302号室 見習い天使 その1
天使は自らを過小評価する。
「わしももう年をとった。この意味が分かるか、ヴェル?」
眼鏡をかけた知的な雰囲気のする老人は傍らに控える少年に話かける。
ヴェルと呼ばれた少年の顔には青年と少年の間がくらいの年齢のようで、顔にまだ幼さが残っており、赤髪に金色の目をしていた。
短く整えられた髪型と首元の金具まで留められた牧師のような服から真面目そうに見える。
「私には何のことだかさっぱりわかりません。大天使様はこの間、警備天使百人相手に無双なされていたではありませんか」
「つまりは世代交代の時期じゃ」
「私の話を聞いておられますか?そもそも私には荷が重過ぎます」
噛み合っているようで噛み合わない会話にヴェルは眉を寄せる。
「何をいうか。ミカエルもガブリエルもラファエルも既に新しい者と変わっておるのじゃぞ。まだ変わっていないのはわしだけじゃ」
「なぜ私なのですか?大天使様の後継者にはもっと相応しい者がいるのではありませんか?」
「何がそんなに嫌なのじゃ?四大天使になるほど名誉なことはそうないぞ」
「私は容姿だけで四大天使に選ばれたくはありません」
いくらいっても頑なに拒むヴェルに大天使様は長い溜め息をついた。
「ヴェル。おぬしは勘違いをしておる。実力のない者は四大天使にはなれぬ。いくら見た目が初代ウリエル様に似ておろうともな。なぜそれが分からぬ」
「大天使様と皆の考えは違います。そして私とも」
このままでは埒が明かないと、大天使様はしばし考えこんだ。
大天使様は百年ほど前に一介の警備天使であったヴェルの実力を見込み、自分の後継者に育て上げた。
だが、一方で身分が低かったことと初代ウリエル様にそっくりの容姿ゆえに選ばれたのだと、陰口をいわれて成長した。
そのためヴェルは自分の能力がどれほど高い物なのかを理解していない。
過度の自尊心は己を滅ぼすこともあるが、過度の謙遜は周囲の者から舐められることとなる。
強引に大天使の座に着かせることは出来るが、それでは誰も従わないのは目に見えている。
それにヴェルならばすぐに適任者に探し出し、大天使の座を辞するだろう。
不意に良い案が浮かんだようで、明るい顔で思いついたそれを口にした。
「おぬしは口でいっても分からぬようじゃな。ふむ。おぬしは一番人間の世界をみてくるとよい」
「大天使様、それはどういう意味ですか?」
「おぬしは見習い天使として人間界に行ってもらう。そこで様々なことを知り学び感じ己を高めるがいい」
「本気ですか?」
真っ青な顔をしたヴェルの額から滝のような冷や汗が流れ落ちる。
じりじりと大天使様から距離をとるがもう遅い。
足元に巨大な転移用魔法陣が現れ、空色の光の中に閉じこめられる。
大天使権限を使った魔法陣から抜け出すためには同格の身分になるか、万物を従える神様にでもなるしかない。
つまり今のヴェルには何もできないのだ。
ヴェルは敗北感のあまりその場にしゃがみこんだ。
大天使になることを拒んだだけで天使界を追放するなんてあんまりだ。
確かに今まで俺を大天使にするために費やした時間が無駄になるかもしれない。
だが、俺はそれ以上に次期大天使様を補佐するつもりであった。
そんなヴェルの思いを無視して、人間界に送る儀式は進んでいく。
「わしはいつでも本気じゃ。では行って来くのじゃ」
悪魔のような笑顔で大天使様はヴェルを送り出した。
「大天使様ぁあああ!?」
腐った木の床が抜けるように、ヴェルは人間界へ落ちていった。
ヴェルがいた場所は何事もなかったかのように元通りになる。
「自信を身につけて帰ってくるのだぞ」
一人きりになった部屋で何もない場所に激励を送り、職務に戻った。
大天使様は忙しいのである。
「あの老人のせいで俺の天使生命は滅茶苦茶だ!今度会ったら俺よりも大天使に相応しい奴へ老人を押しつけて、警備天使に戻る!」
俺は落とされながらも大天使になるつもりはなかった。
むしろさらに大天使になることが嫌になった。
あまりの怒りに口調が崩れてしまったが、咎める大天使様は側にいない。
だから素の口調でも全く問題ない。
何よりあの口調は肩が凝る。
「そうだ!誰がなんといおうとも俺は絶対に警備天使に戻る!」
前向きか、後ろ向きかわからないが、新たな目的を胸にした俺は現状に考えを戻した。
幸いなことに宇宙の外気圏ではなく一番地表に近い対流圏に飛ばされたようだ。
だが、安心してはいられない。
この高度は飛行機が飛んでいる。
天使は通常は肉体を持たず、精神だけで存在している。
そのため人間界へ修行に行く時は仮の肉体が与えられる。
与えられた肉体の強度がわからない以上、無茶なことは出来ない。
下手をすれば精神もろとも天に召される可能性だってある。
天に召されて何が困るか?
それは大天使様の怒りの一撃だ。
俺が何も学ばずにおめおめ天使界に帰ろうものなら、神様から授かる最大権限の『神の炎』で全身を火あぶりにされた後に、再び落とされるだろう。
一度、大天使様を本気で怒らせて『神の炎』を使われた時、初めて心から死ぬかと思った。
天使界一厳しいといわれる警備天使の訓練でさえ、お遊戯に感じてしまうほどの威力だった。
もう二度と味わいたくはない。
考えている間にも地面は近づいてくる。
辺りは家と細い道ばかりだ。
いくら考えても上手く着地が出来る気がしなかった。
数百メートルで早くも無傷で着地することを諦めかけたヴェルだが、信じられない光景が目に入る。
ヴェルの着地予定地へ二人の男女が近づいていた。
二人はお喋りに夢中で空中のヴェルに気づかない。
人間を巻きこんだと知られれば、『神の炎』で火あぶりだけでは済まされない。
この体で出来るかわからないが、天使の羽を思い受かべる。
少しでも落下の威力を押さえようという考えだ。
だが背中に現れたのは虫のような薄く不恰好で頼りない赤い羽で、肝心のスピードはほとんど緩むことなく、二人に向かって落ちていく。
「危ないっ!」
数十メートル上のヴェルの声にようやく二人が気ついたが、すでに遅かった。
避ける暇を与えず、男を巻きこむようにヴェルは落下してしまった。
「すごい音がしましたが、大丈夫ですか!?」
心配する女の声を聞きながら、ヴェルの意識は遠のいていく。
ああ、『神の炎』決定だ。
薄れていく意識の中で思ったのはただそれだけだった。
「……っ!……んっ!……う……く……!」
聞き慣れない声に目が覚めた。
全身が痛むが、骨折や内蔵破裂は起こしていないようだ。
この痛みもただの打撲だろう。
まず目に入ったのは黄緑色の目を真っ赤に腫らした女の顔。
長い青髪が俺の顔に垂れて、わずかにくすぐったい。
「灯火くん、目が覚めて良かったです!」
俺が目覚めたことに気づくと女は満開の花のように笑い、横になっている俺に抱きついていた。
突然の出来事に俺は抵抗する間もなく、女にされるがままだった。
物音を聞きつつけ、一人の男?いや女がドアを開け、部屋の中に入ってきた。
女は癖毛なのか、ただ手入れを怠ってぼさぼさしているだけなのかよく分からない、薄茶色の腰辺りまで伸びたとても長い髪、顔の半分を覆う長い前髪のせいで表情が読みずらい。
相手のことがよくわからない以上、謙虚な態度をするのが賢明だ。
「目が覚めたみたいだね。体調はどうかな?」
「大丈夫です。もう一人はどうなったんですか?」
「まだ寝てるよ。特に外傷はないけど、全身を強くをうったみたいでね。ところで」
前髪に隠された女の目が細められた気がした。
疑惑に満ちたその視線に俺はたじろぐ。
「君は誰?」
俺は天使の目を発動させる。
天使の目は大天使補佐以上の階級の天使が使える能力で、任意で視界に映る存在の情報を読み取ることが出来る。
何も知らない相手を知ることが出来る大変便利な能力だが、今は半分以下の情報しか表示されない。
人間界の影響を受けているようだ。
青髪の女と薄茶髪の女の頭の上に名前、年齢、性別、特性の順で表示された。
他の情報は知ることが出来ないらしい。
天使界でこの世界の人間の情報を見たことがあるが、異常すぎる二人の情報が乗っていた。
まずは青髪の女は名前(聖生清水)、年齢(18歳)、性別(女)は普通だ。
ただ、特性が不死身だった。
なぜ神様でもないのに不死身なんだ?
神様の設計ミスか?
答えがわからない以上、見なかったことにする。
わざと殺して確認するわけにはいかない。
故意の殺生は悪魔に堕天する規則になっている。
悪魔とは天使のパシリと同じ意味で、犯した罪を償うまで天使に戻ることも生物に転生することも出来ず、死ぬほど天使にこき使われる。
次に薄茶髪の女は性別の他が全ておかしい。
名前が唄田猫(偽名)っておかしいだろ?
どうして本名が表示されない。
嘘が表示されないはずだ。
もしかして人間の姿では力が足りないのか?
可能性は高いな。
年齢は1948歳。
不思議なことに見間違いでもなければ、西暦でもない。
人間をやめたんじゃないか?
なぜか性別は普通に女で、特性が魔法使いだ。
他にも魔法使いを見たことはあるがは、十分の一でも長生きの部類だった。
人間としても、魔法使いとしても限度を超えている。
やはり目の前の人物は化け物だ。
最初から俺が人間でないことにも気づいていたようだった。
「猫さん、何をいっているんですか?」
俺から体を離し、聖生が信じられないといわんばかりの顔をする。
唄田の視線の強さが変わることはない。
「その人のいっていることは事実です。私は灯火さんではなく、パーヴェル=アウリオンと申します」
どこまで話すべきかと躊躇う。
全てを話したところで理解を得られるよりも不信感を得るだろう。
つじつまが合うように適当に話をはぐらかすのが得策と見た。
「え?灯火くんじゃないんですか?でもこの人の顔と体はどう見ても灯火くんですよ?」
考えでいたことが全て飛んでいった。
どう見ても灯火くん?
それほど俺と灯火というやつが似ているのか?
「すみません。この家に鏡はありますか?よかったら貸してもらえませんか?」
「はい」
唄田が差し出す手のひらサイズの手鏡を受け取ろうとし、視界の隅に見えた赤髪と久しく知らなかった感覚が頬をくすぐった。
思わず、ひったくるようにそれを受け取ると自分を映した。
顔も目の色も髪の色も天使界にいた時と同じだ。
「髪が伸びている?」
違うのは酷い寝癖であちこち跳ねている肩を越す赤髪。
手入れがされていないわけではないようで、髪自体には艶があった。
試しに手で梳いてみると軽い抵抗を感じる程度で、毛先まで通る。
俺は天使界でも、人間界に来た直後でも確かに短髪だった。
ならなぜ俺の髪は長いんだ?
答えの見つからない問いを繰り返していると、廊下を走る音と騒がしい声が近づき、勢いよく部屋のドアが開かれた。
「猫さん、どうしましょう!僕の髪が短くなってま、す」
部屋にいた三人の視線が俺と鏡合わせをしたように同じ顔の今にも泣きそうな男に集まった。
男の髪型は整えられた短髪だった。
天使の目に映る情報に直観はまさかと告げ、理性がそんなはずがないと否定する。
「四川灯火……殺人鬼?」
誰にも聞こえないほど小さな声が俺の口から漏れた。
表示された名前は俺(パーヴェル=アウリオン)ではなく、特性も信じられないものだった。
殺人鬼は大量殺人を犯した者にのみつく、特殊な特性だ。
その数は少なくとも百人を越えなくてはつかないため、現代の日本でそれも十九歳でつくような特性ではない。
俺とよく似たこいつはこの年齢でいったい何人殺したんだ?
「おや?そちらも起きましたか。ちょうどいいです。まとめて事情を説明してくださいますよね?」
男の後ろからピンクの色の髪の猫耳男が顔を覗かせた。
名前と性別(男)、年齢(三十二歳)は普通だったが、三人と同じように特性がおかしかった。
特性:異世界人。
つまりこの世界の人間ではないということだ。
おそらく魔法使いが別の世界から連れてきたんだろう。
そういう魔法が存在することも知っていたが、現代にも使える存在がいたことを知らなかった。
ここに揃っている面々は常識を超える存在が揃っているようだ。
偶然か、必然なのか知らないが。
恐ろしいことにフェイトは懇願するような口調でありながら、全身から『いわなければ殺す』といわんばかりの雰囲気を醸し出していた。
二人が座ってから、俺は大人しく全てを話すことにした。
信じるも信じないもここにいる者次第だ。
どう判断しようが責任は取れない。
「信じてもらえないと思いますが、私は天使です。上司の大天使様から人間界に行って勉強するようにいわれ、天使界から落とされました。不幸なことに落ちたところが悪く、道を歩いていた灯火さんの上に落ちてしまいました」
もうしわけありません、と四川に謝ると、こちらこそすみませんでした、と返されてしまった。
お前は被害者で何もしてないだろとツッコミを入れる。
殺人鬼だからと気を張っていたが、もしかしたらこの中で一番気が弱いんじゃないか?
「君は堕天使なのかな?」
落とされたという表現がよくなかったらしい。
「私は堕天使ではありません。堕天使は自動的に悪魔に格下げされるため、そうやすやすと人間界に来ることが出来ません。私のことは人を裁く存在として人間を知るために社会勉強に来た見習い天使、とでも思っていただければ幸いです」
実際はもっと重い意味を含んでいるのだが、人間界にいるのは俺が天使界へ帰るまでの話だ。
詳しくいわなくても問題ないだろう。
四人とも肯定の反応を示した。
全身を強く打ったと聞いたが、見ている限りは四川に後遺症はなさそうだ。
少しだけ安心する。
「なぜあなたは名乗ってもいないのに灯火の名前と隠し事がわかるのですか?」
フェイトの視線が敵意から殺気に変わった。
先ほどうっかり呟いた名前と特性を聞かれていたらしい。
不覚にも自分の感情を制御できなかった俺の落ち度だ。
「私は人の情報を知る『天使の目』という能力を持っています。だから皆様のことを少しだけ知ることができます」
唄田は予想していたようで態度に特に変化はない。
フェイトはさらに疑いを強くしたのか視線が鋭くなる。
聖生は少しだけ顔が強張った。
俺の言葉に一番強く反応したのは四川だった。
顔色が今にも倒れてしまいそうなほど目に見えて青白くなり、全身が大きく震えていた。
「ですが安心してください。今の私に天使の権限はほとんどありません。ほとんどただの人間です」
安心させるように微笑んだが、四川の態度が軟化することはなく、むしろ悪化した。
目を閉じたかと思うと、体中の力が抜けたようにその場に倒れこんでしまった。
予想外の事態に驚く暇はない。
「何をしたのですか?」
喉元に突きつけられたのは、よく磨かれた一本のナイフだ。
俺へ静かに問うフェイトの声は絶対零度がふさわしいほど冷え切っていた。
いつの間にか距離を詰められていた。
天使時ならここまで簡単にいかなかっただろうが、人間の今は動きを追うことすら出来なかった。
だが、俺は何もしていない。
「フェイト、落ち着きなよ」
「すみません、主。他に理由が思い至りません」
とんでもない濡れ衣だ、と抗議したいところだが俺自身もそれしか思い浮かばなかった。
どの言葉が四川にとって禁句だったのか理解できないが、確かに俺の言葉に反応していた。
薄皮を裂かれたような感覚の後に強い痛みと一筋の血が流れた。
何もしていないということは簡単だ。
ただそれは四川に対して嘘をつくような気がして、口に出すが躊躇われた。
「わかりません」
今の現状でいえるのはたったそれだけだ。
灯火が目覚めれば倒れた原因が聞けるだろう。
その場に俺がいることは叶わないのは想像に難くないが。
「この状況でまだそんなことがいえますか?」
つけた傷を広げるようにさらにナイフが捩じこまれる。
先ほどと比べ物にならないほどの激痛が走り、二筋、三筋と血が流れ出す。
それでも俺の答えは変わらなかった。
「わからないものはわかりません」
奥に捩じこもうとしたフェイトの手を唄田が止めた。
抗議の視線をあっさりと無視し、傷へと回復魔法をかけた。
「今の君は本当に人間なんだね。疑って悪かった。君の知る通りこの場所にいる人はあまり他人にいえない事情を抱えた者が多いんだ。だから他人に喋らないでいてくれると助かるよ」
唄田の顔はわからないが、先ほどまで感じていた威圧するような雰囲気は感じない。
とりあえず殺されない程度には、信頼を得たようだ。
この場で一番偉いのは唄田のようでフェイトは鋭い視線の他は何もしない。
血塗れたナイフは魔法をかけ、元の綺麗な状態にしていた。
「わかりました」
しっかりと頷いて肯定を示す。
「いい子だね」
口元を緩めた唄田はまるで小さな子をあやすように俺の頭を撫でた。
大天使様に同じことをされたら不快に思い全力で拒絶するその行為も、なぜか素直を受け入れされるがままだ。
飴と鞭という言葉が頭に浮かび、納得する。
唄田が飴で、フェイトが鞭なのか。
「それで君はこれからどうするつもり?」
猫に告げられて俺はようやく自分の現状を考えた。
服もなく、住む場所もなく、食べ物もない。
最低限の生活を送るために何よりも必要な金をもっていない。
そこまで考え、大天使様から生活資金をもらっていないことに気づいた。
あのくそじじい、帰ったら辞表を叩きつけてやる。
中途半端なところで話が終わってしまい、すみません。
長くなってしまいそうだったので切りました。
今さらですが、ヴェルはあだ名です。
その2に続きます。




