302号室 見習い天使 その4
その3の続きです。
「……っ!……んっ!……う……く……!」
聞き覚えのある声に目が覚めた。
全身が痛むが、骨折や内蔵破裂は起こしていないようだが、特に頭が痛い。
真っ赤に腫らした女の顔。
長い青髪が俺の顔に垂れて、わずかにくすぐったい。
どうして聖生が俺の目の前にいるのだ?
ここはどこだ?
「灯火くん、目が覚めて良かったです!」
俺が目覚めたことに気づくと聖生は満開の花のように笑い、横になっている俺に抱きついていた。
突然の出来事に俺は抵抗する間もなく、聖生にされるがままだった。
いや、ちょっと待て。
今、俺のことを灯火と呼んだか?
まさか俺は元に戻れたのか?
物音を聞きつつけ、フェイトさんがドアを開け、部屋の中に入ってきた。
「頭を強打したようですが、大丈夫ですか?」
心配そうに俺を見つめるフェイトの姿に俺は確証を得る。
重い体を体を起こし、聖生を俺から引きはがした。
もう視界の隅に赤髪は見えない。
慣れた感覚のはずなのに、髪を切ったように頭が軽くなったような気がした。
「私は灯火ではなくパーヴェルです。理由はわかりませんが元に戻りました。灯火も元に戻っていると思います」
二人の顔が驚きに変わる。
ドアを激しく開く音がして、灯火が部屋にやって来た。
鍵はどうしたのだろうか?
もしかして壊したのか?
「フェイトさん、どうしましょう!僕の髪が長くなってま、す」
部屋にいた二人の視線が俺と鏡合わせをしたように同じ顔の今にも泣きそうな灯火に集まった。
灯火の髪型は酷い寝癖であちこち跳ねている肩を越す長髪だった。
始めて会った時と同じような状況にデジャブを感じる。
俺を見て、灯火は目を見開いた。
「それが当然だ。俺とお前は元に戻ったんだからな」
俺と灯火の体が元に戻った以上、二葉荘俺の居場所はない。
喫茶店『黒猫』でのアルバイトももうさせてもらえないだろう。
再び、衣食住のない状態になったが、そういう条件だから仕方ない。
俺は立ち上がり、灯火の隣を通り過ぎて部屋を出て行こうとした。
「何?」
背後に立つ灯火が俺の腕を掴み、強制的に引き止めた。
こめられた力はさほど強くなかったが、傷だらけの体は思うように力が入らない。
喧嘩になった時に怒りで手加減を忘れて、強く殴りすぎたようだ。
「まだ怪我が治ってないのにどこに行くの?」
灯火は俺を鋭く睨みつけた。
そういえば灯火と喧嘩をしていたのだったか。
「どこでもいいだろう。お前には関係ないことだ」
意識して腕に力をこめて、手を振りほどいた。
灯火は悲しそうな表情をして、目を伏せた。
理由がわからず、少しだけ苛立ったが、もう二度と会わないだろう。
「関係ない、ですか。よくもまあそんな口が聞けたものですねぇ」
フェイトさんの気配を背後から感じて鳥肌が立った。
楽しげな口調がさらに俺の恐怖を煽る。
「それでヴェルはこれからどうするつもりですか?」
フェイトは質問するような口調でありながら、全身から『黙秘権はありませんよ』といわんばかりの雰囲気を醸し出していた。
いわなければ心身ともに殺されるだろう。
「最初から体が元に戻るまでという条件だったでしょう。その条件が満たされた以上、私は出ていきます」
なぜが俺の声は泣きそうに震えていた。
無意識に先の見えない将来に怯えているのだろうか?
「そういうことだと思いましたよ。ダメです。明日、主に会うまでもう一晩泊りなさい。私の主は甘すぎるくらいのお人よしですから、そのくらい許してくださいます」
ですが、と口の端を吊り上げたフェイトは耳に口を寄せ、続ける。
「もしまた主に何もいわずに去ろうとした場合は、どこに逃げようとも探し出してあげますよ」
低く重い言葉に全身から冷や汗が溢れた。
きっと俺がどれほど足掻いたって、この人は俺を見つけ出すだろう。
「それでは私はヴェルを部屋まで送っていきますので、お二人は安心して休んでください」
背中を押され、俺はフェイトに部屋まで送られた。
とても眠ることなんて出来る精神状態ではなく、俺はフェイトが迎えに来るまで部屋の隅で膝を抱えた。
「自分の体に戻れてよかったね」
朝になってから喫茶店『黒猫』に連れられて、唄田から最初にかけられた言葉がそれだった。
フェイトと灯火も一緒に来ていた。
「ありがとうございます」
とりあえず素直に頭を下げておいた。
唄田はフェイトと灯火に顔を向ける。
「フェイトと灯火くん、ちょっと席をはずしてくれるかな?」
「わかりました。灯火、行きましょう」
二人は何も聞かずに、別の部屋に行った。
フェイトが嫌がるとばかり思っていたために、少しだけ拍子抜けした。
「ああ見えてフェイトは君を信頼しているんだよ」
とても信じられない。
バイト中のフェイトは僕に対して厳しかった。
見落としがちなちょっとしたミスも注意されたことがある。
「フェイトは捻くれているから素直に態度に出さないからね。バイト中に厳しくするのは君に期待しているからだよ」
それは俺が使い勝手のいい存在だったからで、信頼とはほど遠い。
「君は自覚していないからいうけど、フェイトの指導についていけるだけでもすごいことなんだ。今だからいえるけど灯火くんも他の人もフェイトの指導についていけなかった。君だけがフェイトのスパルタ教育に耐えられたんだ」
フェイトを疑う俺を隠れた目で、見透かされたような気がした。
唄田は俺を買い被り過ぎだと思う。
俺は唄田が思っているほど仕事が出来ていない。
まだまだ改善の余地が多い。
「これから君はどうしたい?」
したくないことはたくさんある。
たが、いくら考えてもしたいことは思い浮かばない。
俺は何がしたいんだろう?
「私はこのままヴェルくんに『黒猫』で働いてもらいたい。君の能力は捨てるのには惜しい。これまで通りフェイトの指導の元で育ってほしい」
というのが経営者としての意見だ、と唄田は前ふりをする。
「私は君の性格が好きだよ。愚直なほど真面目で、常に冷静であろうとする。素直な正直者で、自分に向けられた好意にはきちんと応える。常識もあって、相手を思いやる優しさも持ってる。だけど一つだけ嫌いなところがあるんだ」
唄田は細長い指を俺に突きつけた。
「私は自分の努力を認めない卑屈さが嫌いだ。君はもっと自分に対して自信を持っていい」
俺の能力を過大評価しすぎだ。
唄田の思っているような性格をしていない。
俺のした程度の努力は誰だってしている。
俺じゃなくてもっと適役な存在がいる。
むしろ俺じゃない奴がやった方がいいはずだ。
「自信を持つことは悪いことじゃないんだよ。君は君が思っているよりもずっといろんなことができる。だから、やりたいことがないならいろんなことをやってみたらどうかな?」
カウンター越しに手が伸びて、俺のそっと頭を撫でた。
優しい声と笑顔に頭の中にあった蟠りが溶けるように消えていく。
「本当に私はもっと自信を持っていいんですか?」
「いいんだよ」
俺は心からその言葉をずっと待っていたのかもしれない。
どれだけ努力したとしても認められない、俺が優遇されるのはウリエル様に似ているから、とどこか無意識に思っていたのだろう。
だけと、唄田は違ったのだと今さら気づいた。
大天使候補ではなくただのパーヴェルとして俺を見て、評価してくれた。
唄田だけではなく、ウリエル様を知らない人間界で会ったフェイトや灯火、聖生も同じだ。
嬉しくて涙が溢れて止まらなかった。
唄田は笑いでもなく、俺が落ち着くまで優しく待ってくれた。
季節は巡り、冬になった。
日に日に寒くなり、外に出ることが面倒になる。
でも、そんなことをいっていられないから、長いマフラーを顔の半分が見えなくなるほどに何重にも巻いて、家を出る。
服の隙間から入り込む、冷気に身震いした。
「おはよう、ヴェル!」
階段を降りた俺を見つけた灯火は輝くような笑顔を見せた。
同じ顔なのに俺にはできない表情だ。
灯火とは仲直りした。
全面的に俺が悪かったのに、灯火は許してくれた。
灯火が聖生を大切に思っていることくらい、二人を見ていたらわかっていたくせに、俺はなんて馬鹿なことをいったんだろうか。
他のやつなら一生恨まれてもおかしくないと思う。
「おはよう、灯火」
俺はできるだけ笑って、挨拶を返した。
本当に笑えているかは自信がない。
「今日は教会に行くの?」
猫にいわれてから俺が始めたことは多々あるが、一つがキリスト教の教会に行くことだった。
それまで人間が生み出した虚像だと、興味がなかったが、なんとなく調べていくうちに興味をひかれ、今では教徒の一人にまでなっている。
「今日は引っ越しと古本屋のバイトだ」
生活を送るためとやりたいことを見つけるために片っ端からバイトを始めた。
現在は五つのバイトを掛け持ちし、毎日、忙しく過ごしている。
「そうなんだ。頑張ってね」
「灯火も今日は仕事なんだろう?頑張れよ」
灯火と別れ、バイト先に向かう。
唄田達のおかげて少しだけ自分に自信を持てた。
バイト先でも褒められることが多くなり、自信を持つようになれた。
もしかしたら大天使様はこのために俺を人間界に送ったのだろうか。
立ち止まり空を見上げて、さらに遠くにいるであろう大天使様に呼びかける。
「大天使様、見ててください。今に立派な大天使補佐になれるように頑張ります」
遠くから「お前は何もわかっとらん!」という大天使様に似た声が聞こえたが、おそらく気のせいだろう。
俺は再びバイト先へと足を進めた。
昨日中は無理でした。
待ってくださった方はすみません。
少しだけ自己評価を上げた天使の次は303号室吸血鬼です。




