103号室 ネット歌手 その1
ネット歌手は電波に思いを乗せて歌う。
「好きだ」
頭に包帯を巻き、手に湿布を貼られ、足をギプスで固められ、病院のベットの上で上体を起した多福新は俺に向ってそういった。
「冗談だろ?」
動揺を隠しきれず、声が震えた。
だって俺たちは友達だったじゃん。
「僕は本気だよ」
新は揺れることなく俺を見ていた。
その血のように真っ赤な瞳に映る俺は怒っているような、笑っているような、悲しんでいるような、とても言葉では表現できない複雑な顔をしていた。
「考えさせてくれ」
そういうのが精一杯だった。
「うん。分かった」
俺は逃げるように新の病室を出た。
ドアが完全に閉まった瞬間に吐き気が襲いかかった。
俺は近くの壁に寄りかかって耐える。
「大丈夫ですか?」
通りがかった看護師が俺に声をかけた。
俺は手を振って、大丈夫だと知らせた。
「本当ですか?なんでしたら」
「この後予定あるんで」
看護師の言葉を遮り、俺は歩き出した。
頭がくらくらする。
体も思ったように動かない。
手すりにしがみつくように歩く俺にすれ違う人の視線が突き刺さった。
病院の廊下の先が歪んで見えた。
それでもなんとか外に出た。
酸素を補給するたびに喉の奥が冷やされた。
凍えそうな寒さだった。
雪が降ってもおかしくないんじゃないか。
寒さと吐き気に耐えながら家路を急ぐ。
こんなに家が恋しい日は中々ない。
角を曲がると飛び出してきた誰かと肩がぶつかった。
「てめえ誰にぶつかってやがる!」
浴びせられた怒声が頭に響いた。
思わず胃の中身が出そうになった。
口元を押さえ、唾を飲みこみ、嚥下した。
「お前、黒野原千秋か」
顔をあげると見知った顔があった。
「とまさん」
スーツを着ているが、彼は堅気の人ではない。
煙草の代わりに細長い人参をくわえていた。
同じアパートに住むとまさんの本名は屋斎十真十。
「大丈夫か?顔真っ青だぞ」
「はは。俺告られちゃいました」
俺は残り少ない気力を振り絞っていつものように笑った。
「よかったじゃねえか」
「男にっすよ?」
とまさんが微妙な顔をした。
俺も同じ気持ちだ。
「よかったといって悪かったな」
とまさんは乱暴に頭をかいた。
「いいんっすよ」
「相手は?」
「新っすよ」
新は俺の家によく遊びにくる。
だから、とまさんと新はアパートで何度か会ったことがある。
「だろうと思った。こいつらに車出させるから乗れ」
とまさんは目に付いた部下の一人を指した。
「いやそんなわりいっすよ!俺一人で帰れますから!」
「タクシー代だ。気をつけて帰れよ」
厚意を受け取らない俺に小さく舌打ちをし、とまさんは懐から高そうな財布を取り出し、紙幣を一枚握らせた。
「いりませんよ!」
「俺はお前のことは弟みてえなもんだと思ってる」
「へっ?」
「どちらにしてもちゃんと返事してやれ」
そういって立ち去る、とまさんの後ろ姿はとてもかっこよかった。
手には無理やり押し付けられた一万円が握られていた。
家まで後五分ほどで着く。
自分の足で帰ろう。
アパートに着いても、珍しく誰ともすれ違わなかった。
家に入り、鍵を閉めた。
鞄を投げ捨て、上着を脱いで、トイレに飛び込んだ。
昼食べたものを全て吐き出して、それでも気が済まなくて、胃液まで吐いた。
呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がり、トイレから出て、洗面所の蛇口をひねった。
水は外と同じ気温だった。
口をすすいで、顔を洗う。
鏡を見ると世界一嫌いな顔が映った。
大きな二重の目、長いまつげ、赤い唇に小さな顔、少しだけ丸みを帯びた体。
「どうして、俺は、女に生まれたんだ」
呟く声も男のものと違って高かった。
目を覚ますとベットの上だった。
いつの間に寝ていたんだろう。
携帯電話を探すと、すぐに見つかった。
枕の横にあったそれを開いて着信履歴を見た。
たくさんの履歴の中に新からのメールが一件あった。
From:多福新
To:黒野原千秋
件名:明日
本文:退院できるって。
心配かけてごめん。
一人で帰れるから迎えこなくていいよ
よく怪我するあいつからの何度目かのメール。
最後の一文は俺に気を使っているとはっきり分かる。
もうちょっと相手に悟られないようにしろよ。
気がつけば俺は返信を打とうとして、手が止まった。
昨日のことを思いだしてまた気持ち悪くなった。
そして悲しくなった。
あいつは俺のことを女として見ていたのか。
じわっと涙が染み出てきたが、泣かない。
泣いたら女みたいだから。
結局、何も送らずに携帯を閉じて、布団にもぐりんだ。
計ったようにチャイムが鳴った。
しぶしぶ出ると、同じアパートに住み、同じ大学に通う佐藤良平が立っていた。。
良平を一言で例えるなら、どこにでもいそうな大学生だ。
少しだけ顔が整っていること以外は特徴がない。
「どうした、リョーヘイ?俺になんか用?」
「朝ご飯もう食べた?」
「いやまだ。つうか今起きたところみてえな?」
ははっと俺は笑った。
良平は鞄の中から少し大きめの弁当箱を取り出した。
「よかったらこれ。昨日の残り物で作ったサンドウィッチ」
「えー!マジで!もらっていいのか!」
料理上手な良平からの差し入れに嬉しくなる。
「1200円」
「高えよ!どこの高級レストランの土産だ!」
俺の突っ込みに、良平はふっと口元を緩めた。
感情を隠すことが得意な良平は気の許した人の前でしか、それを出さない。
小さい頃からの付き合いだから、お互いのことは家族よりも知っていた。
それが俺は誇らしくかった。
「冗談だよ。それより早くしないと一時限目の講義に遅刻するぞ」
「え。もうそんな時間かよ!なんで起してくんねえの!」
「何度も電話したよ。起きなかったアキが悪い」
確かに履歴には良平の名前もあった。
俺は頭を抱えた。
「あああああー!俺のバッカ!もういい!俺、一時限目サボる!」
「そういってこの間もさぼっただろう。まだ時間あるから行けよ」
「うへえ。だるい」
その時の俺を見る良平の目は氷山のように冷たかった。
「行きます。絶対行きます」
「あ。今日は新の退院日だったね。メール着いてたよ。迎えに行くんだろ?」
思い出したように良平はいった。
俺の中で時間が止まり、春になって雪がとけるようにゆっくりと動いた。
「いや迎え来なくていいって。だから行かねえ」
「ふうん。そう」
それだけで良平は察したらしい。
相変わらずの観察力だ。
前にそういったら「アキがわかりやすすぎる」といわれたっけ。
「じゃあ先行くよ」
「待っててくんねえの!?」
「えっ?約束してた?」
良平のこういう考えはたまに理解できない。
シビアというか、合理的というか。
友達と仲良くしようという考えが著しく薄い。
「そういう問題じゃねえよ。準備してっくからそこのフェミマで待っててくれよ!」
「僕はソブン派だよ。あそこのおでんはおいしい」
「はあ!コンビニつったらフェミマだろ!あの大きさで100円のフェミチキぱねえからな!」
「ロースンのから揚げ君と大して代わらないよ」
「おまっ!?フェミマの社長に謝れ!そして俺に謝れ!」
「結局どこで待ち合わせ?エべリワン?」
わざとらしくとぼけた調子で答える。
俺をからかっている時の特徴だ。
いつもよりわかりやすく笑ってるし。
「フェミマだ!ぜってえ待ってろよ!」
「はいはい。十分経って来なかったら先行くよ」
「短けえよ!」
俺は扉を閉めて急いで着替えた。
洗面所で顔を洗って、歯を磨きながら部屋に行き、今日使う教科書やら必要な物を鞄に詰めた。
家中の鍵を全て閉めて、ガスの元栓も閉めた。
もう一度洗面所に戻り、歯磨きを終えて、適当に髪型を整える。
嫌でも大嫌いな顔が映る。
今すぐにでも整形したい。
ふいに携帯が鳴った。
通話ボタンを押して、回線を繋いだ。
相手はさっき別れた良平だった。
「まだ?もうすぐ十分経つよ」
「うおっ!もうそんな時間か!」
俺は回線を切ると、慌てて部屋を飛び出した。
最後の鍵を閉めて、フェミマへ走った。
「よかった。間に合った」
約束通りフェミマの前で良平は待っていた。
両手を膝につけて俺は乱れた息を整える。
「早かったね。はいこれ」
良平は500mlペットボトルを手渡した。
中身は俺の好きなコーラ。
「ああ。わりいな」
受け取ろうと手を伸ばすと良平はひょいと避けた。
「120円」
「金取るんのか!?」
「大学生は貧乏なんで」
「嘘つけ!お前、稼いでるだろ!」
良平は真顔だった。
背の高い良平から奪うのは無理だった。
しぶしぶ財布から120円を取り出し、良平に手渡した。
「まいどあり」
それからコーラーを渡してくれる。
「120円くらいいいじゃねえかよ。リョーヘイのけち!」
「いやかれこれ30万円くらいはおごってるよ」
「そんなにおごってもらってねえよ。20万円くらいだ」
「大して代わらないよ」
良平は白い目で俺を見た。
「一々細けえよ。いいじゃねえか。過ぎたことなんだし」
「へえ。なら今度からおごらなくてもいいんだ」
「俺、そこまでいってないっすよ?」
良平は眉を寄せた。
「アキの気持ちはよーく分かった。だからこの肉まんは俺一人で食べることにしよう」
「すみませんでした。リョーヘイ様!」
「無理して謝らなくていいよ。別に怒ってないから」
「めっちゃ怒ってんじゃん!俺が悪かった。だからその肉まんください!」
「そんなに食べたいの。いくら僕でも引くよ」
「そこまでいわなくてもよくね!朝ご飯食べてないからしょうがねえじゃん!」
「しかたないな」
「くれんの!」
「130円」
あくまで良平は真顔でいった。
俺はもう一度財布を取り出し、お金を渡し、肉まんを貰った。
等価交換という言葉が頭に浮かんだ。
今日の講義の終了を告げるチャイムが鳴った。
講師が退室し、教室はにぎわい出す。
「ああー、やっと終わった」
机の上に上体を放り出して、額をつける。
ただ座って話を聞くだけなのにどうしてこんなに疲れるのだろうか。
「今日バイトは?」
「そろそろいかねえと店長に顔忘れられる」
「確かに忘れられてそう」
「じゃあ行くか」
「僕はシフト入って」
「バイト行くのも久々だなあ。店の雰囲気とか変わちゃってんの?」
「今日シフト」
「やっぱ店長に怒られっかなー?」
「人の話を聞け」
良平は俺の頭にチョップを食らわせた。
「いっつー!叩くことないだろう!俺が女だったとしても叩くのかよ!」
昨日、告白されたことを思い出し、後悔した。
大学ではメンズの服しか着ていないし、胸もほとんどねえ。
だから友達の良平と新を除けば、誰も俺が女だって知らない。
良平はきょとんとしていた。
「いや例え話だ!リョーヘイがあんまり俺を叩くから、だから、その」
その後の言葉が続かない。
微妙な空気になった。
「叩くよ」
はっきりと良平は宣言した。
「叩くのかよ!」
「今と何も変わらない。アキはアキだ」
ただ当たり前のことのように良平はいった。
俺は堪らなく嬉しかった。
しかし、本当にそうなのか、不安になった。
「ははは。それもそうか」
感情の矛盾を笑って誤魔化した。
荷物を持って立ち上がるとリョーヘイもついてくる。
そのまま嫌がるリョーヘイを無理やり引きずって、バイト先に向かう。
バイト先は『野良猫』という喫茶店。
シックな雰囲気と見つかりにくい場所にあるから、隠れ家のようなお店だ。
「こんちわー、店長!お久しぶっす!」
扉を開けて元気よく挨拶する。
「ん?君、誰?リョーヘイ君のお友達?」
店主である唄田猫はカウンターで新聞を読んでいた。
新聞から顔を上げて、俺と良平を見る。
だが、長い前髪で、こちらからは店長の顔は見えない。
今日もまたぼさぼさの長髪に、黒で統一された制服を着ていた。
「俺っすよ!?黒野原千秋っす!」
「あははは。冗談だよ。相変わらずアキ君は面白いね」
猫さんは立ち上がってカウンター越しに俺の頭を撫でた。
「止めてくださいよ。俺もう大学生っすよ?」
「いやーアキ君を見るとついつい撫でたくなるんだよねえ。リョーヘイ君も分かるでしょう?」
「あー分かります。こいつと近所のガキは大して変わりませんよね」
いつの間にかリョーヘイも俺の頭を撫でている。
「何いってんだ!俺の方がずっと頭いいし!つうかお前も撫でるな!」
二人に頭を撫でられるのは気持ちいいが、子ども扱いされて腹が立つ。
リョーヘイと俺は同じ歳だ。
「アキ君、新作ケーキあるんだけど試食してみる?」
にこにこと楽しげに笑いながら、素敵な提案をしてくれる。
猫さんは喫茶店を経営するほどの腕前だ。
特にデザートは絶品で有名ブランド店にも劣らない。
「いいんすか!いただきます!」
「リョーヘイ君もどう?」
「僕は甘い物はあまり」
甘味が苦手なリョーヘイは渋い顔をする。
「今回は甘さ控えめだよ」
「じゃあいただきます」
そういわれては断れなかったみたいだ。
「はーい。ちょっとそこで待ってて」
猫さんはカウンターから厨房に行った。
すぐに二つのケーキとフォークを手に戻ってきた。
緑色のケーキと赤色のケーキだった。
「ありきたりだけど緑のケーキは抹茶で赤いケーキは苺を使ってみたよ。食べてみて」
「うっわ!うまそう!俺、苺な!」
「じゃあ僕は抹茶で」
「飲み物は何がいい?」
「ホットミルク!」
「コーヒーをブラックでお願いします」
「はーい」
俺達の話を聞きながらコーヒーとホットミルクを手際よく入れてくれた。
ホットミルクの甘い匂いとコーヒーの独特の匂いがふわりと広がる。
「いただきまーす!」
フォークで一口取って口へと運んだ。
苺の酸味と生クリームの甘さが混ざりあって何ともいえないほど美味しい。
「店長このケーキ目茶苦茶おいしいっす!この苺のムースが堪らないっす!」
「抹茶ってコーヒーにも合うんですね。甘すぎなくてちょうどいいです」
「よかった。じゃあクリスマスメニューに加えるねえ」
猫さんは嬉しそうに笑った。
「これクリスマスメニューだったんですか?」
「そ。今年のクリスマスメニューのデザート。ホールケーキでもよかったんだけどね。小さい方がいいかなって」
「もし、俺らがまずいっつったらどうしたんっすか?」
感じた疑問を素直に言葉にする。
そんなことをいうことはないとわかっているけど。
「その時はまた作るまでだよ」
「へえ、店長ってすごいっすねえ」
「どのお店の努力している当たり前のことだよ。何より皆に喜んでもらえることがはすごく嬉しいんだよ」
「改めて店長ってすごいんっすね」
努力を当たり前といえる人は中々いない。
それに奢らず、さらに頑張ろうとする姿勢は見習おうと思った。
「褒めてもバイトをサボったことは許さないよ」
にっこりと微笑んだ。
猫さんが物凄く怒っているときの表情だ。
「いや、ちゃんと悪いなあと思って代わりをリョーヘイに頼みましたよ?」
「だから?」
いいわけしたことでより、心証が悪くなったようです。
目が本気ですよ。
「すみませんでした!」
俺はカウンターで謝った。
今は客が来てなくてよかった。
「今度休んだら時給700円だからね」
「それじゃあ高校生と一緒……っ!?何でもないっす!今度から休みません!」
途中で猫さんの目が一瞬光った気がした。
「じゃあリョーヘイ君、明日よろしくね」
「僕も働きますよ」
「ううん。いいよ。いいよ。予定あるでしょう?今日はアキ君をこき……働いてもらうから」
「店長、今こき使うっていいかけたッスよね!」
「じゃあ帰ります。ケーキとコーヒーありがとうございました」
「ううん。気をつけて帰ってねえ」
良平はあっさりと俺を置いて帰っていった。
親友を見捨てるなんて酷いやつだ。
「さてと、何があったの?」
「何ってなんのことっすか?」
手に持っていたホットミルクの水面が大きく揺れた。
「アキ君がバイトに来るときは暇なときか、私に悩みを聞いて欲しい時なんだよねえ。今回は後者かな」
「何でそう思うんすか?」
「だっていつもより元気ないんだもん。それに本当に笑ってない。上っ面だけの笑顔。リョーヘイ君もなんとなく気づいたんじゃないかな?」
俺は黙り込んだ。
そんなに俺は落ち込んでいたらしい。
猫さんは急かさず、優しく次の言葉を待ってくれた。
「告られました」
「誰に?」
「新にっす」
「それで?」
「それだけっす」
「付き合ってとかいわれた?」
「いや、ただ好きとだけ。俺はあいつのこと友達だと思ってたからそういう風に思ってなくて」
「アキ君はどう思ったの?」
「上手く言葉にできねえっす」
「告白されて嬉しかった?」
「最初は嬉しかったっす」
好意を向けられて嬉しかった。
こんな俺をリョーヘイも以外の人が受け入れてくれるんだと思った。
「告白されて悲しかった?」
「悲しくなったっす」
「どうして?」
「俺が女としてしかみられていなかったから」
俺の精神は男だ。
だから女だと思われると生理的に拒絶する。
「本当にそう?」
「えっ?」
「君達がどんな友人関係なのか知らないけど、少なくともアキ君は自分が性同一性障害だってことを新君にも話しているでしょう?」
俺はこくんと頷いた。
「なら新君はアキ君のことを女の子だって思ってないんじゃない?」
「思ってない?」
俺は目を見開いた。
予想外の答えだった。
だってあいつは男で、男は女を好きになるもんだろ。
それにあいつは俺から見てもすごくかっこよくて、性格がいいからほっとかない。
実際に女に囲まれているところを何度も見たことがあった。
「新君は吸血鬼だからねえ。価値観も人間と一緒だと限らないよ」
「でも俺は」
「そんな焦って答えを出そうとしなくていいよ。新君はちゃんと待ってくれるから。それに今日はお客さん来ないから帰っていいよ」
俺の言葉を猫さんは言葉を被せて、続きを閉じ込めた。
「えっ?なんでわかるんっすか?」
「第六感ってやつかな?よく当たるんだよ。だからもう今日は店じまい」
「ありがとうございます。悩み聞いてもらって俺ちょっと楽になりました。ケーキごちでした。うまかったっす」
「心配しなくても大丈夫だよ。アキ君はアキ君だから」
隠れた目で、心を見透かされた気がした。
「同じことリョーヘイにもいわれました。お疲れ様っした」
「じゃあね」
深く頭を下げて、猫さんのお店を後にした。
なんだが少しだけ楽になった。
千秋が帰って一分後、店の来店を知らせる鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
やって来たのは屋斎十真十だった。
口には細長い胡瓜をくわえていた。
「コーヒー」
「かしこまりました」
猫は悪戯っぽく笑って、恭しく頭を下げた。
「今日はバイトいないのか?」
屋斎十真十は店内を見渡した。
「トマが来る気がしたから帰らせたよ。これサービス。あんまり甘くないケーキ」
猫はコーヒーと一緒に抹茶のケーキをトマの目の前に置いた。
トマは胡瓜をぽりぽりと、手を使わずに、器用に口だけで食べた。
「お前の勘はよく当たるな。いただきます」
「今日はもう仕事終わった?」
「いや今日は後五件回る。それから組長の所だ」
「ということはまだお仕事中だねえ。なら単刀直入にいうよ、トマ。余計なことはいわなくていい」
猫はトマに指をつきつけた。
「なんのことだ?」
「アキ君のことだよ。あの子はちょっと不安定だから心配になる気持ちはわかるけどねえ……心配し過ぎるのはどうかと思うな」
「何がいいたい?」
「トマは過保護ってこと。あの子なら私達が心配しなくとも大丈夫だよ。意外に強い子だからねえ」
「分かっている」
「分かってないよ。心配しなくてもあの子には支えてくれる人がいる。命がけで守ってくれる人がいる」
「誰だそれ」
トマは眉間に深いしわをよせた。
「トマ、こわーい。お父さんみたいだよ」
猫は口元に手を当てて笑った。
「誰だ。いわねえと探すぞ」
「ヒント。トマもよく知ってる人」
トマはさらにしわを刻んだ。
「リョーヘイか?」
「違うよ」
猫は失敗したケーキを見るような目をした。
「あいつか」
トマは露骨にいやそうな顔をした。
「そう。トマが苦手な吸血鬼のあの子だよ」
家に帰りついた。
靴を脱ぎ捨て、鞄を床に置き、そのままベットに飛びこんだ。
ベットは一回だけ弾み、俺を受け止めた。
「俺はあいつのこと嫌いなのか?」
声に出して自問してみた。
答えはノーだ。
それは友達としてであって、恋愛対象じゃない。
たけど、告白されて、二つの気持ちが芽生えた。
一つは新には幸せになってもらいたい。
俺みたいな奴なんかじゃなく、もっと可愛い本当の女の子と一緒になって、一生を終えて欲しい。
もう一つは新を誰かにとられたくない。
幸せになって欲しいと思いながら、俺は新を束縛しようとしている。
それがたまらなく嫌だ。
新が俺のことを女だと思っていることよりも、ずっと、ずっと、嫌だ。
「俺はどうしたらいいんだよ」
俺は枕に顔を押し付けた。
ネット歌手とはあまり関係ないお話になりました。
次回、ネット歌手になった理由が明かされます(多分)