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管理人室 英雄兼大家と四つ子  その8

 その7の続きです。


 二葉荘の前に一台の黒塗りの(リムジン)が静かに止まり、中から二人の人間が降り立った。

 一人は三十代前後の男で、細身の体躯にライトブラウンの髪とエメラルドグリーンの瞳。

 癖のある髪は耳にかからないほど短くまとめられ、シンプルなデザインの青縁眼鏡をかけていることや高級ブランドスーツを着ていることもあって、真面目でプライドが高そうな印象を与える。

 対して、もう一人は十代半ばの少女で、男よりも頭一つ低い身長に同じ色の髪と目、薄いそばかすが鼻の周りに散っている。

 それに男とよく似た顔立ちだ。

 肩より上で切り揃えられた癖のある髪に、男と同じメーカーのパンツスーツを着ているために少し大人びて見える。

「兄様、クロエはお腹が空きました」

 のんびりとした舌足らずな口調で、クロエという少女は兄と呼んだ隣の男に、キリストに恵みを求めるように両手の平を男に差し出す。

「先ほど朝食をとったばかりでしょう?飴でもなめて我慢しなさい」

 男は呆れた顔をしながらも、懐から個装された飴をいくつかクロエの手の平に落とした。

「わかりました」

 クロエは一つの飴だけを残し、残りをスーツのポケットに入れた。

 いそいそと残した飴の包装を剥がし、口に含む。

 好みの味だったのか、少女は嬉しそうに微笑んだ。

「社長を迎えに行きますよ、クロエ」

 男はクロエの頭を軽く叩くと、二葉荘へと歩きだした。

「はい。兄様」

 その後をクロエが当然のようについていく。

 二人は錆びて足を置く度に金属の軋む音のする階段を昇り、四階の管理人室と書かれた扉の前に立ち、壁に備えられているチャイムを鳴らした。

 少しの間の後に中から物音がし、鍵の開く音と共に中から久遠が顔を出した。

「げっ!?リアンとクロエ!もう来たのかよ!あと一日は大丈夫だと思ったのに!」

 昨日のスーツ姿ではなく、休日のサラリーマンのような灰色のルームウェアを着た久遠は悪戯が見つかった子供のような表情を浮かべた。

「社長!迎えに参りましたよ!さあ逃げ場はもうありません!早く本社へ戻られて仕事をしてください!」

「社長がサボったからお仕事がたくさんあります。書類がお部屋に入らないです」

 クロエが扉を押さえ、部屋の奥へ逃げ出そうとした久遠の襟をリアンと呼ばれた男が掴んだ。

「逃がしません!社長が休まれた分スケジュールが押しているんですよ!」

「嫌だー!俺はここで晴達と暮らす!仕事嫌い!もう働きたくない!」

 久遠は手足をばたつかせ、子供のように駄々をこねた。

「何をいっているんですか!今あなたに社長を辞任されたら会社は潰れますよ!世界中の社員が路頭に迷ってもいいんですか!?」

「俺じゃなくても社長は勤まる。そうだ、リアン。お前が社長になれよ。はい、これで問題解決な」 

 久遠は暴れるのを止めて、満面の笑みを浮かべた。

「バカですか!私に社長の座が務まるわけがありません!いえ、世界中を探してもあなたの代わりになる人はいないと断言します!」

 リアンは敬愛の平手を久遠の後頭部に振り下ろした。

 平手にはバチーン!という効果音がつきそうなほどの威力があった。

「痛っ!お前……バカってないだろ。俺は仮にも社長なんだけど?なんかショックだわ」

 後頭部の痛みに顔をしかめながらも、久遠は少しだけ落ちこむ。

「仮ではありません!社長は社長です!他の誰にも代われません!」

「あーあ。わかった。わーかったよ。仕事に戻ればいいんだろ?はあ……めんどくせー」

 久遠は心底嫌そうな顔をして、リアンに向き直った。

 ちょうど騒ぎを聞きつけた咲楽が隣の部屋からスーツを片手にやって来る。

 会話の内容が聞こえていたのか、リアンとクロエを労るような視線を送った。

「リアンとクロエはいつも大変だな」

「ええ。全くです。咲楽様はこちらの暮らしは大変ではありませんか?」

「いや楽だ。お嬢様方は久遠と違って進んで人に迷惑をかけないからな」

「それは羨ましい限りです。……変わっていただきたいほど」

 日頃よほど久遠に振り回されているのか、リアンは顔に苦労をにじませた。

「お前らにしかあいつと仕事が出来る人間がいないからな」

 咲楽はしみじみと頷く。

「二人して俺をなんだと思ってんだよ」

「もう出るだろ。これに着替えろ」

 咲楽は久遠を無視し、きっちりとアイロンのかけられたスーツを久遠に押しつけ、部屋に返した。

 久遠が部屋に入ると、クロエは静かに扉を閉めた。

「ありがとうございます。車へ取りに行く手間が省けました」

 リアンは咲楽へ軽く頭を下げた。

「これくらい大したことじゃない」

「すっかり管理人が板につきましたね」

リアンは今と昔の咲楽を比べて、穏やかになった彼に微笑んだ。

「正確には掃除夫だ」

「仕事内容はほぼ同じですよ」

「確かに」

 咲楽はわずかに口の端をあげた。

 二人が出会って約十年が経つ。

 偶然か、必然か、はたまた運命か。

 二人が出会ったきっかけは久遠で、お互いに譲れない者のために敵対した。

 それがまさかこうして世間話をする仲になるとは、当時は思いもしなかった。

「師匠は今、幸せですか?」

 飴で頬を膨らませたクロエが咲楽に問いかけた。

 澄んだ目が咲楽をじっと見上げる。

 彼女は戦い方を教えてくれた咲楽のことを“師匠”と呼び、慕っている。

「俺よりもクロエはどうなんだ?」

 咲楽はクロエの目を見返して、問い返した。

「クロエは社長と兄様と師匠のおかげで幸せです」

 クロエは迷いなくそういった。

 満面の笑みが彼女の言葉が本心であることを、物語っている。

「そうか。なら俺と同じだ」

 一瞬だけ目を見開いた咲楽ははっきりと笑って、クロエの頭を撫でた。

 数年に一度見れるかどうかという咲楽の笑みにリアンは少しだけ目を見開く。

 咲楽もクロエと同じく、幸せそうに笑っていた。

 十年前のままの彼なら絶対に見られない表情だ。

「終わったぜ!」

 部屋から出て来た久遠の声に咲楽はクロエから手を離し、笑顔も消した。

 いつもの無表情からはもうなんの感情も読めない。

 貴重な笑顔に後ろ髪を引かれながら、リアンは久遠に声をかける。

「もうよろしいのですか?」

「ああ!もちろんだ!それよりも晴達を見てくれよ!俺が贈ったドレスを着た晴達は可愛いだろ!綺麗だろ!年々美人になっていくなぁ!さすが笑美の娘だ!」 

 先ほどまでの嫌そうな態度はどこへやら。

 すっかり上機嫌になった久遠の後ろから彼の娘達が出てきた。

 彼に贈られたドレスを着た姿は美しいというよりも可愛らしい。

 だが、久遠がいうように彼女達は年齢を重ねる度に大人になっていく。

 久遠はそれが嬉しくて、寂しかった。

 子供の成長は著しく、数ヶ月見ない間に大きく成長していることもざらにあった。

 それを普通の父親のように側で見守れないことが辛かった。 

 相反する気持ちはさらに晴達を溺愛させている。 久遠が晴達を構い倒すのも仕方のないことかもしれない。

 彼が構えば構うほど、反抗期に入った晴達はうっとおしいと思うようになっているが。

 現に今も久遠へ冷めた視線を送っている。

「はい、そうですね。それでは行きますよ」

 リアンにとってはそんな会話も慣れたもので、適当な相槌を打ちながら久遠達を車へと誘導した。

 専属の運転手が後部座席の扉を開け、久遠、晴達、クロエとリアンの順で乗りこみ、扉が閉められた。

 運転手が運転席に座り、エンジンをかけ、地面を滑るように静かに発進させた。



 

「あなたって人はどうして出かける度に問題を起こすのですか!?後始末は誰がすると思っているのです!?大体っ!社長は自覚が全然足りません!なぜ毎回護衛をつけないのです!私がつけた護衛をわざわざ巻いて出かけられたこともありましたよね!?それも一度や二度ではなく数え切れないほどですよ!今回は咲楽様達が側にいらしたから良かったものの!何度もいいますが、あなたが亡くなられたら会社は潰れるんですよ!もっと御自愛ください!」

 久遠から今回の襲撃について聞いたリアンの第一声が、七人が乗っても余裕のある車内に響いた。

 リアンが叫ぶのも仕方ないことだった。

 久遠は息抜きと称して仕事を抜け出しては身分を隠し、街中を出歩くような気軽さで、気が済むまで世界中を歩き回る放浪癖があった。

 歩き回るだけでも大問題だが、行く先で問題を起こすため、その度にリアンとクロエは全力で探すはめになるのだ。

「悪かったって。ちゃんと毎回反省してるぞ。お前は心配が過ぎるんだよ。今まで死にかけたことはないだろ?」

 母親に怒られた息子のように久遠は唇を尖らせる。

 どう見ても反省している態度ではない。

「ありますよ!お嬢様の前ですからいわないつもりでしたが、先週エジプトの新築ビル視察に行った時、ライバル社から雇われた現地の殺し屋に殺されかたことをもうお忘れですか!?」

 リアンは備え付けのテーブルを叩き、久遠を睨みつけた。

 テーブルの飲み物とお菓子が一瞬だけ飛び跳ねる。

「あー!そういやそんなこともあったっけ?昨日が楽しみ過ぎて忘れてたわ。その殺し屋も咲楽に比べてすげえ弱かったし」

「咲楽様を基準になさらないでください!あの方は特別お強いのですから、比較対象にすらなり得ませんよ!」

「いやまだ半端だった十六の頃の咲楽よりも弱かったぜ?」

「咲楽様の戦闘技術と経験は十数年のベテランですよ!そこら辺の殺し屋では歯が立たないどころか、赤子同然です!」 

 リアンは聞き分けのない子供にいいきかせるように久遠にいった。

「お父さん、さっきからうるさい!」

 クロエとお菓子を食べていた雲が久遠を睨みつけた。

「え?なんでパパだけ?リアンもだろ?」

 秘書より父親を責める雲に久遠はショックを受けた。

 眉を下げ、目に涙を溜めている姿に父親の威厳は全くない。

「……お父さんが……反省……しない……から……リアンさんが……起こらないと……いけない」

 雪はさらに久遠を責めた。

「それにリアンにいは間違ったこといわねえじゃん」  

 雨はリアンを援護する。

「リアンさんはお父さんを心配しているんですよ。だからしっかり話を聞いてください」

 晴は優しく久遠を諭した。

 三人の言葉が止めとなり、久遠は両手で顔を覆い、がっくりとうなだれた。 

「パパってそんなに怒られなきゃいけねえことした?」

 久遠は震える声で誰になく尋ねた。

「うん」

 娘達は声を揃えて答えた。

 瞬く間もなく答えられことに久遠は心を砕かれ、葬式のような雰囲気を全身から出した。

 久遠はそのまま目的地につくまで、リアンから怒られ、娘達はクロエと世界中から集められたお菓子を楽しんだ。




 二葉荘から車を一時間ほど走らせた場所にビームカンパニーの日本支部のビルは建てられている。

 日本支部は周りのビルよりも五、六階高い。

 車は正面玄関で止まり、久遠達が降りると駐車場へと移動した。

 自動ドアをくぐった先には五階まで吹き抜けになったエントランスホールが広がっていた。

 デザインと広さも相まって高級ホテルのようだ。

「おかえりなさいませ、社長とお嬢様」

 受付嬢が久遠達に気づき深く頭を下げた。

 波紋が広がるように他の社員も頭を下げる。

「いつも我が社のためにありがとう。私のことは気にせず仕事に戻ってくれ」

 久遠のそれまで緩んでいた顔は引き締められ、口調も威厳が溢れる物に変わっていた。

 素の彼を知るものならば『誰だお前』というほどの変わりようだが、これが『社長四方山久遠』の姿だ。

 社員は敬愛に満ちた顔で久遠を見ながら、それぞれの仕事へ戻っていく。

 久遠達は迷いなくエレベータに乗り、屋上へ向かった。

 音もなく登るエレベーターが止まり、柔らかい金属音が久遠達に目的地へついたことを知らせた。

 エレベーターの先に広がる景色はこの世の物とは思えないほど美しい物だった。

 小学校の教室十個よりも広い、敷地には現在も世界中から集めている様々な花が競うように咲き乱れ、色鮮やかな羽を持つ蝶が優雅に飛んでいる。

 高名な建築士が設計したこの場所は、ガラスと鉄筋を利用して日光を多く取りこみんだことで温室庭園の隅々にまで光が届き、とても明るく屋内にいるとは思えないほどだ。

 所々に流れる小川の周りにも花が咲き、蝶が羽を休めていた。

 花の香る匂いを部屋中で感じられる。

 そこはまさに“楽園”という言葉を現実にしたような場所だ。

 意外にも社員に開放されており、癒しを求めて訪れる者も多い。

 そんな温室庭園の奥、ガラスの扉で遮られた先に笑美は眠っている。

 一年に一度、命日に家族で墓参りに来ることが家族のルールだ。

 人一人が通れる程度の扉には鍵がかけられていない。

 だが、ここに入ることが出来るのは久遠と娘達、花の手入れをする庭師だけである。

 久遠がそのような規則を作ったわけではなく、社員全員の暗黙の了解になっている。

 なぜなら社員全員がこの広い温室庭園は、久遠が今でも変わらず心の底から愛する笑美のために作られたことを知っているからだ。

「社長、お嬢様。御家族水入らず御寛(おくつろ)ぎください」

 リアンが扉を開けて、久遠と娘達が奥に行く。

 五人の姿を見送り、リアンはそっと扉を閉めた。

 八畳ほどのスペースの中央、背の低い花に埋もれるように笑美の墓はある。

 真っ白で傷一つない墓石には笑美の名前と誕生日に生きた年数、『空よりも広く海よりも深い愛情を持つ女』という一言が刻みこまれている。 

 その前に久遠達は立つ。

 まず皆で手を合わせて、次に娘達が一年間にあった出来事を報告する。

 最後に久遠がいつも同じ言葉を捧げる。

「俺はまだそっちに行けそうにねえから、お前の代わりにもう少し生きてみるわ。だからその時には必ず迎えに来てくれよ。百年経っても語り終わらないような思い出話を準備して待ってるぜ」

 久遠は墓石の前に屈み、それを一撫でする。

「愛してる、笑美」

 愛を捧げる久遠の顔には会えない寂しさと溢れんばかりの愛しさが混じっている。

 雲はその顔を見る度に初めてここへ連れられた後に久遠に尋ねた言葉とそれに答えた言葉を思い出す。

『私達がいなかったらお母さんは死ななかったし、お父さんは苦労しなかったんでしょう?』

 誰に聞いたことなのか今はもう思い出せないが、雲は体の弱かった母が自分達を産んですぐに亡くなったことも、自分達を育てるために社長になったことも知っていた。

 久遠は悲しそうな顔をした後、とびっきりの笑顔で雲の頭を撫でた。

『笑美はお前達を授かったことを誰よりも喜んで、誰よりもお前達に会いたがったんだ。だからお前達を産んだことを後悔してない。むしろお前達がこうして元気に育ってることを天国で喜んでるぜ。パパだってそうだ。お前達がパパと笑美の娘として産まれてくれて誰よりも嬉しい。だから苦労なんて思ってない。もし産まれのことでお前達を責める人がいるならパパにいえ。お前達はパパと笑美に望まれて産まれたんだからから責られることはなんにもない、ってパパがいってやる』

 長い言葉は半分ほどしか理解できなかったが、雲は自分が愛されて産まれたことだけはわかった。

 同時に同じくらい笑美を愛していることを知った。

 雲は久遠の右手を握った。

 久遠は雲と手を繋ぐことが大好きだ。 

 それだけで彼は世界一幸せそうに笑う。

「そんじゃ帰るか」

 そういった久遠は雲の予想通り世界一幸せそうな笑顔で雲を見つめた。

 それほどかっこよくない久遠だが、笑顔だけは誰よりも魅力的に見える。 

「そうね。帰りましょう」

 雲は久遠が寂しそうな顔をしないようにもう少しだけ握ってあげようと思った。

 絶対に久遠にはいわないが、彼女は父の笑顔が大好きで、寂しそうな顔が大嫌いだ。

 我がまま社長に振り回される秘書兄妹の苦悩は計り知れません。

 ちなみにリアンが三十歳で、クロエが十六歳です。


 その9に続きます。

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