402号室 掃除夫 その1
平和を知らない少年は暴力しか知らない。
※暴力表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
久遠が『ビームカンパニー』本社へと帰ってから五日が過ぎた。
あれから久遠から連絡は来ていない。
おそらくクリスマス前からに溜めた仕事に追われているのだろう。
久遠が仕事に忙殺され、やつれていく姿が咲楽の目に浮かんだ。
年末が近づき、久遠のアパートの掃除夫、咲楽も忙しい日々を送っていた。
毎日掃除をしていても、手の届きにくい場所はあり、わずかながら埃が溜まっている。
大晦日と新年を気持ちよく迎えるために彼はいつも以上に念入りに掃除をする。
そんな咲楽の朝は早い。
毎朝四時に起き、動きやすい服に着替え、軽く一時間ほどジョギングをし(時速二十キロメートル)、自室にあるダンベル運動から腹筋運動やベンチプレスまで出来る本格的な筋トレグッズで軽く一時間ほど筋トレをする。
そして、栄養のバランスの良い朝食を少なすぎず、多すぎない適量をよく噛んで食べる。
食べ終わると食器を洗う。
外にある共同浴場でシャワーを浴び、汗を流す。
再び、服を着替え、ドライヤーで髪を乾かし、櫛で梳き、綺麗に整える。
それから歯を磨き、棚の中からいつもの掃除夫らしい今日は桜色のエプロン姿を選んで着用する。
無地の生地に印刷されたファンシーな熊が無表情の咲楽とは反対に満面の笑みを浮かべていた。
最後に部屋に備えた二メートルの姿見で身だしなみをチェックし、悪いところがあれば正す。
身だしなみを整えた後は、家中の鍵を施錠し、ガスも元栓や水道の蛇口も漏れがないが確認し、玄関の鍵をかける。
それから同じフロアにある洗濯場に行き、雇い主の久遠の娘達と未来の洗濯物を色物、白物に分け、まず白物を洗濯機に入れ、選択開始のスイッチを押す。
洗濯機が終わるまでの間に、隣の厨房で娘達と未来の朝食を作る。
量と食事のバランスを考えた上に、それぞれの好みの味を考えた味付けにする。
朝食にサランラップをかけ、それぞれのトレイに盛り終わると同時に、洗濯機が終わりを告げる。
ポケットから携帯電話を取り出し、娘達へモーニングコールならぬ、モーニングメールを送り、トレイをすぐ近くにあるの食卓に並べ、洗濯場に行く。
洗濯済みの洗濯物とそうでないものを入れ替え、再びスイッチを入れる。
洗濯物が入った籠を片手に、屋上に向かって廊下を歩く。
アパートにはエレベータなどなく、移動はもっぱら階段だ。
鍵のかかっていない屋上の扉を開けると雲一つない空が広がっていた。
そんな天気の良い日はこうして屋上で洗濯物を干す。
巨大な物干し竿に洗濯物をどれも丁重にしわを伸ばし、風で飛ばされないように干していく。
全ての洗濯物を干し終わると階段を下り、洗濯場に籠を置き、倉庫へと向かう。
倉庫には用途別に掃除道具がそろっており、その中から箒と塵取りを取り出すと、廊下の突き当たりから、反対の突き当りまで砂粒一つ残らないよう掃いていく。
掃き終わると、集めたごみを捨て、今度は倉庫からモップとバケツを取り出し、先ほど掃いた廊下を隅々まで拭き上げていく。
それが終わると、モップとバケツを倉庫へしまい、ワックスを取り出し、廊下に斑なく均一にかけていく。
廊下に姿が映るくらいになったら、二度目の洗濯物が終わる。
倉庫へワックスを戻し、集めたゴミを分別する。
今日は燃えるゴミの収集日で、咲楽は燃えるゴミと書かれたゴミ袋の袋を縛り、階段を降り、道路にほど近いアパートの集積所に捨てる。
来た道を引き返し、再び洗濯場に行き、洗い終わっていた洗濯物を籠に入れ、屋上へ向かう。
一度目と同じように洗濯物を干し、階段を下りていると着信を知らせ、携帯が震える。
携帯には娘達から今日の朝食についての感想が書かれていて、咲楽はそれを参考に次の日の朝食を考える。
それらが終わる頃には九時を過ぎ、住人のほとんどが外出している。
住人のいないアパートは箒で床を掃く音が聞こえるほどに静かだ。
平日のこの時間にいるのは屋斎十真十くらいで、たまに大学の講義が休みになったなどの理由で、佐藤良平や黒野原千秋、多福新がいる。
考え事をしながらも咲楽の手は止まらない。
四階から下を先ほどと同じの順に掃除していく。
彼が毎日掃除をしているおかげで、築五十年のアパートは見た目こそ今にも壊れそうだが、建物内部は綺麗だ。
一度四階に戻り、倉庫から窓拭き用の掃除道具と脚立を取り、廊下の窓を拭いていく。
汚れの溜まりやすい窓のサッシの部分も忘れずに、ついでに電球も取り外し掃除する。
その次はアパートの外回りを掃く。
指定場所以外にゴミを捨てるような住人はいない。
だが、通りすがりの者が煙草や空き缶といったゴミを捨てていく。
咲楽はそれらを文句をいうことなく拾い集め、持参したゴミ袋へ捨てていく。
その彼の真面目な態度は近所の住民にも評判だが、本人は知らない。
掃き掃除の次は隣に建てられた共同浴場の掃除だ。
まず掃除するのは男用だ。
扉をノックし、誰もいないことを確かめて、ポケットから鍵を取り出し、咲楽は中に入る。
脱衣所には銭湯でよく見るような衣服を入れる棚が壁沿いに六つ並んでいる。
鍵はかけられない仕組みだが、蓋付きで閉めれば中は見えないようになる。
他には洋式のトイレが一つと、掃除用具が入った大きなロッカーがある。
咲楽は入口の扉と浴室の扉を開け、湿気を追い出すため換気をする。
次にロッカーの中から小さな刷毛を取り出し、上から順に棚を一つずつ履いていく。
棚が終わると今度は竹で出来た床を隅まで丁寧に掃き、集めたゴミは先ほどとは別に用意した小さな袋にまとめる。
固く絞った雑巾で軽く拭きあげる。
棚や床の次はトイレだ。
使う者が少ないからか、さほど汚れていない。
両手にビニール手袋をはめ、トイレ用洗剤を便器にかけ、専用の柄付きブラシで磨き、水を流す。
さらにトイレ用洗剤を専用の雑巾にかけ、便器や床を拭き、一度雑巾につけた洗剤を洗い流し、仕上げに拭き上げる。
脱衣所の掃除は数分で終わり、浴室の掃除に移る。
咲楽はシャワーと小さな浴槽がある個室から始める。
掌よりも大きなスポンジに洗剤を振りかけ、泡立ててから浴槽や床、給湯機を洗い、お湯をかけていく。
大人が五、六人一緒に入ることのできる大浴場は柄付きスポンジで、同じように洗っていく。
咲楽は蛇口のわずかな水垢すら許さない。
彼が掃除夫になってから、浴室は新品に近い状態を保っている。
排水口に溜まったゴミを小さなゴミ袋にまとめる。
それで掃除は終わりだ。
女用も中の構造は同じだ。
咲楽は男用での掃除を女用でも同じように繰り返す。
全てを終えた頃、時刻は十二時を回っていた。
咲楽は四階の厨房に戻り、簡単な昼食を作る。
今日は卵丼にした。
咲楽は最初箸を使えなかったが、今では手の一部のように使えるようになった。
食事を数分で済ませ、娘達の食器も一緒に洗い、食器乾燥機に入れる。
十分ほど休憩した後は晴達の隣の自分の部屋の掃除だ。
筋トレグッズの他にあるのは装飾品のない折り畳み式ベットとシンプルな机と壁掛け時計だけだ。
衣類は物置きを改造したクローゼットやその中の衣装ケースに全て収められている。
家具が少ないため、掃除は数十分で終わる。
元々物欲の薄い咲楽に必要な物はほとんどない。
だが、ただ一つだけ、日本人にはほとんどない必要ない物が手放せない。
クローゼットの奥の天井を強く押すと蓋が外れ、屋根裏部屋と繋がる。
咲楽は両手を引っ掛けると懸垂のように体を持ち上げ、広いとはいいがたい場所へ身を出す。
幼稚園児ほどの高さしかないスペースは咲楽には窮屈そうだ。
そこもきっちりと掃除されており、埃が舞うようなことはない。
目の前には不自然な一塊に布がかけられている。
咲楽は布を掴み、勢い良く取り去った。
現れたのは大小様々なスーツケース。
その中の一つを手に取り、ダイアル式の五つの暗証番号を入れ、鍵を開ける。
中から出てきたのは……衝撃緩和材に包まれた黒く光る銃。
咲楽がどうしても手放せない物。
それは人を傷つけ、人を殺す『武器』だ。
ここには世界中から集めた多種多様な武器がスーツケースに詰まっている。
使い方すら分からない物があるが、大抵が片手か、両手で扱える物。
特に多いのは銃器で、次いで刃物が多い。
屋根裏部屋に大量の武器を置いていることを知っているのは久遠だけだ。
スーツケースから一つ一つ取りだし、一緒に置いている懐中電灯をつけ、用具を使い、分解出来るものは分解し、パーツごとに隅々まで磨き、組み立て直す。
その手つきは手早く正確で、とてもじゃないか素人のそれではない。
咲楽はなんの表情を浮かべることなく、淡々と繰り返す。
全て磨き終えると鍵を閉め、布を被せ!屋根裏部屋から出て、繋がる蓋を閉める。
蓋とクローゼットの天井は同じ色で、よほど注意深く観察されない限り、蓋があるとは気づかれない。
油で汚れてしまった手を布で拭き取りながら、咲楽は壁掛け時計を見る。
時刻は三時を過ぎている。
今晩の夕飯や明日の朝食の買い出しの時間だ。
厨房で手を洗い、咲楽は汚れたエプロンを着替える。
今度のエプロンは橙色の生地にデフォルトされたな兎が愛らしくウインクしている。
携帯電話と財布、エコバッグを片手に咲楽はアパートを後にする。
商店街は今日の夕飯や明日の朝食を求めてやって来た人々で賑わっていた。
その中でも無表情で背の高く、服の上からでもわかるほど筋肉質で、エプロン姿の咲楽はかなり浮いている。
だが、咲楽は気配を完全に断ち、存在を背景と同化させていた。
注意深く見なければ彼に気づく人はいない。
「よっ!さくらちゃん!今日は鰤がおすすめだよ!」
今晩の夕飯を何にしようかと店頭に並ぶ魚を見ながら、悩む咲楽に気づいた魚屋が威勢よくに話しかける。
禿頭にタオルを巻いた顔はどことなくタコを思わせる。
「それなら一匹頼もう」
今日の夕飯はぶり大根に決まった。
鰤一匹は娘達や未来が食べるには少々量が多いが、切り身にし、醤油につけて冷蔵保存しておけば一週間程度はもつ。
「毎度あり!三枚におろすか?」
「いや。自分でやるから結構だ。他の買い物もしたいので、取り置きしてもらえるか?」
「それくらいお安い御用だ!」
「感謝する。ではまた後で来る」
魚屋を後にした咲楽が向かったのは少し先にある八百屋だ。
「あら、さくらちゃん。今日も来てくれたのかい?」
八百屋は大らかな笑顔と体格で咲楽に話しかける。
「迷惑だったか?」
「あんたのことを迷惑なんて思う奴はこの町にはいないよ。もしそんな奴がいるならあたしの前に連れてきておくれ」
「ならいいのだが。大根と人参と白菜と生姜を頼む」
「あいよ。いつもうちを贔屓してくれるさくらちゃんに林檎をおまけだよ」
「感謝する。雲達が喜ぶ」
「相変わらず仕事熱心だね。うちの亭主に爪の垢を飲ませてやりたいくらいだ」
淡々という咲楽に八百屋は苦笑する。
「俺などまだまだだ。奥様の方が仕事熱心だ」
「嬉しいことをいってくれるじゃないか!もう一つおまけだよ」
「気持ちは嬉しいがそれでは利益がなくなる。やはり両方とも代金を払う。いくらだ?」
「あんたは本当に面白いね。五百二十円だよ」
「面白い?どこがだ?」
代金を渡し、商品を受け取る咲楽の目に疑問が浮かぶ。
「そういうところだよ。また来ておくれよ」
「よくわからないが、また来る」
次に咲楽が向かったのは肉屋だ。
「やあ、さくらちゃん。今日は何にする?」
三十代半ばの肉屋は商店街一の色男で、冗談混じりに主婦を口説くことが趣味だ。
「ウィンナーを十本と鶏肉四百グラム頼む」
「はいはーい。ウィンナーは合い挽きだよね?」
「ああ、そうだ」
「さくらちゃんって、そんなに真面目で疲れないの?久遠さんは時々しか帰ってこないんだし。たまにはサボってもバレないのに」
「久遠には返しきれない恩がある。それに好きでやっていることだ。疲れることはない」
「さくらちゃんって、本当に真面目だね。はい、これ。落とさないように注意してよ」
「ああ、了解した。いくらになる?」
慎重な手つきで肉を受け取った咲楽に肉屋はぶふっと吹き出す。
とっさに口を押さえたため、唾が咲楽にかかることはなかった。
「さくらちゃん、今のは『お使いに来た小さな子供じゃないんだから落とさないよ』ってツッコミを入れるところだよ。代金は六百七十円ね」
「そうか。なら次からそうしよう」
肉屋はまた吹き出す。
「じゃあ、またよろしくね〜」
「ああ、こちらこそ」
咲楽は魚屋に戻り、代金と引き換えに鰤を発砲スチロール箱ごと受け取り、アパートへと帰る。
発砲スチロール箱を肩にかけた咲楽は余計に目立つ。
商店街の入り口で井戸端会議をしていた主婦達は通り過ぎようとした咲楽に気づき、声をかける。
「あらあら、さくらちゃんじゃない!今日のお夕飯は魚かしら?」
「ああ、今日の夕食はぶり大根だ」
「あらいいわね。今日は寒いし、私もそれにしようかしら」
「さくらちゃんが持つと大きな魚も小さく見えるわね」
「そうか。こちらの奥様は?」
咲楽の視線の先には他の主婦よりも少し若い主婦が怯えた顔をしている。
その主婦は先日越してきたばかりでこの町のことをよく知らなかった。
「あら?さくらちゃんと会うの初めてだったかしら?八馬元さんっていうのよ」
「初めまして。二葉荘の掃除婦をしている佐久間咲楽という。これからよろしくお願いしたい」
咲楽は若い主婦に頭を深く下げる。
「は、はいっ!こ、こちらこそ、よ、よよ、よろしくお願いします!」
「あっ!さくらちゃん、聞いた?最近暴走族っていうのかしら?そういう柄の悪い子達があなたを探してるみたいなのよ」
「さくらちゃんのことだから大丈夫だとは思うけど、最近の子って限度を知らないじゃない?だから気をつけてね」
「考えたくはないけどもしもってこともあるし、しばらくは大通りを歩いた方がいいと思うわ」
「ご忠告感謝する。迷惑と心配をかけて申し訳ない」
「このくらいいいの。私達、いいえ。この町の皆があなたを大切に思っているんだから」
「俺には過ぎることだが嬉しいと思う。この町のために俺に出来ることがあれば何でもする」
「そんなことないわ。さくらちゃんのおかげでこの町はとっても平和なのよ」
「そうよ。お礼をいうのはあたしたちの方ね」
ちょうど四時を告げる町内放送が流れる。
「もうこんな時間か。俺は失礼する」
「呼び止めちゃってごめんなさいね」
「また会いましょ」
主婦たちと別れ、咲楽は帰りを急いだ。
その後ではこんな会話が続いていた。
「あ、あの!さっきの人ってそんなに有名なんですか?」
「そうねえ、この町に住んでて知らない人はいないんじゃないかしら?」
「さくらちゃんはとってもいい子なのよ。この町に来たのは十年くらい前ね。商店街からしばらく行ったところに古いアパートがあるでしょ?そこのアパートの大家さんの四方山久遠さんが外国から連れて帰って来たらしいの」
「最初は皆怖がっていたんだけど、本当に優しくて頼りになる子なのよ。この町に来て一週間くらいたった頃かしら?小学校の帰り道で連れ去られそうになった子を助けてくれたのよ。勘違いされて逮捕されそうになっていたけれど」
「五年前にストーカーに襲われた若い娘を助けてくれたこともあったわよね。勘違いされて怯えられていたけれど」
「三年前の九十歳になる三谷野さんが倒れた時だって背負って病院に行ってくれたわ。勘違いされてお医者様に怒鳴られていたけれど」
「……勘違いされやすい人なんですね」
怯えていた主婦の顔に笑顔が浮かぶ。
「見た目が怖いせいかしらね。話してみると面白い、とってもいい子なんだけれどね」
「そういえば知ってる?あのエプロンは四方山さんがさくらちゃんに贈ったものらしいわ。少しでもこの町の人と仲良くなれるようにって」
「あらそうだったの?私はてっきりさくらちゃんの趣味だと思っていたわ」
「私もよ。同じようなデザインのエプロンをあげても嬉しそうだったし。あれは気をつかっていたのね」
咲楽が消えた方向へ温かい視線が送られるが、本人はそんなことは露知らず、夕飯のことしか頭になかった。
商店街で話し込んでしまった。
このままでは夕飯に間に合わない。
だが、しばらくは大通りを歩いた方いいと忠告された。
数秒迷った後、咲楽は近道のビルが建ち並ぶ人の少ない薄暗い路地へと入る。
細い路地の先に見るからに柄の悪い男達がたむろっていた。
咲楽に気づくと男達は行き先を塞いだ。
その中で一番体格のいい男が口を開く。
「おい、おっさん。あんたが例の強い」
咲楽は男の言葉を無視し、男達へ勢いよく駆け出した。
男がそれぞれの武器を取りだし、身構える。
咲楽は男達の五メートルほど手前でで深く屈めてから、跳び上がった。
男達が呆然と彼の姿を見上げた。
なんと彼は荷物を抱えながら、二メートル近く跳んだのだ。
さらに彼は三角飛びの如く、ビルの側壁に着地し、男達の頭上を跨ぐように跳び上がる。
たったそれだけの言葉で彼の一連の動作は説明出来た。
だが、実際に彼がやったことを荷物を持ちながら出来る人物はどれだけいるだろうか。
咲楽は最小限の衝撃と音で男達の背後に降り立ち、何事もなかったなのように歩き出した。
そこでようやく男達の硬直が溶ける。
「待てゴラァ!」
一人の男の声を合図に全員が咲楽へと襲いかかった。
だが、この程度の状況で咲楽は慌てない。
彼にとってチンピラとの喧嘩は子供の喧嘩と大差のない生温い物だ。
背後から振り下ろされた鉄パイプを左に身を寄せて躱し、前のめりになった頭に発泡スチロール箱を持ったまま肘を落とし気絶させる。
男は声を出すことなく、地面に倒れこんだ。
脇腹に向かってきたスタンガンを持つ男の腹に数人を巻き込んで後ろ回し蹴りを決める。
骨の砕ける感触があったが、咲楽は容赦なく振り切った。
不安定な体勢になった咲楽へ殴りかかってきた男へ、エコバックを全力で投げた。
重い野菜がつまったそれは男の顔面にぶつかり、意識を奪う。
飛んできたナイフのグリップを空いた手で掴み、来た方向へ投げ返す。
足を狙ってきた棍棒を持っている手ごと片足で踏み砕く。
棍棒で襲ってきた男は耳障りな声をあげ、手を押さえて悶え転がる。
たった数十秒。
それだけの時間で咲楽に向かってくるものはいなくなった。
目の前には腕や足などを折られ、ナイフで手足を刺された者が、傷を押えてうめき声をあげていた。
極限まで鍛えられた肉体と二十年以上の戦闘経験から繰り出される攻撃は、人体を壊すだけではなく一撃だけで人を殺すことさえ出来る。
だが、咲楽はそれ以上男達に目もくれず、エコバックを拾い、中身が無事であることを確認すると、アパートへの帰りを急ぐ。
路地を抜けた先で、ばったりと見知った顔と出会った。
見知った顔ことアパートの住人、屋斎十真十も咲楽に気づき立ち止まる。
側には数名の部下を連れていた。
「またやったのか、咲楽。お前もよく飽きねえな」
路地の奥を見てトマは咲楽をからかうようにいう。
トマは近頃の咲楽がチンピラや不良達の間で、“最強”といわれているのを知っていた。
噂の原因はおそらく今のように向かってくる者の相手をしていたからだろう。
「頼んでもいないのに向こうからやって来る。正直、迷惑だ」
淡々と咲楽は答えた。
人によっては彼がかなり怒っているようにも見えるだろう。
「俺がなんとかしてやろうか?」
トマが冗談交じりの笑顔で提案してくる。
彼の力を使えば、広まった噂を揉み消すことくらい簡単に出来る。
「結構だ。俺は困っていない」
甘い提案を咲楽ははっきりと断る。
迷惑だとは思うが、それは目の前を羽虫がうろうろしているようなものだ。
俺以外の者に手を出す気がないのなら、どうでもいい。
咲楽はそう考えていた。
「お前は相変わらずだな。久遠以外の人間には頼ろうとしねえ」
「俺は掃除夫だ。住人に借りを貸す訳にはいかない」
「堅苦しい奴だな」
頑なに拒む咲楽にトマは思わず苦笑する。
まるで意地っ張りで周りが見えていなかった昔の自分のようだと。
「話はそれだけか?なら俺は失礼する」
トマの笑みの意味に気づくことなく、咲楽は前を通り過ぎて行く。
結局、帰り着いたのは四時半だった。
咲楽は大浴場にお湯を溜め、慌てて洗濯物を取りこみ、畳む間もなく夕食を作る。
彼の料理の基本はリアンに教わり、レパートリーを増やしてくれたのは猫だ。
リアンが初めて咲楽に料理を教えた時、料理の下手さに『……これでよく生きてましたね』と、真っ青な顔でいったほどだ。
軍事訓練で炊事もあったが、動物の皮の剥ぎ方や毒のある植物の見分け方、何もない場所から水を作る方法といった日本ではほとんど使わないような技術や知識しか身につかなかった。
だが、十年以上料理をしていれば身につくもので、今では百種類以上の料理を作ることが出来る。
今日の夕食はぶり大根、白菜のお浸し、わかめと油揚げの味噌汁、ご飯だ。
デザートには早速、林檎のコンポートにした。
急いで作ったが味はまずまずだ。
時刻はいつもと同じ、五時半を少し過ぎたところ。
食卓に料理を並べ終わると、咲楽は洗濯場へ行く。
備えつけてある横長のテーブルに畳んだ服を持の主ごとに並べ、重ねていく。
それらを籠に入れ、娘達の部屋に行き、手渡しする。
ついでに夕食の感想を聞き、明日以降の食事を考えながら、厨房に行き、自分の食事を済ませる。
娘達の食器も一緒に洗い、食器乾燥機にかける。
後、咲楽に残された仕事は最後に風呂に入り、大浴場のお湯を抜くことだ。
それまでは六時間ほど空いている。
咲楽は一休みしようとベットの上に横になる。
考えるのは明日以降のこと。
明日の大みそかには年越しそば、元旦の朝食は雑煮を作り、昼食は猫におせちをご馳走になる予定だ。
元旦の夕食は何がいいだろうか?
クロエはそんな咲楽の仕事を『家政夫』だというが、咲楽はどちらでもいいと思っている。
こうして誰かと毎日を過ごせることが、咲楽にとって何より幸せで、夢のようですらあった。
「……俺は幸せ者だ」
心の底から幸せそうに笑い、咲楽は目を閉じた。
日付が変わろうかという時間。
咲楽は枕元に置いたシンプルなデザインの携帯電話の着信音に眠りを邪魔された。
電話の相手は見るまでもなくわかる。
無視し続けていても、音は鳴り止まない。
咲楽はしぶしぶ携帯電話を取り、通話モードにし、耳に当てた。
予想通り、電話の相手は久遠だった。
まくし立てるような喋り方は相変わらずで聞いているだけで疲れてくる。
咲楽の気持ちに気づいてか、それともあえて無視しているのか、久遠は疲れを滲ませながら、仕事の愚痴を零す。
そんなことを咲楽にいわれても、物理的にも立場としてもどうしようも出来ない。
適当な相槌を打ちながら、どこで電話を終わらせるかを考える。
電話越しにリアンとクロエの声が聞こえて来たのを、合図に咲楽は通話を切る。
二人が来たのならしばらくは電話をかける暇さえない。
咲楽は起き上がり、風呂に入り、大浴場のお湯を抜いてから部屋に戻った。
そして、もう一度眠りにつく。
その夜、咲楽は久々に今から十二年前の久遠と出会ったあの戦争を夢に見た。
前回からかなり間が空いた上に、長くなってすみません。
次回は明日にでも投稿できると思います。
背の高い、筋肉質でごつい二十代後半で、無表情の男が可愛らしいエプロンをつけて歩いている姿を想像すると、ぞっとする物がありますね(笑)




