301号室 未来少女 その3
その2の続きです。
約束した日曜日はあっという間にやって来た。
最初に会った日から、仕事が忙しく未来とは会っていない。
だが、年の近い雲たちが側にいるから、俺と会わなくても寂しくなかっただろう。
昨日も明け方まで仕事だった俺は、チャイムの音で目が覚めた。
枕元に置いていた携帯時計の時間を見るとまだ八時だ。
この時間帯はどこの店も開いていない。
雲たちが早く行きたがる気持ちはわかるが、せめて一時間後くらいに起こしてほしかった。
「お前ら早過ぎ……」
欠伸を噛み殺しながら玄関の扉を開け、続く言葉を失った。
それは相手も同じで、口をぽかんと開けて俺を見上げていた。
いつも顔の半分を隠していた前髪は左右に分けられ、その中性的で端正な顔が露わになっていた。
何年か振りに見た猫の顔は変わらず、心臓が高鳴った。
「なんで猫がここにいるんだ?」
先に口を開いたのは俺で、行動したのは猫だった。
開いていた扉を勢いよく閉められ、強く鼻柱をぶつける。
「フェイトに『未来という少女のために買い物へ連れて行けといい出したらしいですが、全てトマに任せるつもりですか?』といわれて、店を追い出されたんだよ。まったく誰がフェイトにいったのやら。最後まで抵抗したんだけど、力押しされたよ。まだまだ負けるつもりはなかったのだけれど私ももう若くないね」
この格好もフェイトが勝手に決めてね、と猫が続ける。
先ほど見た猫の服は白いシャツにループタイをゆるく絞め、その上には薄い赤色のカーディガン、下は細身のベージュのタイトパンツで足元は焦げ茶色のデッキシューズだった。
知的な優しげな雰囲気がするその格好は猫にとてもよく似合っていた。
扉越しに聞こえる声がもどかしいが、外から猫が抑える力が強く、どれだけ力をこめても開けることが出来ない。
フェイトはこれを負かしたらしい。
一体、どれだけの力を持っているんだ?
それとも魔法のおかげか?
「ところでトマ。何を着て行くつもり?」
明後日に飛んでいた思考が現実に戻ってくる。
俺の服?
「スーツで行くつもりだ。それがどうかしたか?」
猫の呆れたような深いため息が聞こえた。
何か変なことをいっただろうか?
「仕事に行くわけじゃないんだから、スーツはないよ。だいたい今日は一日中歩き回るのに動きずらいでしょう?」
猫のいうことはもっともだ。
しかし、年中スーツを着ているせいか、スーツ以外の服を持っていない。
「他に着る物がない」
「そうだろうね。その恰好を見ればわかるよ」
猫は妙に納得していたが、誤解も甚だしい。
「昨日、疲れてそのまま寝ただけだ。いつもこんな格好をしているわけじゃねえよ」
「はいはい。じゃあ扉の近くに服を置いておくよ。待っている間は未来ちゃんのところに行くから準備が出来たらきてよ」
小さな子どもをあやすように俺の話を流して、猫の気配が遠ざかった。
扉を開けるとやはり猫はいなかった。
雲たちのところへ行ったのだろう。
扉の直ぐ脇に紙袋があった。
中を覗くと、アクセサリーから靴まで揃っていた。
おそらくフェイトから服を借りてくれたのだろう。
さりげない気遣いに嬉しくなった。
もっと俺だけを見ろ、と願ってしまうのは今に始まったことではない。
朝から猫に会えた嬉しさをしみじみと感じながら、俺は風呂に行く支度をする。
昨日は風呂に入る気力さえなかった。
渡された服に着替えた時に猫がどんな反応をするのか想像しながら、俺は服を着て部屋を出た。
準備が終わり、未来たちに会ったのはそれから三十分ほど後だった。
トマに会いに行くこととなる一時間ほど前。
私は自ら営業する喫茶店『黒猫』の開店準備をしていた。
いつも通りの時間にフェイトがやって来たが、いつもとは様子が違った。
何か面白い玩具を見つけたように目を輝かせていたのだ。
朝の挨拶も無しに私に近づく。
「聞きましたよ、主。トマに未来という少女のために買い物へ連れて行けといい出したらしいですが、全て任せるつもりですか?」
鼻先がついてしまいそうなほど顔を近づけられる。
フェイトはよほど余裕がないらしい。
「そうだよ。一緒に行くことも考えたけど私は店があるからね」
「なら私が何とかします。だから主は一緒に行ってきてください」
「はあ?」
予想外の言葉に間抜けな声が出てしまった。
なぜトマだけではだめなんだろう?
「トマの服にたいしての壊滅、いえ前衛的なセンスを忘れたのですか?」
十数年前、まだトマが組で下っ端の時、それはそれは酷い服を着ていた。
スラックスの上に派手な真っ赤なアロハシャツを着たり、蛍光黄色のシャツに真っ白なスーツを着たりしていた。
緑と赤の斑色のシャツを見た時は軽くめまいがしたものだ。
いったいどこに売っていたのだろう。
今では一人で服を選ぶことがないため、ちょっとおしゃれなサラリーマンのような服を着ている。
部下に服のセンスがいい人がいて本当によかった。
そのトマが女の子と買い物に行くのだ。
正直、不安しかない。
「い、いやさすがにもうあんな服は選ばないでしょう?」
それはもやは懇願に近かった。
もし、センスが変わっていなければ、真顔で蛍光ピンクの服を選びそうだ。
「油断できませんよ。この間、買い出しの途中で出会った時、全身真っ青な人を見て『おしゃれだな』っていっていたのですよ?」
トマのセンスは未だ変わっていなかったようだ。
いつからそんな歪んだセンスを持ってしまったのだろうか?
古い記憶を呼び起こすと、最初に出逢った時からだった。
たかが数十年で治るはずもない。
「主は小学生くらいの少女に蛍光ピンクを着せませんよね?」
フェイトは不安げな顔で私を見つめる。
私は断ることが出来なかった。
答えは買い物に行く相手にトマを選んだ時点で決まっていたのだ。
千秋や新に頼めばよかったと後悔するが、大学生に負担させるのも悪い。
あの場にフェイトがいたならば、命令できたものを。
後悔はつきないが過ぎた時間は取り戻せない。
「それでは、主。着替えましょう」
逃げないようフェイトに腕を掴まれ、プライベートスペースになっている二階へと連れて行かれる。
「このまま行くよ」
「仕事に行くわけではないんですよ。却下です。私が全てコーディネイトしますので安心してください」
抵抗する暇もなく、椅子に座らされ、適当に何着か持ってきては合わせられ、決まったと思えば着替えされられた。
次に手入れをしていない髪をいじられる。
髪を触られる感覚がくすぐったくて、つい笑みが零れてしまう。
「あの時と逆ですね」
「そうだね」
フェイトと初めて出かけた日にこうして髪を結ってあげた。
あの頃はまだ可愛げがあったのに、今ではすっかり大人になってしまい全く可愛くない。
てきぱきと手を動かし、たった数分で終わったしまった。
顔の半分を覆っていた前髪は左右に流され、耳から上の髪は後ろに一つにまとめられていた。
よく見ると毛先などに整髪料をつけ、遊ばせている。
いつの間にこんな技術を身につけていたんだろう。
あの頃の何も出来なかったフェイトはもうどこにもいない。
急に寂しさがこみ上げてくる。
「出来ました。他に何か必要な物はありますか?」
「そうだね。トマの服も準備しよう。多分スーツしか持ってないよ」
「確かにそんな気がします。主の服では小さいでしょう。私の服でいいですか?」
「ありがとう。そうするよ」
後、どれだけの時間をフェイトやトマたちと一緒に過ごせるのだろうか?
ふと過った疑問を頭の奥に押しやる。
時間はどう過ごそうが、過ぎていく。
なら考えても仕方ない。
それよりも一秒でも長く楽しんだ方がよっぽど前向きでいい。
フェイトと一緒にああでもないこうでもないと、トマの服を選んでいく。
ようやく決まった時には一時間近くが経っていた。
まだトマは寝ているかも知れないが、行き違いになるよりはいい。
「それじゃ行ってくるよ。何かあったら遠慮なく連絡してほしい」
「大丈夫ですよ。主は何も気にせず楽しんでください」
「わかった。行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、主」
すっかり頼もしくなったフェイトに甘えて、久しぶりに一人で出かける。
あえて連絡を入れずにトマの部屋に向かった。
数年振りの私服姿をトマはどう思うだろうか?
少しの緊張とわくわくを胸に歩いていく。
考え事をしている間に、部屋の前についた。
小さく深呼吸をして、壁のチャイムを鳴らした。
やや間があって、トマが出てきた。
声をかけようと開いた口は、トマの衝撃的な姿のあまり何も発することはなかった。
出てきたトマは起きたばかりのようで気だるい顔、上半身は裸で下着しか身につけていなかった。
気だるい顔は妖艶な色気があり、私でも抱えられるほど貧相な体だった少年は、今ではスポーツ選手のよりも引き締まった大人の体になっていた。
箱入り娘のように可愛らしく叫ぶことはなかったが、顔に熱が集まっていく。
トマが口を開いた瞬間に、全力で扉を閉めた。
鈍い音がしたが大丈夫だろうか?
再び、トマが扉を開けようとするので、全力で拒否する。
話が終わるまで、いや服を着るまでは顔を見れそうにないからだ。
話が終わり、服を扉の脇に置き、すぐにその場を離れた。
壁に背を預け、煩い心臓が大人しくなるのを待つ。
顔を押さえる手がひんやりと気持ちいい。
「やっぱり好きなんだなぁ」
忘れそうになる度に無意識にトマは私を引き止める。
それはただの偶然しかないけど、だから私は前に進めない。
自分勝手に決めたことなのに。
苦しげに呟く声は誰にも聞こえない。
数分で心音が落ち着き、私は未来ちゃんの家に向かう。
先程と同じように部屋の前のチャイムを鳴らした。
すぐに扉が開かれ、未来ちゃんが出てくる。
ぽかんとした顔で目上げてくるのが、可愛くて笑みが溢れる。
「猫さんっ?」
こてんと不思議そうに首を傾げる。
昨日は顔が見えなかったから、ピンとこないんだろう。
「そうだよ」
「その服似合ってるっ!猫さん、かっこいいねっ!」
未来ちゃんは全力で褒めてくれた。
カッコいいといわれて微妙な気持ちになるが、深く考えていってないのは見ててわかるから気にしないことにした。
「ありがとう。未来ちゃんは可愛いね」
頭を撫でると嬉しそうに頬を緩ませる。
未来ちゃんは飾りの少ないシンプルな白いワンピースに、同じ色の靴下を履いていた。
家に上がらせてもらうと、四つ子が揃っていた。
一週間も経っていないのに、ずいぶん仲良くなったみたいだ。
「あら、猫じゃない。珍しいわね。どうしたのよ?」
「トマが未来ちゃんと買い物に行く約束をしてたんだけど、二人で行くのは不安でね。ほらトマは男だから女の子の服を選ぶの大変だよね?だから一緒に行ってもいいかな?」
「私たちも行くわよ?トマと約束したのよ。未来に服を貸す代わりに買い物に連れて行くって」
少女たちは頭の上にはてなマークを浮かべる。
どうやら私はフェイトに嵌められたらしい。
そういえばフェイトは一度も“二人だけで”買い物に行くとはいってない。
あの野郎、何が大丈夫だ。
「なら私がいなくても大丈夫だね。皆で楽しんできてよ」
体を反転させ、フェイトをどう問いただすかを考える。
行き過ぎた悪戯には罰が必要だ。
「待って!」
久しぶりに聞く声に振り返ると晴ちゃんがいた。
相変わらず、手足が細く、日にあたることが少ないから肌が青白い。
「猫さんも一緒に行きませんか?」
不安げな顔で私を見上げる。
そんなに仲良くした覚えがなくて、戸惑ってしまう。
「そうね。猫も一緒なら安心していけるわ。一緒に行くわよ」
「一緒に行こうよっ!」
「猫も一緒に行ってくれんの!?」
「……一緒……嬉しい」
未来ちゃんと雲ちゃんは私が逃げないように、しっかりと両腕にしがみついた。
逃げようと思えば逃げられるけど、こんなに必死に誘われては断れなかった。
仮に断ったら断ったで、久遠に怒られそうだ。
「じゃあお邪魔しようかな。雨ちゃんと雪ちゃんも行くの?」
そういえば少女たちは弾けるような笑顔になった。
私が一緒にいることでこんなに喜んでくれる。
それだけで私は胸がいっぱいになった。
「私も嬉しいよ」
たった一言にこめた思いはどれだけ彼女たちに伝わったのだろうか?
一部でもわかってもらえたらいい。
「そういえばトマは?」
「そのうち来るよ」
「……スーツ……で来る?」
「ありえるわね。それ以外考えてなさそう」
「他に服を持ってなさそうです」
「黄土色のジャージなら持ってそう!」
四つ子たちもトマのことを分かっている。
「大丈夫だよ。フェイトの服を貸したから多分そんなに変な格好にならないと思うよ」
四つ子たちはほっとした顔になる。
「フェイトなら大丈夫ね」
「……おしゃれさん」
「あれが本当のイケメンだよな!」
「いつも綺麗な女の人に声かけられてますしね」
四つ子はフェイトに対して過剰評価をしている部分があるようだ。
アレの腹の中はブラックホールよりも真っ黒だ。
外面だけは誰よりも優れている。
チャイムの鳴る音に皆が反応した。
多分トマだろう。
皆で出迎えると予想通り、来客はトマだった。
大人数の出迎えに驚いた顔をしていた。
トマの格好はワインレッドのV字に開いたニットシャツの上には指輪のネックレス、下はダメージ加工のデニムのパンツに、レザーブーツだった。
男らしい体格を生かした服装はシンプルだが大人の色気があり、トマをより引き立てていた。
「さすがフェイトさん!」
トマの姿を見て、四つ子は声を揃えていった。
私も一緒に選んだのだけど、ここでそれをいうのも無粋という物だろう。
訳が分からず困った顔をするトマに、苦笑を浮かべる。
「私も一緒に着いて行ってもいいかな?」
一応、トマにも許可を求めると嬉しそうに快諾した。
それは保護者が増えたからか、それとも私だからか。
今回は両方かな?
互いの思惑には気づかないふりをして、私たちはショッピングモールへと向かった。
バスで行くつもりだったが、帰りの荷物を考え、レンタカーを借りた。
最初はトマが運転していたが、あまりに荒い運転に未来ちゃんと雲ちゃんが車酔いをし、私に交代した。
実際は渋るトマに道路交通法の大切さを説教し、無理やり交代した。
公道を八十キロで走るなんて正気じゃない。
信号をなんだと思っている。
いい出したらきりがなかった。
意外に晴ちゃんは何ともないようだ。
理由を行くと何度も救急車で運ばれているうちに慣れたそうだ。
そんな理由で慣れるのは、世界中を探しても晴ちゃんしかいないだろう。
まあ、いろいろあってけっきょく、ショッピングモールに着いたのは開店三十分後だった。
すみません。人数が増えました。
次こそデパート回です。