管理人室 英雄兼大家と四つ子 その3
その2の続きです。
「どうしよう。皆、帰って来ない。近くで鉄砲の音が聞こえたし……」
一人で公園に残された晴は不安げな顔をしていた。
皆と一緒に行きたがったが、病弱であることを理由に拒否されては強くいうことが出来なかった。
“どうせ私には何もできない”
年を重ねるにつれ、晴はそう思うようになっていた。
元気な姉妹と病弱な自分。
風邪のようなちょっとした病気でも晴にとっては大病で、すぐに体調を崩して入院してしまう。
入院している晴に雨達が見舞いに来て、その日学校であったことを話してくれる。
小学校に入学したばかりの頃は友達や勉強の話を聞く度に嬉しかったのに、次第に嫉妬や憎悪といった黒く淀んだ感情に変わっていった。
まるで自分だけが狭い檻の中に閉じ込められているような気がして、広い外の世界を見ることが出来る雨達が羨ましかった。
“同じ両親から生まれたのにどうして私だけがこんな目に遭わなきゃいけないの?”
晴はそれを口に出すことが出来ずに、澱のように心の中に積もっていく。
喫茶店『黒猫』に行かず、公園のベンチにいつ続けていたのは、そんな姉妹に対してのささやかな嫌がらせのつもりだった。
すぐに帰ってくると思っていた。
だけど拳銃らしき音と別れてから一時間近くが経とうとしているも、帰ってこない雨達に嫌な予感がする。
もしかして何かあったのかな?
衝動的に雨達を追いかけようとして、足を止めた。
どこへ行ったのかわからない雨達を追いかけて見つけることが出来るだろうか?
家と病院以外をあまり出たことがない晴は住んでいる町がどのくらい広いのかも知らない。
何より探す途中で体力が尽きるかもしれない。
それなら別の方法しかない。
「……伝えなきゃ。私が伝えなきゃ。雨ちゃん達の助けを呼べるのは私しかいないんだから」
震える拳を握ることで自分を奮い立たせて、晴は体を反転させた。
その先にあるのは喫茶店『黒猫』だ。
重い足を懸命に動かし、晴は走った。
体育の授業を見学するほど体力がないのに、その時だけは『黒猫』まで数分もある距離を走りきった。
喫茶店『黒猫』のドアを乱暴に開けて、倒れこむように店内に入った。
顔を真っ青にし、肩で息をする晴に気づいた猫が駆け寄り、晴に近くの椅子を勧めた。
椅子に座る晴の肩にフェイトはひざ掛け用の毛布をかけた。
その間に晴は息を整える。
「晴ちゃん、そんなに急いでどうしたのかな?」
「雨ちゃん達が危ないんです!今すぐ助けなきゃ大変なことになります!」
晴は猫の腕にしがみついて、必死に助けを求めた。
自分がこうしている間にも雨達が危険な目に。遭っている。
その焦りが晴から冷静な思考を奪っていた。
「晴ちゃん、落ち着いて。ここに来たからには大丈夫だよ」
猫は晴の焦りに気づき、安心させるように口元に優しい笑みを浮かべた。
一刻の猶予もない時ほど冷静な思考が必要だ。
そのことを猫は多くの経験から学んでいた。
猫の笑顔に晴は少しだけ冷静になれた。
「……ショッピングモールで灯火さんと清水さんに会って、ここに来る前に公園で会う約束をして、雨達と待っていたんです」
その時の会話を思い出しながら、晴は話すことをまとめていく。
何をいって、何をいわないか。
必要な情報を選んで、取捨選択をしていく。
「だけど、いつまで経っても二人が来られないので迎えに行こうという話になって、雨達は二人を迎えに行きました」
晴の拙い説明にも猫とフェイトは真剣に耳を傾けてくれた。
これが他人なら誰も聞いてくれなかっただろう。
「私は行ったら足手まといになるので公園にいました。そこで銃で何かを撃ったような音がしたんです」
あの時から今も続く恐怖に晴は泣きそうになりなるのを猫にしがみつく手にこめて堪えた。
猫のシャツにシワが寄るが、何もいわなかった。
「それで雨達に何か遭ったのかも知れないって思って、怖くなってここに来ました」
晴は“雨達が死んでしまう”が怖かった。
預けられた孤児院で久遠が引き取りに来るまで側にいてくれたのは雨と雲と雪だった。
彼女達が死ぬかもしれないと思った時、晴は自分の一部がなくなったような気がした。
「私がもっと早く来ればよかったんです!そしたら雨達が危険な目に遭わなくてよかったんです!」
自分の浅ましい感情で雨達が危険な目に遭っているかもしれない。
焦りと罪悪感が晴を責め立て、後悔が涙となって溢れ出した。
「晴ちゃん、話してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。私は魔法使いだからすぐに魔法で皆を助けるよ」
何も知らない猫は晴に優しい言葉をかける。
それすら晴の涙を増やすことになった。
フェイトから渡されたタオルで、猫は晴の涙を拭いた。
「フェイト。ここは」
「かしこまりました。行ってまいります」
言葉を途中で遮り、にこりと微笑んだフェイトを猫は睨んだ。
「まさか店主が店を離れるつもりではありませんよね?」
続けてそういわれてしまえば、猫は何もいえなかった。
他のアパートの住人が来た時に店主の猫がいないというわけにはいかない。
それならばフェイトが行く方がいい。
「……わかったよ。そっちは任せる。だけどやり過ぎない程度にね」
理屈はわかってもフェイトに丸め込まれたような気がして、猫は拗ねた子供のような口調になってしまった。
「心得てますよ」
フェイトはいたずらな笑顔で猫と晴を見て、店を去った。
「全くとんだ嘘つきだね」
店を出るフェイトの背中に猫はいった。
その口調は何かに対して諦めているような気がした。
フェイトが立ち去ってから、晴は久遠に電話をするようにいわれていたことを思い出した。
ポケットから携帯電話を取り出し、久遠に電話をかけた。
繋がった瞬間に晴はいった。
「もしもし、お父さん?皆が大変なんです!」
「何かあったのか?」
普段はまくしたてるように話す久遠だが、晴の切羽詰まった雰囲気に何かを察したのか余計なことは何もいわなかった。
「雨ちゃん達が危険な目に遭ってるかもしれないんです!」
「わかった。すぐに咲楽に確認をとる。晴は今どこにいる?」
「猫さんの喫茶店『黒猫』にいます」
「よし。そこにいろ。何があってもそこから出るなよ。雨達は俺が助けるから安心して待ってろ」
「私のせいなんです!私のせいで皆が危険な目に!
」
頼りがいのある優しい声に、罪悪感から晴は隠していた感情をさらけ出した。
「雨ちゃんは運動ができて、雲ちゃんは友達がたくさんいて、雪ちゃんは頭がいいの。でも、私は、晴は何もできないんです!それが嫌で羨ましくて皆が困ればいいって何もしなかったんです!」
「……晴は何も出来ない?そんなことはない。パパは晴の笑った顔が好きだ。ママそっくりの笑顔がパパは大好きだ。晴の笑顔はな、パパを幸せにしてくれるんだぞ?だからパパは晴を愛してる」
心の中にあった澱のように溜まっていた感情がなくなっていくのを感じた。
晴にも出来ることがあったのだ。
“母譲りの笑顔”
たった一つのことだが、何も出来ないことをはっきりと否定された。
晴が欲しかったのはきっとその一言だった。
少し怒ったような口調も晴は嬉しくて、笑顔になれた。
「ありがとう、お父さん。晴もお父さんが大好きです」
電話越しに久遠へ浮かべた笑みは今までにまでに影を帯びていた物とは違い、晴れ晴れとしていて、まるで夏の太陽のように輝いていた。
晴は知らない。
電話の向こうで最愛の娘に“大好き”といわれた久遠の顔が、人に見せられないほどに緩んでいたことを。
高校の友人達と遊んだ帰り道。
椎葉日向は友人達と別れ、自由と共に喫茶『黒猫』に向かっていた。
…………のたが。
「なんで急にナイフがこっちに飛んできちょっと!?ありえんやろ!」
日向は走りながら背後から顔のすぐ横を飛んでくるナイフを必死に避けた。
体の半分が機械であっても、痛覚はあるので傷付けば痛いし、急所に当たれば致命傷になりかねない。
「ワカリマセン」
一方、日向の隣を走る自由は無表情だった。
彼は国家のスパコン並の人工知能と人間に近い感覚機能を持つ人型機械であるが、自身の感情を理解することは出来ても、複雑な人間の表情を完全には表現することができない。
「こういう時のために自由がおるとやろ(いるんだろ)!どげんかしちょくり(どうにかしてくれ)!」
「申シ訳ゴザイマセン。コノ状況ヘノ対策データガアリマセン」
自由は申し訳なさそうにわずかに眉を下げる。
「なんいっちょっとよ(なにいってんだ)!それじゃああんたはなんのために俺の側におっとよ(いるんだ)!」
「私ガ日向様ノオ側ニタイダケデスヨ」
今さら何を?といわんばかりに自由は首を傾げた。
「こんな時になんいっちょっとよ(いってんだ)!」
日向は自由の真っ直ぐな言葉に照れ、少しだけ顔を赤くしながら、自由を怒鳴りつけた。
ナイフを投げてくる変質者から逃げることに必死な彼らは、人通りが少ない場所に誘導されていることに気づいていない。
「しまった!この先は行き止まりじゃった!」
逃げた先に壁が見えて、ようやく二人は追い詰められていたことに気づいた。
壁の前で止まり、ゆっくりと振り返った。
あれだけ大量のナイフを走りながら投げ続けくらいだ。
きっと筋肉の塊のように屈強な男が俺達を追いかけてきたのだろう。
変質者の姿を見ていない日向はそう思っていた。
だが、視線の先にガスマスクに童話に出てくるようなドレスを着た女がナイフを握って立っていた。
シュールな光景に日向は目眩を起こしそうになる。
「あら?鬼ごっこはもうおしまい?なら次はワタクシの犬になってもらうわ。うふふ。あなたは最期にどんな声で鳴いてくれるのかしら?」
ガスマスク越しのくぐもった楽し気な声が聞こえる。
「ひっ!?こいつなんか頭がおかしいっちゃないと!?」
日向は無意識に隣に立つ自由の裾を掴んだ。
「日向様、ココハ私ガ囮ニナリマス。ダカラソノ間二オ逃ゲクダサイ」
思わず日向は自由の顔を見上げた。
その顔は相変わらず無表情だったが、目には覚悟が宿っていた。
「そんなことできるわけないやろ!そんなこと考えるくらいじゃったら一緒に逃げる方法を探さんね(探せよ)!」
落ち着こうと大きく息を吸った途端、日向の中にいる自由が歪んで、体の力が抜けた。
「日向様!?」
とっさに自由が日向の体を支えたことで地面との衝突は避けられた。
だが、日向の視界は定まらず、脳はかき混ぜたように気持ち悪かった。
「ワタクシの毒がようやく効いたみたいね。改造人間と聞いていたから効かない物かと思っていたわ」
「日向様ハナイフ二カスッテスライナイノニドウシテ毒ニカカッテイルノデスカ!」
「ナイフは本命ではないわ。当たればそれでいいけれど、毒にもいろいろあるわよ?例えば無色透明な毒なんかとかね」
「マサカ毒ガスデスカ!?」
「安心しなさい。今すぐ死ぬような毒じゃないわ。解毒が間に合わなければ死ぬ確率は高いけれど」
ぐったりとする日向を見下すような女の言動が自由の怒りを煽った。
「解毒剤ハドコニアルノデスカ?」
無機質な瞳に怒りを宿らせ、自由は女を睨みつけた。
「このワタクシが教えると思うの?」
女はガスマスク越しでもわかるほど挑発的に笑った。
だが、その余裕もすぐに崩れることとなる。
「この独特の甘い匂いと味はやはりポワゾンモルテルですか?」
瞬きをした間を狙ったようにフェイトが女の後ろに立っていた。
聞いたことのある毒の名前に自由は顔を青くした。
“ポワゾンモルテル”。
フランス語で“猛毒”を意味するその毒は、筋弛緩、意識混濁、眩暈、吐き気等の初期症状の後、数時間で全身に回った毒が多臓器不全を起こし、死に至る。
世界大戦後に出来た毒で、高い揮発性と空気よりも重くためその場に留まりやすく、即効性がある。
さらに半数致死濃度がラットの体重一キロに対して15ナノグラムと非常に高い。
呼吸器から吸収された場合は直接体内に吸収した場合よりも効果が薄れるが、解毒しない限り二十四時間以内に死に至ることは変わりない。
何より一番恐ろしいのは揮発させると特有の甘い匂いと味が薄れ、ほぼ無味無臭になることだった。
にもかかわらず、フェイトは自由すら気づかなかったその匂いを嗅ぎ当ててた。
「フェイト様!?」
突然現れたことと、猛毒のなかにいても何ともないフェイトに、自由は驚きを隠せなかった。
自分が生み出した都合のいい幻想かと思ったほどだ。
「なぜ揮発されたポワゾンモルテルを感じられるの!?いえ、それよりもいったいいつからそこにいたの!?」
女が振り返り、始めて焦ったような声を出した。
彼女もフェイトの存在に気づかなかったのだ。
「さあ?いつからでしょうね?」
フェイトは余裕たっぷりに微笑んだ。
その姿は妖艶でありながらも、底知れぬ強さを感じさせる恐怖もあった。
「生意気な犬ね。これでも食らいなさい!」
女はナイフをフェイトに向かって投げつけるが、彼はそれをわずかに顔を横に反らすだけで避けた。
そして間を詰め、もう一度ナイフを投げようとした女からナイフを奪い、流れるような動きで腕を切りつける。
それまでに要した時間は数秒もなかった。
「ぐっ!」
女は呻き声を漏らすもフェイトは攻撃の手を休めずに切りつけていく。
それを紙一重で避けながら、フェイトの攻撃の隙に女は蹴りを放った。
フェイトはバックステップで距離をとる。
牽制にナイフを投げつけ、追撃を防ぐのを忘れない。
女はフェイトが放ったナイフを無事な腕で新たに取り出したナイフで弾いた。
「これが解毒剤ですか?」
またもいつの間にか、フェイトの手には手の平に収まる程の小さな薬瓶が握られていた。
「なっ!?なんであなたがそれを持っているのよ!?」
フェイトを指差し、女が叫び声をあげる。
「あなたの懐から拝借しました」
おもむろに瓶の蓋を開けて、口元へ運ぶ。
猛毒を解毒する物は猛毒であり、特にポワゾンモルテルの解毒剤は中和するように解毒する。
まさか、と自由は思うが止める間もなく、フェイトはそれを飲んだ。
ごくり、と喉仏が上下し、毒を一滴飲みこむ。
「なるほど。どうやら本物のようですね。安心しました」
そんな猛毒を飲んでもフェイトの顔色は変わらなかった。
「なんで二種類の猛毒を飲んでもなんともないのよ……」
女の信じられないような声がした。
自由も同じ気持ちだった。
二種類の猛毒は体への負担が大きく、普通の人間ならば一週間はベットの上から動けない。
それが常識だ。
なのにフェイトはいつもと変わらない動きをしている。
「自由、それを日向に飲ませ、主の元に行きなさい。それと今回のことは主には秘密でお願いします。ばれたら私は罰を受けなければなりませんので」
フェイトは女を無視して、自由に薬を投げた。
「了解シマシタ」
自由は片手でそれを受け取り、固く閉じられた口を無理やり開かせ虚ろな目の日向に飲ませる。
どれだけの即効性があるかわからないが、これで日向が死ぬことはなくなった。
自由と日向はフェイトと同じアパートという繋がり以外には何もない他人だ。
フェイトが元異世界人であることも、どういう環境で育ってきたか知らない。
だけど、自由は知っている。
フェイトがアパートの住人と主の猫に対して優しいことと、それ以外の人物に対して容赦がないことを。
「オ先ニ失礼シマス」
自由は日向を背負い、その場にフェイトを置いて、自転車よりも早く走り去った。
彼が出来ることはフェイトの邪魔にならないように、一刻も早く猫がいる喫茶店『黒猫』に行くことだけだとわかっていたからだ。
二人が立ち去るのを確認してからフェイトは女に向き直した。
「さて。あなたの目的を聞かせてもらいましょうか?」
「ワタクシが答えると思って?」
女の口調に棘があるのも仕方ないことだろう。
だが、フェイトはそんなこと気にしない。
「デットライン家長女『スリート・デットライン』。確か媚薬、猛毒、ナイフが得意で裏では『嗜虐の殺人鬼』とも呼ばれているのでしたか?たいそうな名前の割に随分と小物ですね」
フェイトはスリートを鼻で笑う。
「大した自信ね。ならワタクシの魅力であなたもワタクシの奴隷にしてあげるわ」
眉を吊り上げたスリートがフェイトを睨みつけた。
「ご冗談を。私はすでに仕えるべき主人がおります。何よりあなたのように発情した卑しい雌犬に仕えたくはございません」
「発情しているのはどちらかしら?ずいぶんと安っぽい挑発ね。すぐにワタクシの虜になるわ」
スリートはさらに両手にナイフを持ち、切っ先をフェイトに向けた。
先ほどの傷はそれほど深い物ではなかったが、痛みを麻痺させる毒でも使ったのだろう。
「卑しい雌犬には何をいっても無駄なようですね。これ以上無駄口を叩かぬように躾をして差し上げましょうか?」
フェイトは手ぶらのまま、視線だけを鋭くし、スリートを見据えた。
「いいわ!あなたすごくいいわ!久々にわたくしと遊べる犬に出会ったわ!お兄様にお願いしてついてきて正解だったわ!」
スリートは表情を緩めるとまるで恋をする乙女のような恍惚とした笑みを浮かべた。
これからどうやってフェイトを毒で弱らせ、ナイフで痛めつけて殺すかを考えて興奮したのだろう。
サドな人間も裸足で逃げ出す考え方はまさに『嗜虐の殺人鬼』に相応しかった。
「卑しい犬雌は痛めつけられるのがご趣味でしたか。いい趣味をお持ちですね。では最上級のご褒美を差し上げましょう」
スリートと対照的に珍しくフェイトは嫌悪を露わにし、さっさと目的を吐かせてこの女の人生を終わらせ、灯火と清水を探そうと体内の魔力を練り上げた。
久々に真っ黒な(暴力的な意味で)フェイトの登場です(笑)