402号室 掃除夫 その2
その1の続きです。
※暴力表現があるので、苦手な方はご注意ください。
十二年前。久遠二十二歳、咲楽十六歳のある日。
当時の久遠は定職についておらず、さらにとある事情で幼馴染の屋斎十真十から借金をしていたために金がなかった。
今の彼には考えられないが、路上で一夜を明かすことも多く、その日暮しの仕事をしていた。
そんな彼に舞いこんで来た仕事は“運び屋”だった。
運び屋といっても覚醒剤などの違法な物ではなく、封筒を指定された場所と日時に届けるだけで五百万円ももらえ、そこまでの交通費までもらえる割のいい仕事だ。
外装はどこにでもありそうな封筒と何か書かれている会社に提出するような書類で、中を透かして見ても不審な点は何もなかった。
依頼人も三十代と若く、社会の裏側を生きる人間と思えない穏やかな人柄の男だ。
だから久遠はあまり深く考えずに、その仕事を受けた。
実はその書類こそ当時独裁国家と名高かった国の首相や政治家、高位の官僚達のスキャンダルが書かれている機密文章であった。
その価値は五百万を軽く超え、届け先は反乱軍だった。
当然そんなことを知らない久遠は正式な手順で入国し、指定された日時まで次の仕事を探しながら街をぶらぶらし、諜報員にばっちり目をつけられた。
久遠の様子は逐一首相へ報告され、彼を殺しても国際的に何も問題がないとわかると、すぐに書類の処分と久遠の暗殺命令がくだされた。
その命令を受けたのが、当時“ブラックマンバ”と呼ばれていた咲楽だった
久遠・四方山。国籍は日本。
性別は男で年齢は二十二歳。
特定の仕事には就いておらず、収入源は日払いの仕事で得られる賃金。
日本円にして三百万円の借金がある。
入国履歴はなく、今回が初めてであり、目的は観光。
だが、実際はテロ組織を支援していると見られる重要人物と数回密会している。
高報酬と引き換えに、三月九日に我が国を脅かす機密文書の運びを行う予定。
取引場所、日時は不明。
入国してから一週間が過ぎているが、職を探していることの他は特に動きはない。
諜報部隊の情報通り、久遠はバス停の周りで職を探して手当り次第に英語で話しかけていた。
この国の主な移動手段はバスだ。
だからバス停で声をかけるという発想はよかったが、久遠の言葉が悪かった。
この国の人間は英語を知らないのだ。
教育を受けられるのは金持ちの子供か、ブラックマンバのように従軍する者や公務員くらいで、ほとんどの国民が自国の文字すら読み書きできない。
久遠はヘラヘラと笑う訳の分からない言葉を話す男として、無視されていた。
それでも彼はめげずに声掛けをし続けた。
ナイフを隠し持ちながらブラックマンバは久遠に近づく。
気配を完全に断ち切った彼に久遠は気づく様子がない。
だからそのまま手筈通り、強盗の振りをしてすれ違いざまに殺すつもりだった。
あと一歩というところで予想外の事態が起きた。
別の人物に話しかけていたはずの久遠が突然振り返り、ブラックマンバに話しかけてきたのだ。
「ハローハロー!そこのお兄さん!あんた英語わかる?ここらへんの人は皆英語知らなくてさ困ってんだよ。お礼するから助けてくれない?」
へらへらと人好きのする笑顔を浮かべて久遠はブラックマンバに声をかける。
「……この国ではほとんどの人間が教育を受けられないから英語を知らない」
動揺を押し殺して、淡々とした口調でブラックマンバは答えた。
「へえ!それじゃあ英語で話しかけてわからないのも無理ないな。日本人に中国語で話しかけるみたいなもんか。じゃあお兄さんは特別な人なんだな。金持ちには見えないから軍人か警察って所か?」
適当に話しかけていたようで、実際は相手のことを観察していたようだ。
鋭い指摘にブラックマンバは情報を上書きし、警戒を強める。
「軍人だ。お前は何のためにこの国に来た?」
「あーそんな感じだわ。仕事とついでに職探しだ」
久遠は一人でからからと笑い、何かに気づいたように真剣な顔でブラックマンバに話しかけた。
「なあ軍人って給与いいのか?休暇は?殉職手当とかあんの?」
本当に仕事探しもやっていたらしい。
細くも太くもない久遠の体型は明らかに筋力不足だ。
訓練次第では化ける可能性も否定できないが、集団行動が苦手そうな性格に見える。
どちらにせよ、軍人には向いていないだろう。
ブラックマンバは一応質問には答えておくことにした。
「国民の給与の三倍程度だ。休暇は一月に四回。任務中に殉職した場合は歩兵で墓代、少佐以上で葬儀代まで出る」
この国の経済状況は世界最底辺ランクだ。
一般的な国民の所得は先進国と比べればお小遣いにもならない。
だからか、軍人を目指す若者は多い。
「うっわ―……やっす。特に殉職手当は少なすぎだろう。この国のお偉いさんは残された家族にもっと渡そうとか思えねえのか?」
「軍に所属する者のほとんどが身寄りがない。だから死後に金を渡されても使えない」
何より近頃では反乱軍の活動が激しく、歩兵のほとんどがその対処に使われている。
首相達にとって軍人は掃いて捨てるほど替えの効く存在である。
その価値は囲いこんでいる愛人達より遥かに低い。
「なるほど。この国の軍人は使い捨ての駒扱いってわけか。いけすかねえ国だなおい。もうちっと仕事探すつもりだったけど別の国で探すわ。この国でもう一度働く気が失せた」
顔も知らない他人を想像して、久遠は眉を寄せた。
ブラックマンバは久遠に少し腹が立った。
「この国でしか生きられないものもいる」
「そんな奴いねえよ。人間、生きようと思えばどこでだって生きていける。お前はこの国から出たことがないのか?」
「そうだ」
ブラックマンバは短く肯定した。
「なんでまた?優秀そうなお前ならどこの国でだってやっていけそうだぜ?なんだったら俺がいい国を紹介してやろうか?」
久遠が心底不思議そうにいう。
「俺はお前と違ってこの国でしか生きられない」
本当は他の国にも興味があった。
だが、数十年に及ぶ教育という名の洗脳は、彼を国に尽くす兵士という名の兵器に改造していた。
「ふうん。そっか」
久遠は何かいいたそうな顔をしたが、それ以上はつっこまなかった。
話を変えるように彼は名を尋ねた。
「俺の名前は久遠・四方山だ。あんたの名前なんていうんだ?」
ブラックマンバは答えに窮した。
彼は名前がなかったのだ。
本当は彼にも名前があったのかもしれないが、ずっと呼ばれないために忘れてしまった。
「……ラックマン」
結局コードネームをもじって、それを伝えた。
「ラックマンっていうのか!幸せそうないい名前じゃねえか!」
不自然に間が空いたが、久遠は気にしていないようだ。
笑顔で名前を褒める久遠に胸が痛んだ気がした。
次の日に同じ場所に行くと久遠がいた。
だが、彼は誰にも声をかけることなく、しきりに辺りを見渡して探し物をしているようだ。
そんな彼の様子を少し離れた場所から観察する。
昨日は予想外の行動に動揺してしまったが、今日こそは任務を実行しなければならない。
ブラックマンバに気づくと、久遠は昨日と同じ笑顔で近づいてきた。
「よっ!ラックマン!今日も仕事が休みなのか?羨ましい身分だな。この野郎!」
お前にいわれてたくはないという言葉をすんでのところで飲みこみ、頭に向かって伸びてきた久遠の手をブラックマンバは反射的に払った。
久遠の驚いた顔にブラックマンバは心の中で顔を青ざめた。
ただの軍人ではないことがばれたか?
「お前、本当に軍人だったんだな!今のすげえ早くて全然見えなかったぜ!もう一回やってくれねえか!」
心配は杞憂だった。
久遠は目を子どものように輝かせて、ブラックマンバを見上げた。
再び伸ばされた手を今度は掴む。
「やめろ」
本気で嫌だったブラックマンバは久遠を睨みつけた。
「えー。けちー」
お菓子をもらえなかった子供のように口を尖らせたながらも、二度と頭に手を伸ばさなかった。
「家族はいるのか?」
そう聞いたのはなぜだろう。
ブラックマンバは無意識だった。
「おう!目に入れても痛くない娘達がいるぜ!生まれてからしばらく会ってねえけどな!」
久遠は自慢げに胸を張った。
ブラックマンバはこんな適当な男に嫁と娘がいることに驚いていた。
「娘?」
「あ!嫁にくれっつっても絶対にやらんからな!ロリコンは犯罪なんだぞ!うちの娘に手を出す奴は誰であろうと絶対に許さん!」
「誰が手を出すか」
「そういやラックマンはいくつなんだ?」
ブラックマンバは久遠の顔を観察した。
同じ色の髪に、二重の目、全体的に薄い印象を与える顔、自分よりも低い身長。
後先を考えていない軽い言動。
何度見ても自分より年下にしか見えない。
「……十六だ」
「嘘だろ!?絶対俺より年上だろ!?え?え?ってことはお前はまだ高校生なのか!?」
「この国に高校はない」
「いやそうじゃなくて!ラックマンはいつから軍人やってんの?」
「物ごころがつく前からだ」
「嘘だろ……!?物心が付く前っていえば幼稚園児じゃん!幼児を戦場へ行かせるってこの国どうなってんの!?おかしい!絶対におかしいって!お前、怖かっただろ!?」
久遠はブラックマンバの肩を掴み、顔を覗きこむ。
その顔はなぜか今にも泣きそうなほど歪んでいた。
「……わからない。忘れた」
肩を掴む腕を払うことも忘れ、ブラックマンバは久遠の視線から逃げるように顔を逸らした。
ブラックマンバは厳しい訓練を耐えるために感情を殺す術を覚えてから、それまで感情も今までの感情もそのほとんどが消えている。
それにも関わらず、久遠の言葉にわずかに残っていた感情が揺れた。
次の日も久遠は同じ場所にいて、ブラックマンバが声をかける前に気づいた。
「おーい!ラッぐふっ!?」
久遠の言葉が不自然に遮られた。
飛びだしてきた一人の汚れた格好の男が久遠にぶつかったのだ。
絡まり合うように倒れた二人だったが、先に起き上がった男はそのまま謝りもせずに逃げようとする。
ブラックマンバは男の襟を掴み、力任せに地面に叩きつける。
仰向けに倒れた男の腹に足を置き、静かな声でこういった。
「盗んだ物をこいつに返せ。そうすれば今回だけは見逃してやろう」
ブラックマンバは男が久遠から何かを盗んだのをはっきりと見た。
「何のことだ?いいがかりはあぁあああああああ!」
言葉だけで人のいうことを聞くような奴なら、最初からこんなことはしない。
ブラックマンバは足に力をこめ、内臓を抉るようにブーツを捻った。
それだけで男は叫び、暴れる。
「痛いか?ならばこれ以上痛くならないうちに返せ。自慢ではないが俺は気が短いぞ?」
静かな口調が男の恐怖をさらに煽ったのだろう。
「わ、悪かった!だから見逃してくれ!」
男は久遠から盗んだ物を全て返した。
パスポートに財布、ペンダント。
どれも売ればそれなりの値段になりそう物ばかりだ。
不用心にもほどがある。
「おい。これで全部か?」
「……あ?ああ、そうだな。これで全部だ」
なぜか呆然と見ていた久遠がやっと現状を把握し、返事をした。
盗まれた物を返してもらった以上、ブラックマンバも捕らえるつもりはない。
このくらいの軽犯罪は溢れるほど頻繁に起こっている。
いちいち取り締まっていてはきりがない。
ブラックマンバは足をどけ、男を解放する。
男は情けない悲鳴を上げながら、一目散に逃げて行った。
「ありがとうな!おかげで助かったわ!」
今さっき盗まれた者の顔とは思えないほど緩み切った久遠に、ブラックマンバの眉が寄る。
「お前には警戒心が足りない。もっと盗まれないように気をつけろ」
「ラックマンのいう通りだな。ちゃんとガイドブック通りに肌身離さず持っていたんだけど、意味なかったわ。次から盗られにくい場所に入れとかねえとな」
本当に反省しているのかわからないことを、久遠はいつも通りの口調でいう。
「いったいお前はこの国に何をしに来たのだ?」
「一昨日いわなかったか?仕事だよ、仕事。詳しいことはいえないけどな」
詳しいことも何もブラックマンバは全て知っているし、ましてや久遠を殺そうとしている。
「もしかしてお前は俺を特別なやつだと思ってねえか?」
不思議そうに久遠はブラックマンバを見上げる。
「違うのか?」
多少は久遠の態度が演技かも知れないと疑っていたブラックマンバはわずかに目を見開く。
「俺は一人じゃあなぁんにもできねえよ。いつもたくさんの人に助けてもらってなんとか生きてんだ。今だってこうしてお前に助けてもらったしな」
久遠は少年のように屈託なく声を上げて笑った。
どうして久遠はそんな風に笑えるのだろうか?
「でもそれは特別なことじゃなくて当たり前のことなんだよ。お前もさ、一人で頑張ってねえで誰かに頼ってみろよ。大丈夫。世界は案外、お前が思っているよりもずっと優しいぞ。それに度胸のある真面目なお前のことが俺はけっこう好きだぜ」
照れながらも久遠の視線はブラックマンバに向けられた。
彼は淀みのないまっすぐな視線が眩しく思えて、不自然にならないように顔を背けた。
次の日も。
また次の日も。
その次の次の日も。
さらに次の次の次の日も。
時間をずらして違う時間に行っても。
久遠は同じ場所にいて、ブラックマンバが声をかける前に気づいて近づいてきた。
ブラックマンバが無意識に他人の間に作っていた壁などないかのようにするりと心の中に入りこみ、彼の心をかき乱す。
これが演技だというのならブラックマンバは誰も信じられない。
それほどまでに久遠は自然だった。
もし全てがブラックマンバから逃げるための手段だったとしても、必ず任務は実行する。
会う前に隠し持ったナイフに触れ、どれだけ決意を固めても久遠に会った瞬間に殺意は霧散する。
そうして久遠を殺さないまま、一週間が過ぎた。
「この役立たずがあぁああああ!」
上官へ呼ばれ、部屋に行って初めてかけられた言葉がそれだった。
同時に頬を殴られ、ブラックマンバの顔が歪む。
軍人にとって上官の命令は絶対であり、どんな理不尽な命令であっても実行しなければならない。
わかっていたはずだが、ブラックマンバは命令を受けてから一週間が過ぎた今日も実行に移せなかった。
「申しわけありません」
ブラックマンバは謝罪の意をこめて、腰を深く折り、頭を下げた。
だが、上官は彼の腹に上官は容赦ない蹴りを放つ。
「……っ!」
上官は痛みに腹を押さえる彼の髪を掴み、無理やり顔を上げさせ、さらに顔を殴った。
「たかがテロリスト一人殺すのに何日かけている!」
上官の暴力はしばらく続いた。
ブラックマンバの実力ならばろくに訓練を受けずに私腹を肥やした目の前の上官を簡単に殺せる。
だが、上官に下位の軍人が刃向うこともまた許されてはいない。
ブラックマンバは上官の気の済むまで、痛みに耐えながら暴力を受け続けた。
「孤児のお前を育ててやったのは誰だと思っている!」
「お前がやらなければ他の者にやらせるだけだ!」
「お前の替えなどいくらでもいる!」
「お前」「お前」「お前」
すでに上官の罵倒のほとんどが彼の耳に届いていない。
過ぎた暴力によって彼の意識は途切れる寸前だった。
『お前』
久遠もそうやって呼ぶのに、どうしてこんなに違うのだろうか?
久遠がそういう度に残っていた感情が揺れ、彼を処分できなくなる。
ブラックマンバは殺人機械と呼ばれていた自分が外側も内側も壊れていくのを感じた。
目が覚めるとそこは軍の仮眠室だった。
体中が痛むが、重傷や重病を負っていない自分が訓練を休むことは許されない。
ブラックマンバは体を起こそうとして、誰かに引き止められた。
「まだ起きない方がいいよ」
引き止めたのは同じ上官に属する男だった。
何があっても穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接する彼は、多くの仲間に好かれている。
「君がこれほど任務に時間をかけるなんて珍しいよね。いや初めてかな?今回の任務はそんなに難しい?」
「……いや簡単だ。きっと他の者でも、新兵にだって出来る」
この国の人間の誰よりも隙だらけで、いつでも殺せる。
にも関わらず、彼がナイフを久遠に突き立てることは出来ない。
それが示すことは一つしかない。
だが、彼は事実を見て見ぬふりをしてきた。
今までとこれからの彼を守るために、どうしても認めるわけにはいなかったのだ。
「でも君には出来ないんだね。それってそれだけ大切な人が出来たってことじゃないの?」
久遠を殺せば、俺はきっと後悔する。
今まで何度も人の命をこの手で奪ってきたが、初めてそう思い、彼はそう思った自分に驚いた。
最初に殺した人間の顔は思い出せないのに、久遠の笑顔はいつだって思い出せた。
童顔の久遠は笑うとより幼く、より幸せそうに見せた。
自分とは違う存在のはずの久遠が彼に向ける笑顔がゆっくりと彼を狂わせていた。
気づいた時にはすでに遅い。
ブラックマンバに久遠は殺せない。
全てこの男のいう通りだ。
彼の命よりも、任務よりも、たった数日前に会って話をして、気まぐれに一度助けただけの久遠が大切な存在になってしまった。
「今回の任務は明日から別の人の担当になったよ。だから君は安心して休むといい」
任務の内容を知らない男は穏やかに笑い、部屋を後にした。
残ったのは静寂と混乱。
仮に久遠のことが済んでも、これから彼が任務をこなせるかわからない。
彼の任務の内容は今回のように国の裏側に触れる物が多い。
上官から与えられた大陸一の毒蛇と同じコードネームにこめられた意味を、理解していないわけではない。
実力があり、どんな任務も躊躇いもなく音もなく確実に実行する彼を国は求め、今まで使われていた。
任務をこなせない彼に価値はない。
多くのことを知りすぎた者を待つのは“死”あるのみだ。
「……俺は軍人だ。任務に感情など必要ない。必要ない、はず、だろ……っ!」
シーツを握りしめ、自問し続ける。
どうしてこうなったのだと。
十六歳の咲楽に年下に見られる二十二歳の久遠です(笑)
その3に続きます。




