Episode08 みんな、いなくなっちゃった。
「ごほげほっ!」
突然、川崎さんが大きな咳をした。
いや、今の明らかに普通の咳じゃない!!
「ごほっごほっ……!」
「大丈夫ですか!?」
咳が止まない。ふらふらっと揺れ動いた身体を慌てて私が支えると、川崎さんは私をまた見上げてきた。
一瞬の間に、その顔にはすっかり皺が寄って、一気に数歳年をとってしまったみたいになっていた。
「いかん……発作が……うぉごほっ!!」
病気だと、その瞬間に悟った。きっと持病か何かがあったんだ。でもこんなタイミングで、どうして発作なんて……!
「どっ……どうしよう……! どうしましょうセンパイ……!」
這いつくばって苦しそうに息を吐く川崎さんを前に、真香ちゃんも泣きそうに顔を歪めてる。蒲田くんも似たようなもんだ。
私だって分からないよ。救急車はこんな土手には入って来れないし、近くにあるお医者さんも分からないし……!
「と、とりあえず横になりましょう! ゆっくりゆっくり、後ろに身体を傾けてください!」
「あ……あ……すまないね……」
動転してるせいか、手が震える。川崎さん、まさかこのままなんてことは……ないよね……!?
「先生!?」
後ろから鋭い声が飛んできた。
あの声、六郷さんたちだ!
「おお……君たちか……」
「藤井さん、何があったの!?」叫ぶみたいに言いながら、カメラを抱えた二人が駆け寄ってきた。そんなこと聞かれても……、
「私にも何が何だか……! 自転車を直してもらっていたら、突然……!」
川崎さんの側にしゃがみ込むと、六郷さんは苦い顔をしてみせた。
「先生は最近、心臓疾患の卦があってね。たまにこうして、発作が起きるらしい……」
「心臓疾患!?」
こんな、健康を三次元立体に表したような人が!?
「……この前、人間ドックで引っ掛かってな……」
ああ、川崎さんもうしゃべらないで。そんなにつらそうに顔を歪めてまで、しゃべらないでよ。
「人間……絶対的な健康を手に入れるのは生半可なことでは……げほっげほ!!」
「先生、無理しないでください! おい大森、確かここのすぐ近くに病院があったよな!?」
「川の向こうに、救急病院があります!」
言い出したのは、蒲田くんだった。呆気に取られる私たちを尻目に、
「案内しますよ。ちょっと遠いですけど、あそこなら大丈夫です!」
強い口調で叫ぶのは、自信があったからなのかな。
ううん、違う。横顔を見て、私は確信した。蒲田くんはただ、本気なんだ。一生懸命なんだ。
「いいのかい!?」
「はい、家もそっちの方なんで!」
よし、と六郷さんは頷く。「大森、駐車場まで走れ! 向こうのあの橋のたもとで合流するぞ!」
車で来てたの!?
「分かりました! ちょっと待っててください!」
カメラを担いだ大森さんの姿は、あっという間に土手の向こうに消える。そっか、確かにあんな大きなの抱えてちゃ自転車になんか乗れないよね。
「我々も行きましょう」
川崎さんの肩を担ぎ上げて、六郷さんはちらりと私を見た。蒲田くんはもうとっくに自転車に跨がって、向こうで待っている。
もう、みんなともお別れなんだ。
こんなに忙しなく、別れてしまうんだ。
「あの────」
何か言おうとしたけど、上手く言葉にならない。
代わりに喋ったのは、川崎さんだった。
「……そこ……に、バールがまだ落ちているだろう……?」
振り返ると、また倒れた自転車のホイールの間に、白銀色の光沢を放つモノが見えた。駆け寄った真香ちゃんがそれを取ってくると、川崎さんに手渡す。
すると川崎さんは私をまじまじと見て、
私にバールを、渡してきた。
「これは、君にあげよう。なにもしてやれそうにないが、せめてこれを使って自転車を直して……ごほっ!!」
私は泣きそうにんった。
そんな、そんな…………。
「梃子は単純な道具だが、その気になれば色んな……ことができる、代物だ。きっと、役に……立つだろう……ごほげほっ!!」
「もう、行きましょう」
背中をそっと六郷さんが押すと、川崎さんは何度も私を振り返りながら歩いていった。少し先の道路と合流する場所で、中型のバンがウインカーを光らせてる。
あっという間に、みんなはいなくなってしまった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、涼しい川の風が私の頬を撫でる。
「……自転車で、自動車をエスコートする気だったんですね。蒲田さん……」
少し呆れたような、真香ちゃんの声がする。
「一生懸命なのは認めますけど、ホントに大丈夫なのかな……」
「きっと、大丈夫だよ」
真香ちゃんの方も向かないで、私は呟いた。
私より蒲田くんの方が、ずっとオトナに見えたから。
握った冷たいバールから、静かな引力が伝わってきていた。