い風邪は十年ぶりくらいだ。
慣れない感覚に数々の失態を新達に見せてしまった。
家に帰ると新が世話してくれた。
申し訳なさを感じながらも、全身が寒く重いために、ついそれに甘えてしまう。
彼がこれほど優しくするのは千秋だけだから少し嬉しかった。
「今日は何もしちゃダメだからね。薬飲んでゆっくり休んで元気になること。あとでスポーツドリンクとゼリーを買ってくるからちゃんと寝ててよ。絶対に暇だからって仕事しない」
仕事は溜まっているが今の体調では出来ないのは目に見えていた。
だから僕は小さく首を縦に振った。
新はそれだけでわかってくれたようで、何度も僕の体調を気にしながら部屋を後にした。
それから何時間経ったのだろうか。
気がつけば眠っていた。
いい意味でも悪い意味でも体調に変化はない。
狭いと感じていたはずの部屋がやけに広く感じる。
僕しかいない部屋は静かで、冷蔵庫の低い起動音がわずかに聞こえるだけだ。
それがやけに寒々しくて、僕は布団を頭まで深く被った。
体は熱を持っているはずなのに寒くて、どれだけ布団を重ねたところで暖かくなる気がしない。
動けなくなるほど重い風邪をひいたのは十年以上前のことで、その時のことをほとんど覚えていなかった。
だけど同じ状況になって当時のことを思い出した。
まだ小学低学年の頃に僕は酷い風邪をひいて何日も寝込んだ。
一日に一度医者が診察する時と、数時間に一度お手伝いさんが僕の食事などの世話をする他は誰も側にいなかった。
部屋に一人で横たわるだけの時間は辛すぎて、だけど眠るには変に目が冴えてしまって。
ふわふわと不安定な世界の中で、このまま吸いこまれるようにどこか別の世界に行ってしまうんじゃないか、なんて妙なことを考えた。
すると急にたった一人であることが心細くなり、頭から布団に潜りこんで不安と戦った。
それが“寂しい”という気持ちだと気づいたのはずいぶん後の話だ。
暗く息苦しい布団の中はまるで実家のようだ。
醜い見栄につまらない意地、くだらない矜持や卑しい打算と汚い嘘で固められたあの場所に、僕の居場所はなかった。
いやあんな場所に居場所なんて欲しくもない。
今の母が産みの親じゃないと気づいたのも、ちょうどその頃だったか。
物心つく前から厳しく接する母を僕はずっと優しい人だと思っていた。
僕が社会に出た時に困らないようにわざと厳しくしていると、信じて疑わなかった。
だけど実際は『家の勘当を解くための道具として利用するため』と、数回目に父の実家に挨拶に行った時にお手伝いが僕に聞こえるように話していた。
父の実家は国内で有数の企業でその跡取りであった父が駆け落ちして勘当されたらしい。
今では様々な条件付きと引き換えに勘当を解かれている。
半分とはいえ父の血を引く僕も勘当扱いされずに、時々思い出したように父の実家へと呼び出される。
父と産みの母は大学時代に知り合い、恋に落ち、そのまま家に決められた婚約者であった今の母ではなく産みの母と結婚した。
だが、彼女は俺を産むと体調を崩し、そのまま亡くなったそうだ。
自分から父を奪った女の血を引く僕が憎らしかったことも、要因の一つだろう。
産みの母に死には不審な点が多かったらしいが、憶測だけで人を裁くことはできない。
それが複数犯である可能性があるのならなおさらだ。
僕が今の母が産みの母じゃないと気づいたのは、お手伝いの話だけじゃなかった。
七つ下の弟が生まれた時、僕には一度だって見せなかった慈愛に満ちた目を向けて、それ以来僕に一切関わろうとしなくなった。
僕に関心を持たない父に、弟にしか愛情を向けない母、父の血を引く存在が欲しい実家。
誰かに愛されたくて愛したくて、一人ぼっちは寂しくて家にいると苦しい。
同じように一人だった千秋と出会っていつしか依存した。
千秋に依存していると気づいて距離を取ろうと思ったこともある。
だけどそれは出来なくてさらに依存した。
それは恋愛感情ではなく、家族愛に近い別の何かだった。
いつしか僕の世界は千秋で出来ていて、千秋を傷つける者は全て排除した。
千秋が笑ってくれるなら僕はどんなことだってできた。
それで自分が傷つくことになっても気にならなかった。
元服を行う頃には千秋の幸せが僕の全てになっていた。
成人を前に新が現れたのは僕にとって予想外だったが、僕以上に千秋を愛する彼になら譲ってもいいと、父親のようなことを思ったのは記憶に新しい。
千秋を傷つける存在に対して僕以上に苛烈だったのは誤算だけれど、それでも千秋が幸せそうだから何もいうつもりはない。
でも二人が恋人同士になって僕は人生の目的を失った。
世界には新がいてもう僕はいらない。
二人と同じように誰かと付き合えば何か変わると思ったけど、何も感じなくて長く続かずにすぐに別れた。
何もする気が起きなくて、でもやることはある。
機械にでもなったような気分で、いつもと同じように日々を過ごす。
あの時の僕はいつ死んでも後悔なく死んでいた。
先月、道端で颯太くんと出会ったのは偶然だった。
だけど見捨てられなかったのは病気だったからじゃなくて、同じだと思えたからだったかも知れない。
親に愛されずに育った子だと。
賢くて心優しい彼は僕と全然違ったけど、自分よりも弱い存在なら何でもよかった。
そうして、また千秋の代わりにするつもりだった。
でも彼は千秋のようにならなかった。
自分で出来ることは自分でやり、どうしても出来ないことは申し訳なさそうな顔をして頼んだ。
お手伝いも率先してやる彼は甘えるということを知らなかったし、それをよしと思える子じゃなかった。
子どもなのにやけに大人びている彼に、僕は千秋と接していたように接するのを止めた。
遠くで颯太くんを見守り、手を出したくなってもぐっと堪えた。
彼はまだ子供だけど、その賢さでどこでもやっていける。
千秋に依存しなくては生きていけなかった僕とは違う。
でも出来るなら、颯太くんが楽に一人で生きられるようになるまで側にいさせて欲しいなんて思ってしまうのを止められない。
僕はなんて寂しい生き方をしているんだろう。
「……寂しい……な」
ぽつりと漏れた本音は誰にも聞こえないはずだった。
「ぼくがいるよ。ずっとそばにいるよ。だからリョーヘイ、一人で泣かないで」
泣きそうな声が聞こえて、閉じていた瞼を開けて、その方を見ると颯太くんが泣きそうな顔で僕を見ていた。
泣きそうなのは颯太くんの方のにどうしてそんなことを思ったのだろうとか。
どうして千秋たちに預けたはずの颯太くんがここにいるのだろうとか。
他に考えることがあるのに、彼の言葉に羞恥心と共に喜びが湧いてきて、僕はどうしようもない奴だと自嘲する。
「ありがとう」
気持ちを素直に言葉にすれば颯太くんは笑顔を見せてくれた。
颯太くんはきっと知らないんだろう。
君の笑顔に僕の乾いた心がどれだけ救われているかを。
でも知らなくていい。
僕のこの汚い感情は誰にも見せられないものだから。
「おっ!リョーヘイが珍しくすげえ笑ってる!?」
キッチンにいたらしい千秋が驚いた顔で僕を覗きこんだ。
「え?ああ、本当だね。さっきまでうなされていたのにどうしたのリョーヘイ?」
新がのんびりとした調子でスポーツドリンクを片手にやって来た。
重い体を起こして、それを受け取った。
乾いていたのは心だけじゃなかったようで、体の隅々まで行き渡っていく。
「……そんなにうなされてた?」
濡れた口元をパジャマの裾で拭って、新を見上げた。
「うん。すごく苦しそうでさっきまで泣いてたよ」
頬を拭えば濡れた感触があって、颯太くんの言葉の意味をようやく理解した。
最後に泣いたのはいつのことだろう。
風邪をひいた日よりも昔なのかもしれない。
泣いても誰も慰めてくれなかった。
むしろ泣くことを怒られた。
泣くのはお前が弱いせいだ、と字も書けないほど幼い頃からいわれ続けた。
「お前って昔からなんでも一人で抱えこむよな。いいたくない事情は知ってるけど、もう少し俺達を頼ってくれよ」
アキが少し悲しそうな顔をしていた。
隣にいる新も颯太くんも同じような顔だ。
住んでから四年目が終わろうとして僕はようやく気づいた。
僕が帰る場所はもうあの冷たいところじゃない。
僕の居場所はここなんだ。
誰よりも親しい友人と誰よりも守りたい愛しい人がいるここが僕の生きる場所なんだ。
リョーヘイの病気は風邪だった。
今はお薬を飲んで眠っているみたい。
インフルエンザじゃなくてほっとしたけど、ぼくは心配して、申し訳なく思った。
後からアキにリョーヘイが風邪を引いたのは、ぼくと同じくらいの時以来だって聞いたからだ。
ぼくが道で行き倒れた時にそのまま見なかったふりも出来たのに、リョーヘイは着ていた服を貸してくれた。
飛び出した時にはとても寒い日だったのにぼくを探してくれた。
今だってぼくを親のいない子供の施設に預けてもいいのに一緒に暮らしてくれている。
だから慣れない生活で疲れてしまったんだと思う。
俯いていたぼくの頭をアキが撫でた。
「お前は悪くねえよ。リョーヘイはお前と会う前から体調が悪かったんだ」
「え?そうだった?」
新は気づかなかったみたいで首を傾げた。
「長い付き合いだからな。なんとなくわかるんだ。あいつは強がりだから絶対に自分からいわねえけどな」
アキは少し寂しそうに笑った。
大切な人に頼りにされないのは寂しいことだとぼくも知ってる。
「リョーヘイが極度な寒がりの理由を知ってるか?」
ぼくと新は顔を見合わせて首を横に振った。
「リョーヘイが最後に引いた風邪は酷く物で数日くらい学校を休むほどだったんだ。だけどリョーヘイの側には誰もいなかったらしい」
「それって……」
風邪を引いた時に部屋で一人きりの辛さはぼくも知っている。
でもお父さんはどうしてもじゃない仕事は休んでくれたり、いつもより早く帰ってきて世話をしてくれた。
「寝込んでるリョーヘイの部屋に来たのは医者とお手伝いだけで、両親は風邪が感染らねえためにか、一度も見舞いに来なかった」
リョーヘイのお母さんは血が繋がってないって聞いたことがある。
ぼくは親は子供を愛して守るものだと思ってた。
けどリョーヘイの両親は違った。
「胸糞悪い話だろ?だからリョーヘイはそれ以来両親から愛されることを諦めたし、自分で自分の管理をするようになったんだ。必要以上の厚着もそのせいだぜ」
リョーヘイはどんな気持ちだったんだろう。
一人で苦しんでいるのに誰も側にいない。
想像しただけで寂しくて悲しくてぼくが泣いてしまいそうだ。
「そんなことがあったんだ」
新が呆然としていた。
「まあな。あいつにも色々あんだよ。多分俺にも隠し事もしてるはずだ」
アキにも知らないことがあるなら、ぼくはもっとリョーヘイのことを知らない。
「んじゃまあそういうことで見舞いに行ってやろうぜ」
アキが明るい笑顔で立ち上がった。
「でもリョーヘイは来るなって行っていたよ」
「ばーか。弱ってるリョーヘイを見る貴重な機会だぜ?見に行かなくてどうすんだ?」
「確かに。少しくらいなら風邪も感染らないしね」
アキと新は冗談めかしてそういうけど、本当は心配してるんだってよくわかる。
けっきょく三人でリョーヘイの部屋に行った。
リョーヘイはいつもと同じ場所で寝ていて、うなされていた。
昔のことを夢に見ているのかもしれない。
そんなに苦しいなら助けてあげたい。
ダメなら少しでも楽にしてあげたい
何も出来ないことがもどかしくて泣きたくなった。
「……寂しい……な」
ぽつりと漏れたリョーヘイの声。
初めて聞いた弱音はかすれてて今にも消えそうなほど小さかった。
どこかにリョーヘイがいなくなってしまう気さえして、思わずぼくはいった。
「ぼくがいるよ。ずっとそばにいるよ。だからリョーヘイ、一人で泣かないで」
リョーヘイは驚いた顔でぼくを見ていた。
多分アキと新に預けたはずのぼくがここにいるのが不思議なんだ。
でもリョーヘイは何一つ咎めることはなかった。
「ありがとう」
気持ちを素直に言葉にしたリョーヘイくんは辛いはずなのに幸せそうな笑顔を見せてくれた。
ぼくは一人で生きられるようになったらリョーヘイから離れるつもりだった。
いつまでも側にいて迷惑をかけちゃいけないってずっと思ってた。
でもぼくが側にいるだけでリョーヘイが幸せな気持ちになれるなら、大人になっても側にいよう。
ぼくも一人ぼっちは寂しくて、リョーヘイのことが大好きだから。
リョーヘイの風邪は一日で治り、普段通りに動けるまでに回復した。
さっそく溜まっていた仕事とレポートを仕上げようとしたが、颯太に怒られてしまった。
もう大丈夫だといっても颯太が頑として譲らず、リョーヘイは翌日も安静を強いられた。
その上一部始終を見ていたアキと新に爆笑され、何かとからかわれるようになった。
この数ヶ月後に二人を引き裂こうとする人間が現れるのだが、そうとは知らないリョーヘイと颯太は毎日を一緒に過ごしていく。
リョーヘイはアパートの中では常識的な方ですが、家庭環境のせいで性格が多少歪んでいます。
なので純粋な颯太が眩しくて仕方ないようです。
颯太にとっては優しいだけだったリョーヘイの人間らしい一面を見て、安心してもっと好きになります(親子的な意味で)
リョーヘイの実家の詳しい話は続編の“久遠のマンション”で明らかになります。
いつになるかわかりませんが出来るだけ早く更新するつもりです……(汗)




