03/Germinal
◆三〇分まえ◆
長い回廊も、ようやく終わりが見えてきた。
窓のない、のっぺりとした金属にかこまれた白い通路。
そこかしこに張り巡らされているはずの防犯システムは、止まり木で眠る鳥のように、ひっそりと静まり返っている。
世界最高峰の信頼性をほこるセキュリティも、何重にも仕込んだ〈バグ〉のはたらきで、あと数分間は張子の虎だろう。今ごろコントロールセンターには、偽装された監視映像と生体反応が、むなしく送信され続けているはずだ。しばらくは、僕の侵入をさとられる心配はない。
やがて、厳重に閉ざされたシャッターの前にたどり着いた。
ここが、目的地をふさぐ、最後の関門だ。
僕は解錠用コンソールを取り出すと、シャッターの開閉用端末と、周波数をすばやく合わせる。
端末同士がリンクしたことを示すアラートが鳴りひびくと同時に、僕は猛然と、両指を動かした。十本の指が、別々の生き物のようにうごめきながら量子キーボードをたたくたび、暗号化を解除され、丸はだかになったプログラムが、次々と破壊され、蹂躙され、こじ開けてられていく。
三〇秒ほどで、作業は終わった。ここに着くまでに、いくつか開けてきた扉よりかは骨が折れたものの、一番の難関とされていた箇所を、想定時間よりも早く突破できたのは、運がよかった。
――〝鍵開け〟は、今日この日のためだけに身につけた技術だ。失敗は許されない。
「…………」
仕上げに、僕はポケットから〝最後の鍵〟を取り出した。
生食液に浸け込まれた〝それ〟を、容器のガラス越しに、カメラへと向ける。
〈認証完了〉
照合はすぐに終了した。最後のロックが、がちりと解除され、分厚いシャッターが静かに開いていく。
――僕たち犯罪者が、いくら技術の粋をつくして、データをでっちあげたところで、生体認証だけはお手上げだ。個人の人体を〝鍵そのもの〟にするなんて、最初に考えた人は、本当に頭がいいと思う。
僕は、用済みになった〝鍵〟を、床に放り捨てる。がしゃんとプラスチックが割れ、生食液と一緒に中身がとびちって、床に転がる。
人の眼球だ。
この研究所の、最高責任者のモノだ。――持ち主は今ごろ個室トイレで、自分の眼球よりもひと足早く、あの世へ旅立っている。
やがて、行く先を閉ざしていたシャッターが、完全に解放された。
さしたる感動もなく、僕はゆっくりと部屋に踏み入った。
――室内は薄暗く、冷蔵庫の中のように冷えていた。
高層ビルの最奥部にはふさわしくない――十メートルほどもある、高い天井。無数のコンピュータと計器類に囲まれた、角のない、円形の室内。
ごぅんごぅんと、恐竜のいびきのような重低音が、規則ただしくなり響いている。
「これが、」
そして。
部屋の中心――天井の大型ディスプレイが放つわずかな光の中で、僕は殺すべき〝標的〟の全容を、あおぎ見た。
古代神殿の柱を思い起こさせる、巨大なシリンダ状の胴体。おぞましいほどの量のコードが、黒い表面のそこかしこを、毛細血管のように這い回っている。
「これが、新型ニューロコンピュータ〈オクルス〉。
――〝自我〟をもつコンピュータ」
その威容を、あらためて見据える。
物言わぬ、巨大な金属の内部では、こうしている今も、おびただしい量の情報が行き来し、増殖し、成長を続けているのだろう。
僕は無神論者だが――もしも〝神〟という偶像が可視化したのなら、それは、このような姿なんじゃないだろうか。人の面影など残すはずもない。ただ荘厳なオブジェのような、既知の生命ではまずありえない威容。
周囲の柵をナイフで切断し、〈オクルス〉へと歩み寄る。
黒いボディの表面に、ぺたりと手をつく。温かい。室温が低く保たれているのは、〈オクルス〉本体を冷却するためなのだろう。
と。
「ごきげんよウ」
「―――!」
背後から、ふいに声をかけられた。
次の瞬間には、僕は床を蹴っていた。
身体に染み付いた習性が、思考ではなく、反射で足を動かす。
前傾姿勢になり、床を這う。
声のした方に駆け寄りつつ、人影にむかって、下からナイフを斬り上げる。
「わ、きゃ、ちょ……待っテ……っ!」
人影がとっさに飛びのく。刃先が空を切る。斬られた髪の毛が、はらりと宙を舞う。――女か。
うろたえつつ、後退する闖入者(は、むしろ僕の方だが)に、間髪いれず迫る。
ふたたびナイフを振りかぶりながら、僕はいぶかしむ。
――ここに、他の人間がいることは、ありえないのに。今まで通過してきた扉はすべてロックしてきたし、〈オクルス〉のあるこの部屋も、僕が侵入するまでは、間違いなく無人だった。
なのに、なぜ?
「――しッ!」
……疑問は、いらない。
部品が悩む必要はない。
器用にナイフを避けつづける敵の足首めがけて、コンパスで描いたような足払いを繰り出す。
「あっ!?」
ナイフばかりを警戒していたのか、敵は不意をつかれ、あっけなくバランスを崩した。
すかさず突進し、ナイフの柄を脇腹に叩き込む。あばらを砕いた感触。
後ろに吹っ飛び、床を転がる敵にすかさず駆け寄り、下半身に馬乗りになる。
「けほっ、痛――って、きゃーっ!? 待って待ってやめて、刺さないでくだサ――」
邪魔な右手をひねりあげ、息を吐くのと同時に、ナイフを振り落とした。
刃が、筋肉と胸骨の間を縫って、敵の心臓と肺に、深々と突き刺さる。
ぐちり、と肉を引き裂く、慣れ親しんだ感触が、右手に伝わってくる。
「――……」
うめき声すら上げず、絶命した敵の胸からナイフを引き抜きながら、思案する。――伏兵がいたということは、僕の侵入は、すでに察知されているのだろう。
〈バグ〉の効力はいまだ続いているはずだが、向こうにも、それなりの対策はあったらしい。
ともあれ、手遅れになる前に仕事を済ませなければ。
僕は死体から視線を切ると、ふたたび〈オクルス〉に歩み寄る。円柱をぐるりと一周し、装甲の厚さを調べる。
「――?」
ふと、違和感に気付き、僕は足を止めた。
なんだか急に、室温が上がった気がする。さっきまでは、肌寒いくらいだったのに。冷房が止まったのだろうか?
ごぅんごぅんとうるさかったはずの〈オクルス〉の稼動音も、いつのまにか、スイッチを切ったように止んでいる。これほど巨大で複雑な機械が、こんなにもかんたんに停止することなんて、ありえるだろうか?
なにか、様子がおかしい。
「……やっと、異変に気づきましタ?」
こつりと足音が響いた。穏やかな声が、僕の背中にぶつかる。
今度こそ、僕は振り返ることができなかった。
「……? どうしました、固まっちゃっテ。もう、襲ってこないんですカ?」
なぜなら。
その声の持ち主を、僕はたった数秒前に、刺し殺したはずなんだから。
「まあ、当然ですよネ。ナイフで胸を深々と突かれて、それでも生きてるヒトなんて、きっと今までで初めてでしょうシ」
動揺を押し殺し、僕はようやく背後に振り返った。
「いちおう警告しておきますけど、いくらナイフで刺したところでわたしは死にませんから、もうムダな戦闘をふっかけてくるのは遠慮してくださいネ」
――信じられないことに。
ついさっき、ナイフで心臓を貫かれたはずの少女が、すずしげな微笑みを浮かべて、立っていたのだ。
穴の空いたワンピースの胸元を、うらめしそうな顔でつまみ上げながら、彼女はふてくされたように唇をとがらせる。
「いくら死ななくったって、痛いものは痛いんですかラ。……だいたい、出会い頭に押し倒した上に、いきなりそんな物で刺してくるなんテ、女性をなんだと思っているんでス? いったいどこの暴漢ですカ、あなたは」
不機嫌そうにのたまう少女の白い胸元には、もう、傷ひとつ残っていない。ワンピースの襟元に空いた、刃の通った穴だけが、先ほどの戦闘が現実であったことを証明する、唯一の痕跡だった。
血の一滴すら、見当たらない。
「お前は」
きれいなままのナイフを、強く握りしめながら、訊ねる。
「お前は、なんだ」
なぜ、生きてる。
「強姦未遂のつぎは、人のことをお前呼ばわりですカ? もウ……戦う技術の十分の一でもいいですから、その情熱をレディの扱い方の勉強にむけることを、おすすめしますワ」
淡々としたしゃべり方のわりに、やけに軽薄な口調なのが、よけい癇にさわる。
「質問に、こたえろ」
――死なない身体――停止した空調――突如として、稼動を止めた〈オクルス〉。
はたして、どんな答えが返ってくれば、僕はこの現状を受け入れられるのだろう?
自問するが、答えは出ない。
「でハ、ご要望にお応えしまして、自己紹介を。
わたしの称号は〈ジェルミナル〉」
少女――ジェルミナルは、ぺこりと頭を下げながら、唄うような声音で名乗り上げた。
「あなたの語彙の中に、わたしの存在を明確に示す単語はありませんが――そう、あえて申し上げるなら、〝命を回収する〟者でス」
意味がわからない。
「それとも、〝死神〟とでも名乗ったほうが、あなた方には通りがいいでしょうカ」
「しにがみ」
当然のように吐き出された、メルヘンじみた単語が、僕の理解をこえ、頭の上をふらふらと浮遊する。
「なに、ふざけたことを」
「すでにご存知かと思いますガ」
僕の言葉をさえぎって、ジェルミナルはなんでもないことのように、笑顔で言った。
「あなたは、もうすぐ死んでしまいまス」
「――――」
あまりにも唐突な死亡宣告に、僕ははっとした。
……驚きは、これから死ぬという事実に対してではなく、その事実を当然のように言い当てられたことに対してのものだ。
追い打ちをかけるように、ジェルミナルは、タイプライターのように言葉をつむぐ。
「あなたの現在の偽名は、フィロス・アシモフ。十六歳。
生後間もないころ、A国の森林公園に捨てられていたところを、とある反政府活動団体に保護されル。以後は、テロリストとしての英才教育を受け、高い知能と、殺しの技術を合わせ持った活動家として、幾人もの要人を葬り去ってきタ。初めての殺人は五歳のとき。相手は政府の高官ドミニコ・グエル。
そして今日、二〇五二年三月二十日――あなたは、新型コンピュータ〈オクルス〉の破壊任務をうけ、オルディゴ研究所に侵入。仲間のセキュリティ乗っ取りに乗じて、標的の目前までたどり着き、今に至る――ト。
……これでどうでス? 死神のコト、少しは信じていただけましタ?」
ひとしきり、口上を終えたジェルミナルは、首をかしげながら、そう訊ねてきた。
一方の僕は、口を閉じたまま、疑問に思考を埋めつくされていた。
なぜ見も知らない他人が、記録など残っているはずのない僕の過去を、洗いざらい知っている? 経歴はおろか――初めて殺した人間のことまで。
髪も、服も、そして瞳まで――全身を、チェッカーフラグのような格子模様に包まれた、奇妙な少女が笑う。
――死神だと、彼女は名乗った。
それを、信じるのか?
ばからしい。
「それにしてモ」
ジェルミナルは、天井まで伸びる〈オクルス〉の全容を、首を伸ばして見上げた。白い喉が無防備にのぞく。
「こんなに頑丈そうな機械を壊さなければならないというのに、アシモフさん、あなたずいぶんと軽装ですネ?」
「――言っておくけど、爆弾なんて持っていないよ」
思わず、そんなことを口走ってしまったのは、得体の知れない彼女のプレッシャーに負けたからだ。
ジェルミナルがはたして何者かはわからないが、ここで〈オクルス〉の破壊を阻止されるのだけは、だめだ。
――それに、手ぶらなのは本当だった。ナイフと〝錠開け〟用の端末以外、今は何も持っていない。
「みたいですネ」
意外にも、ジェルミナルはあっさりと肯定した。
ひそかに安堵する僕の全身を、ジェルミナルの視線が、くまなく舐めた。
「……だっテ」
ジェルミナルは両手をうしろに回しながら、よどみなく囁いた。
「肝心の〝爆弾〟は、あなたのカラダそのものですものネ」
「――、」
世間話のような軽薄さでつむぎ出された言葉に、僕はこんどこそ息を飲んだ。
彼女は、しずかな口調で話を続ける。
「施術は四年前。あなたは体内に〝有機爆薬〟を、脳内に電気信管を、それぞれ埋め込まれタ」
絶句する僕に、少女は長い髪を指で梳きながら、こともなげに微笑みかけてくる。
「最新鋭の生物兵器――〈生体爆弾〉。
それがあなたの正体ですね、アシモフさン」
◇
〈生体爆弾〉。
進捗していく対テロ技術に抗するため、とある技術者が考案した新兵器。
一切の金属部品を排し、カルシウムに包まれた信管と、俗に〝有機爆薬〟と呼ばれる特殊な化学物質を、体内の組織と同化させる。そうすることで、あらゆるセンサーをかいくぐることに成功した、〝生きた爆弾〟である。
人の身体を媒体とする特性上、倫理面やコスト面、安定性に問題が残るものの、その圧倒的な威力は、過去の可塑性爆薬をはるかに上回っていた。
起爆は、基本的に信管装備者の任意により行われ、また、オプションを切り替えることで、装備者の死亡と同時に起爆させることもできる。
発見されることもなく、解体されることもない。ひとたび施設に潜入してしまえば、万が一撃ち殺された場合でさえ、相手に大きな被害を与えることが可能という、史上最凶の生物兵器。
いまだ初期ロットの数十体が存在するだけの、知名度の低い兵器ではあるが、需要はここ数年で確実に伸びており、数年後には大規模なマーケットも形成されるだろうと、活動家たちからは嘱目されている。
◆二十分まえ◆
「――というわけデ。あなたの命は、まもなく終わりを迎えまス」
「というわけで、と言われたって」
ひととおり、自分の役割について説明を終えたジェルミナルは、子供のように無垢な目で、こちらを見据えてくる。
いわく、ジェルミナルは、死にゆく人間が残した〝命の余剰〟を回収するための〝装置〟であるという。
過去も、素性も――ここにいる目的すら、洗いざらいに暴露された僕は、〈オクルス〉の外装にもたれたまま、肩をすくめるしかない。
目の前の事実を否定したくても、この状況が、それを許してはくれなかった。
「――だいたい、お前はどこから来たんだ」
「どこからでもありませんヨ」
しごくまっとうな僕の質問に、ジェルミナルはのほほんと答える。
「過去、現在、未来――私たちはどこにだって迎えまス。ですが、それはどこにもいない、ということと同義でしょウ?」
なぜか誇らしげに、ジェルミナルは胸を張った。
「私たちに、この世界の時間の概念を適用しようとしても、それは無意味なんでス」
「……ふぅん」
もう意味がわからない。
理解をあきらめ、僕は周囲を見回した。
ジェルミナルの声以外、まわりからはいっさいの音が失われ、凍りついたように静まり返っている。大昔の、無声映画の世界に入り込んでしまったような心地だ。
「それで」
歩きながら、僕は訊ねた。
「僕は、〈オクルス〉の破壊に、成功するんだな?」
あと数分――予定時刻になれば、僕は頭に埋め込まれた信管を起爆させて、このフロアをこっぱみじんに吹き飛ばす。
死因は、爆死のはずだ。
死神と出遭ったのは予定外ではあったが(想定外でもある)、それでも、結果が変わるわけではないのだ。
「それが、大変申し上げにくいのですガ……」
しかし、ジェルミナルはもじもじと両手を組みながら、気まずそうに両目を泳がせた。
いやな予感が、いやな寒気となって、僕の背中を駆け抜ける。
もしかして。
「――起爆に、失敗するのか?」
抑揚のない声で訊ねる僕に、ジェルミナルは一度だけ、こくりと小さくうなずいた。
「……はイ。残念ながラ」
目の前が、真っ白になるのを感じた。全身の血液が一気に氷点下を下回ったような虚無感が、身体の内側をまたたく間におおっていく。
「……初期ロットゆえの、予期せぬトラブルなんでス。信管の動作不良で、爆弾は不発に終わリ、」
憐れむようなジェルミナルの視線が、僕に向けられた。
「駆け付けた警備員によって、あなたは、蜂の巣にされてしまいまス」
「――――」
なんてことだ。頭を抱えたくなる。
あのやぶ医者――! 心の中で毒づくが、あとの祭りである。
それなら、せめて、撃ち殺される前に少しでも――
ナイフを手に、僕は〈オクルス〉へと歩み寄る。
が、いちるの望みは、次の一言によっていともたやすく打ち砕かれた。
「無意味でス。この場所は、あなたの魂を捕縛するために造り出した複製にすぎませんかラ。ここにあるものをいくら傷つけようと、現実にはなにひとつ影響を及ぼしませン」
ジェルミナルは律儀にも、手振りをまじえながら説明してくれた。
「ええと、こういう場合は、その……ごしゅうしょうさま、でいいのでしょうカ?」
腫れ物をあつかうような慎重さで、ジェルミナルはあいまいに笑いかけてくる。
「……そう」
その笑顔に、奇妙な安堵といらだちをおぼえつつ、僕は深くため息をついた。〈オクルス〉に背中をあずけ、ずるずるとその場に座り込む。
「……あのぉ、アシモフさン?」
目を閉じた僕に、ジェルミナルがひかえめな声で話しかけてきた。
「なに?」
「その……なんだか、えらく冷静ですネ?」
そんなこと言われたって、失敗が確約されているのなら、もう僕にできることは何ひとつないのだ。
もうどうにもならないのなら、おとなしく、その時が訪れるのを待つほかにない。
「ショックじゃないんですカ? 命をかけた任務なのニ」
控えめな声で訊ねてくるジェルミナルに、僕は頭をかきながら答えた。
「別に。運がなかった。それだけだろ」
失敗するのだとわかった瞬間こそ茫然としたものの、だからといって、感傷めいた気持ちが湧き上がってくることもない。驚くほど冷静に、今の状況を俯瞰している自分が、少し離れたところにいた。
「そういうものですカ……」
と、しばらくの間だまっていたジェルミナルが、ふいに声をかけてきた。
「あのぅ……ご迷惑でなければ、おとなり、座ってもいいですカ……?」
視線を上げると、ジェルミナルが僕の顔をのぞき込んでいた。
「……自分が殺した相手に、そんなことを言われたのは、初めてだよ」
彼女のワンピースの胸元に空いた、ナイフの痕を見ながら、思わず苦笑してしまう。
「殺した、ですカ。……ええ、たしかに、そのとおりですね」
ジェルミナルが、おずおずととなりに座る。
〈オクルス〉を背にして、僕とジェルミナルは、30センチほどの間隔をあけて並びあった。
彼女が身じろぎするたびに、新鮮な花弁のような、甘い匂いがただよってくる。
血や、硝煙の臭いで侵されきった僕の鼻には、彼女の匂いは優しすぎて、とても落ち着かない気分になる。
「…………」
「…………」
お互いに話すこともないまま、時間だけが過ぎていく。
わざわざ許可をとってまで、僕の隣に陣取ったジェルミナルだったが、彼女が喋り出す気配はまるでない。
僕は横目で、膝をかかえて座る彼女の横顔を、ひそかにうかがう。
動かないジェルミナルは、無機質だった。
白磁のように白い手足も、格子模様に包まれたなめらかな髪も、弓なりに伸びた長いまつ毛も、鼻筋から顎までのなだらかなラインも――ぜんぶが常軌を逸していて、作り物じみていて、まるで古代の彫像のようだ。
「あの……なにか、話さないんですカ」
その姿に見とれていると、ジェルミナルが突然、いじけたような口調で訊いてきた。
「なにかって」
えらく漠然とした不満だった。
……だいたい、僕は物心ついてからというもの、まともな人間生活なんて送ってきていないのだ。
そういう、ヒトらしい気遣いを求められたって、弱る。
「……だっテ! こんなに珍妙なモノが、今あなたの目の前にいるんですヨ? 死神ですヨっ! なにかもっと、知りたいコトとか訊きたいコトとかないんですカっ!?」
頬をふくらませながら、ジェルミナルはぷんぷんと怒り出す。さらりと自虐が混じっているあたり、本人も余裕がないらしい。
「どうして、お前が怒ってるんだ」
「あーっ、やですやですこーいうヒト! 変にニヒルぶっちゃって、そんな自分に酔っちゃうあたり、特に救いがありませンっ! ええ、構いませんとモ。そういうイタい人は、私、ぜったい看取ってあげまセーん!」
威勢よくまくしたてたジェルミナルは、ぷいと顔をそむけたきり、黙りこんでしまった。
「……せっかく、楽しみにしてたのニ」
背中を丸め、ぽつりと恨み言をつぶやく様子は、まるで小さな子供だ。死神っていうのはみんな、こんなに感情豊かな代物なのだろうか。イメージと違う。
僕は数秒間、葛藤したすえ――結局、彼女の相手をすることに決めた。
今わの際くらい、しずかに過ごしたかったが、どの道、一人きりにはなれないらしい。ヘンに気まずい思いをするよりは、なにか話していた方が楽かもしれない。
「ひとつ、教えてもらいたいことがあるんだけど」
「…………」
返事はなかったが、僕は構わず続けることにした。
どうせ、まともな答えは期待していない。
独白するように、僕はなにもない空間に向けて言った。
「僕は、人間なのか?」
要は、ヒトという生き物の、定義のハナシ。
いつからか疑問に思っていた。
生まれてから今日まで、組織の部品として生き、果てには身体まで造り変えられた僕が、一体どういう存在なのか。
人間なのか、それとも、機械なのか。
自分自身にさえ、それがわからない。
人の〝命〟を扱う役目をもった死神なら、その疑問を解き明かしてくれる――そんな気がした。
「なんです、そレ? そんなの、あなた自身にしかわからないコトでしょウ?」
自称死神は、間の抜けた表情で、僕の期待をこっぱみじんに打ち砕いた。
「……」
自分がばかだったことを自覚する。
小さく舌打ちし、ふたたび目を閉じた僕の耳に、慌てふためいた声が飛び込んでくる。
「やっ……、うそうそアシモフさんっ、やだな、もゥ! お茶目な冗談ですってバ! お願いですから、寝ないでくださーイっ!」
彼女としては、何としてでも会話をつなげたいらしい。勢い込んで詰め寄ってくるジェルミナル。
「……てゆーかですね、あなたの質問は抽象的すぎまス! ヒトとそれ以外との線引きをしたいのなら、まずは基準値をはっきりさせなくきゃ、おはなしになりませン。でショ?」
「それは、たとえば?」
訊くと、ジェルミナルは薄桃色の唇に指を当てながら考え込む。
「そうですネー……。
それじゃあ例題――あなたは、昆虫が意思を持っていると思いますカ?」
虫が? ずいぶんと、話が飛躍した気がする。
「――そりゃあ、生き物なんだから、意思くらい持ってるんじゃないのか」
生物である以上、捕食に繁殖、外敵から身を守るとき、何らかの〝意思〟がはたらくのは当然だろう。
「では、その一連の行動は、本当に〝意思〟にもとづくものでしょうカ?」
「……どういう意味?」
「実はですねぇ、昆虫の行動の多くは、外からの刺激に対する、単なる反射なんでス。特定の刺激に対して、一定方向の反応を示しているだけで、そこに個体の感情は介在していないと、一般的には言われていまス」
ソウセイ、と呼ぶらしいが、学のない僕にはあまりぴんとこない。
「でも、虫だって、エサを食べるのは空腹感があるからだし、外敵から逃げるのは、危機感がはたらいてるからだ」
それが、単なる〝反射〟で片付けられる行動だとは、どうしても思えない。
「んー……かんたんに説明するとですネー」
ジェルミナルはおもむろに、お尻を引きずってこちらに近づいてくると、僕の右手をそっととった。体温のない、陶器みたいに冷たい手だ。
「たとえば、この手に、硫酸をかけたとするでしょウ?」
「もっとソフトなたとえはなかったのか」
想像するだけで肌が粟立つ。
「男の子なんですから、がまんしてくださイ。……そしたらあなたは、まず手を引っ込めますよネ。熱いとか痛い、怖いと感じるのは、そのあとのおはなシ」
「まあ、だろうね」
硫酸である必要はあったのだろうか。
疑問は尽きない。
「ですが、複雑な脳を持たない生物の場合、その〝熱い・痛い・怖い〟というプロセスが存在しないのでス」
なるほど、今度はわかりやすい。
要するに彼らは、〝痛みや死〟を恐れているから逃げるのではなく、ただ単に〝襲われている〟から逃げているだけなのだ。
動機ではなく、機能の問題。
感情をともなわない行動っていうのは、おそらく、そういうことだ。
「じゃあ、昆虫や微生物には、〝意思〟は存在しないって?」
僕の言葉に、ジェルミナルは煮え切らない様子で目を細めた。
「ところガ。さっきから私やあなたが言っている〝意思〟や〝反射〟といった概念は、私たち知的生物が、〝言葉〟をもっているがゆえに認識できる、一方的な解釈でしかありませン。
たとえバ摂食行動。さっきまでの走性を例にとると、昆虫がエサを食べるのは、〝空腹感〟という刺激によって起こる反射行動と捉えることができますよネ」
僕はうなずく。
「しかし拡大解釈しますと、それは〝空腹〟によって発生した不快感――つまりは〝感情〟と考えることもできませんカ?」
「……なるほど。でも、それなら逆もまたしかりだろう。その理論でいうなら、人間の〝意思〟だって、複雑に折り重なった〝反射〟のカタマリみたいなものだ」
いわば、処理装置としての多様性の違いでしかない。
僕たちは、言葉によって、自分や、ほかの生物の思考や行動を〝意思〟として定義付け、それ以外の生物の行動を〝本能〟として定義付ける。
『昆虫は意思をもっていない』という仮定は、僕たち人間が〝言葉〟という概念を知っているからこそ、確立可能な考え方だ。
昆虫や動物は、みずからの行動を示すための〝言葉〟を知らない。
彼らの行動が、ただの本能によるものなのか、それとも何らかの感情を伴うものなのか。
人間は結局、それを〝言葉〟を用いてでしか、明確に示すことができない。
少なくとも、僕たちの視点では。
「そう、私たちが、他の生物と大きく異なる部分――それは、周囲や自身の事象すべてが〝言葉〟という概念に縛られ、くくられてというところでス」
つまり、意思だの本能だのという捉え方も――結局は、客観的な解釈でしかないということ。
人間は、目に見えないものに名前と意味を与えることでしか、物事を理解できないのだ。おろかなことに。
「……観測する側の、知能の有無によって、一個体の行動は、〝意思〟にも〝本能〟にもなりえる」
そして、そこに境界線なんて存在しない。
僕の相槌に、ジェルミナルはうんうんと、満足そうにうなずいた。
「その通リ。アシモフさんは、頭がいいですネ。1を教えるだけで10を理解して、それを統合しつつ、0,5くらいにまとめて出力してくれるなんて、なんだか高性能なパソコンみたイ!」
褒めているのか、けなしているのか、ジェルミナルは子供をあやすような手付きで僕の頭をなでてきた。
こそばゆくて、その手を振り払う。すると、彼女は不満そうに僕をにらみつけた。
「これで、もうちょっと癒し成分があれば、一家に一台モノなのニ……」
ぶつくさと文句をたれていたジェルミナルの目が――ふと、空虚なひかりをたたえた。
「……そう考えると、〝意思〟なんてモノは、その個体に内包されているのではなく、観測する側の思考の中に、外因的に発生するだけの、幻想なのかもしれませんネ」
「かもしれないって」
命を扱っているクセに、ずいぶんピントのずれた言い回しをする。
呆れる僕に、ジェルミナルは柔和な笑顔を向けてきた。
「ええ……意外と、あいまいなものですヨ。
人間と、それ以外の生き物の境界線なんテ」
◆十分まえ◆
〝意思〟と〝知恵〟は、どこまで機械で再現することができるのか。
それは、過去から現在にかけて、幾人もの科学者たちが立ち向かってきた、永遠の命題だ。
――この〈オクルス〉も、彼らのひたむきな情熱から生み出された産物の一つである。
開発したのは、さきほど僕が殺害した、オルディゴ研究所のリナイゼ博士を筆頭とした、研究チーム。
現時点において、〝生命の再現〟という境地に、もっとも近い高性能コンピュータ。
大脳皮質を完全再現したプログラムを基板に、メモリ空間に膨大な数の擬似神経細胞を構築し、増殖をうながすことで、人の脳機能を限りなく本物に近いかたちでシミュレートすることに成功している。
秘匿性の高い研究であり、〈オルクス〉に関する情報は、民間にはいっさい流れてはいない。
〈オクルス〉の存在と開発目的を知るのは、少人数の開発チームと、出資者である国家機関――そして、一部の軍事関係者のみである。
◇
「あの、アシモフさン」
前を向いたまま、ジェルミナルはぽつりと、つぶやくように言った。
「あなたは、どうして〈生体爆弾〉なんかになったんですカ?」
今さら、それを訊くのか。
可笑しくて、僕は苦笑する。
「ジェルミナルは、僕のことを何でも知ってるんだろ?」
そういう〝機能〟なのだと、彼女はさっき語った。
彼女は、ただ知ろうと思うだけで、対峙した人間の人生がわかるという。
出会いがしら、闇に葬られたはずの僕の経歴を、ぴたりと言い当てたときのように。
「もう……さっき、言ったばっかりでしょウ」
ジェルミナルは、三日月のような半眼で、じろりと僕をにらんだ。
「私がどれだけあなたのコトを知っていたとしても、それは私の主観にすぎませン。昆虫専門の学者と同じで、ただ知識をもっているだケ。昆虫のキモチなんて、わかりっこありませんヨ」
それだけ言うと、ジェルミナルは真摯な面持ちで、こちらをじっと見つめてきた。
「……別に。そうしろって言われたから、そうしただけだよ」
まっすぐ前を見たまま、僕はありのままを告げた。
「ただの機械の部品が、改造をこばんで、何になるっていうんだ」
「無茶な手術で、命を大幅に削られてしまったのニ?」
「寿命を気にする爆弾なんて、いないだろ」
もとより、使い捨てを前提にした兵器だ。
ジェルミナルは「言われてみれば」といった表情になったあと、くすくすと笑った。
「あなたは、本当に、根っからの〝部品〟なんですネ」
そう言って、ジェルミナルは、背中にある〈オクルス〉の表面に、そのたおやかな指を這わせた。光沢のある外装に、彼女の精密な横顔が映り込む。
「……こんな、つまらない物を壊すために、人生を投げ打ってしまうなんて――もったいなイ」
なんと、世界でもっとも価値のあるコンピュータを〝つまらない物〟呼ばわりである。
なまじ死神になってしまうと、物の価値観まで変わってしまうのだろうか。……当然か。物に依存するような環境では、なさそうだ。
「ジェルミナル」
「はイ?」
「この〈オクルス〉の存在が、なぜA国内でここまで厳重に秘匿されているのか、知ってる?」
なんとなく、僕は訊いてみた。
なにせ、人間の脳と同等か、それ以上の処理能力をもつ超高性能コンピュータだ。
大々的に発表すれば、〈オクルス〉の技術革新から生み出される経済効果は、はかりしれないものになるはずなのに。
ジェルミナルはしばらくだまっていたが、やがて、床を見つめたまま、口を開いた。
「――軍用兵器。〈オクルス〉本来の運用用途は、軍用無人機や弾道ミサイルの、自律制御システムでス」
さもありなんというべきか。
ジェルミナルは考え込む様子もなく、ぴたりと真相を言い当てた。
「自ら思考・判断する人工知能は、従来のジャミングや想定外のトラブルに強く、遠隔操縦機よりもはるかに高い精度での機体操作を実現させまス。
……〈オクルス〉を開発したA国は、技術力と資源に恵まれている代わりに国土が狭く、兵士の数が不足していまス。周囲の国と、長きに渡る軋轢をかかえ、抑圧され続けてきたA国にとって、いくら撃墜されたところで替えのきく〈オクルス〉は、おあつらえ向きの〝兵士〟でしょうネ」
組織が数年かけて、ようやく暴き出した自国の機密を、ジェルミナルはあっさりと放言してのけた。
リーダーが聞いたら、卒倒しそうだ。
「〈オクルス〉が配備されれば、A国は即座に行動を起こすでしょウ」
ジェルミナルが、顔を上げた。格子模様の奇妙な瞳が、僕の方を向く。
「そして――それをさせないために、あなたはここへ来タ。技術の流出を恐れた政府は、〈オクルス〉の設計図をどこにも残していませんから、実物を破壊してしまうのが、一番手っとり早いですものネ」
その通りだ。
――今ごろ各地では、開発にたずさわった研究者たちが、仲間たちの手によって次々と処理されているはずだ。
主だった開発者が死亡した今、あとは本体さえ破壊してしまえば、〈オクルス〉の存在は闇へと葬り去られるだろう。
――結局、最後の仕上げで、肝心の僕が失敗してしまったわけだけど。
「この数年で、アシモフさん達が相手にしてきたのは、武力を是とした、過激派の勢力だけでしタ。あなた達の組織の戦いは、戦いを止めるための戦いだっタ。あなたは、そのために〈オクルス〉を――」
「買いかぶりだよ。そんな大義名分、僕にはない」
僕ははっきりと言う。
「それが僕の存在意義なら、僕はだまって、受け入れるしかなかったんだ。壊す対象が、〈オクルス〉だろうと、人間だろうと、僕はなんでもよかった」
生まれてから今日まで、ひたすら、殺すための道具としてあり続けてきたのだ。
そこに特別な感慨はないし、自分の境遇を不幸だとも思わない。駆け抜けるような生涯は、僕に悩むような時間を与えてなどくれなかった。
口をつぐむジェルミナルから目を逸らし、僕は矢継ぎ早に続けた。
「さっきジェルミナルに訊いたこと、あるよな」
「あなたが、人間かどうかっテ?」
「今なら、答えがはっきりわかる気がする。
――やっぱり僕は、人間じゃない」
断言した。
自分が何者であるかは、自分にしかわからない。他人の主観に、意味はない。
――ジェルミナルが教えてくれた現実は、たぶん、何よりも正しいのだと思う。
全てをかけた任務が、失敗したというのに。
僕はこれから、無惨に死ぬというのに。
想いも、願いも、憂いも――本当に、何の感情も、湧いてこない。
そんなのは、やっぱり、人間なんかじゃないだろう。
「……あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうネ」
ささやくようなジェルミナルの口調は、どこか醒めていて、僕の胸にちくりと刺さる。
得体のしれない不快感だった。
「なぁ。ジェルミナルは――もともと、人間だったんだろ?」
生じた空白を埋めるため、僕は手の中のナイフをもてあそびながら言った。
「生きてたころは、どんな女の子だったんだ?」
特に、意図のある質問ではなかった。
ジェルミナルは両手の指を組み合わせながら、少しのあいだ悩むそぶりを見せた。
「……私も、アシモフさんと同じですヨ」
長く伸びた毛先を指先でいじりながら、ジェルミナルは自嘲げに目を細めた。
「僕と同じ?」
「私も、私自身が何者なのか知らないまま、死んでしまって――気付いたら、こんな身体になっていましたかラ」
私たち、なかまですねぇ、と無邪気な笑顔を浮かべるジェルミナル。
「それ以上は、ヒミツでス」
鵜呑みにはできない発言だった。ころころと、目まぐるしく表情を変えるジェルミナルは、世間の毒気を知らない、良家のお嬢様といった風情だったから。
だけど――彼女の浮かべる笑顔の裏に、ときおり残像のように現れる空虚さは、なんなんだろう?
答えあぐね、黙り込んだ僕を、ジェルミナルはしばらくのあいだ、じぃっと見つめていた。
と。
「あの……アシモフさンっ」
何の前触れもなく、ジェルミナルが勢いよく立ち上がった。
「残り時間もあと数分ですし、最後に、私と賭けをしませン?」
「――は……?」
何の脈絡もなく、ジェルミナルはそんな提案をしてきた。
うろたえる僕にかまわず、ジェルミナルは両手をひろげながら言う。
「今から、かんたんなクイズを出しまス。もしも、アシモフさんが答えられれば、」
「ちょっと、待て。僕はやるなんて、」
僕の制止を無視して、ジェルミナルは口早に告げた。
「――少しだけあなたの因果をいじって、信管が正常に作動するよう、細工してあげまス」
「――、え」
「悪い話じゃないでしょウ?」
彼女の提案に、僕は自分の耳を疑った。
因果をいじる。信管が、直る。
〈オクルス〉を――破壊できる?
そんなことが、はたしてジェルミナルにできるのだろうか?
僕の顔色が変わったのを見て取ったジェルミナルは、ゆっくりと歩き、そして僕の正面に佇んだ。
スカートをひるがえしながら、僕の方に振り向き、胸元に手を当てる。
「チャンスは一度。勝っても負けても、やり直しはありませン。じゃあいきますヨ?」
ジェルミナルは小さく息を吸うと、唄うようにささやいた。
「ヒトの〝魂〟は――いったい、何に宿っていると思いますか?」
魂の、在り処。
「言い換えれば、〝人間としての定義〟でス。……はたして、アシモフさんにわかるでしょうカ?」
口元にいじわるな笑みを貼りつけ、ジェルミナルは腕を組んだ。
「それ、本当に答えはあるのか?」
「もちろン。――わたしを誰だと、思っているんでス? 生命を扱う私が、その寄る辺となる魂について、知らないはずがないでしょウ?」
不敵な口調は、挑発しているようにも、応援しているようにも聞こえる。僕は目を閉じ、思考を研ぎ澄ませる。
以前〝仕事〟を終えたあと、ターゲットが持っていた小説に目を通したことがあった。なんてことのない好奇心。その時に見た一文が、ふと思い浮かんだ。
『人間の魂は、もって生まれた〝人格〟に宿っているのか、それとも〝記憶〟に、依存しているのか』
生まれ持った〝魂〟そのものが、人間としての証なのか。
それとも、人間としての日々を送っていくことによって、〝魂〟が形成されていくのか。
ずいぶん前の話だが、その日一日、ヒトの自我について、本気で悩んだことを憶えている。
……もっとも、翌日には興味を失い、本ごと、ごみ箱にすててしまったけれど。
――まさか今になって、もう一度、そんなものに思いを馳せることになるなんて。
一分ほど悩んだすえに――僕は、自分の中で導き出した答えを口にした。
「〝記憶〟」
他人にはあって、僕にはないもの。
正確にいえば、積み重ねた〝ヒトとしての経験〟。
たとえば、狼に育てられた子供がいたとする。その子供は、もはや人間とは呼べないだろう。その子供には、人間としての経験値が存在しないのだから。
人間のカタチに生まれただけで、人間として生きられるとは限らない。僕たちは、在り方次第で、獣にも道具にもなれる。
「…………」
僕は床に座ったまま、唇を引き結んでジェルミナルの返答をまつ。心臓が、どくんと、高鳴るのがわかった。
「アシモフさん」
しばらくのあいだ床を見つめていたジェルミナルは、やがて、顔を上げて言った。
「……残念ですが、不正解でス」
ジェルミナルの声は、思いのほか空虚にひびいた。
「そっか」
肩をすくめる。なぜだろうか、悔しいとは思わなかった。
「……で、正解は?」
あらためて訊ねると、ジェルミナルは、いたずらがバレた子供のような、無邪気な笑顔で言った。
「魂始めから、どこにも存在しませン」
は。
なんだって。
「だって機械じゃあるまいですし……そもそも、生き物を形作る要素のひとつひとつを、分解して、個別に捉えて考えることの方が、おかしいって思いませんカ?」
そうだけど。
「……でも、答えはちゃんとあるって、お前」
「答えがないのも、立派な答えでス。だいたい、さっき、さんざん話したでしょウ? 意思だの本能だの、言葉をもつ人間が無理やり定義づけただけの概念にすぎないっテ。
魂だって、例外ではありませン」
こつこつと靴音を立てながら、ジェルミナルは〈オクルス〉の周りをゆっくりと回る。一周して、僕の正面に戻ってくる。満面の笑顔。
「残念でしたネ」
「……まあ、いいさ」
結局、埋め込まれた信管が不良品だっただけのことだ。それを、ジェルミナルがどうこうする責任なんてない。
不可抗力だ。撃ち殺されるのなら、仕方ない。今まで、僕は他人にたいして、同じことをしてきたのだから。
「現実を曲げてもらってまで、どうこうする問題じゃない」
「あ、――えート」
しかし。
「えへへ……それがその、すみませン。さっきのアレ、ウソでス」
「え?」
ジェルミナルは気まずそうに片手を上げた。
「私たちに、まだ生きてるヒトの因果に干渉する権限なんて、ありませんかラ」
「…………」
すました顔で告げるジェルミナルだが、不思議と怒りは湧いてこない。
いくらなんでも、動作不良を起こした信管を直してもらえるだなんて、都合が良すぎると思っていた。
「いいよ……なんとなく、わかってた」
これでいい、と思い直す。
別に、〈オクルス〉が憎いわけでも、過激派が憎いわけでもない。仕事がひとつ失敗した。それだけだ。
「あ、いえ、そっちじゃなくテ……」
「そっちじゃないって、何が?」
ジェルミナルは、問い詰められる子供のように目を逸らしながら、とんでもないことをのたまった。
「いえ、ですから、ウソなのは最初のアレなんです。信管が作動しなくて、爆発しないっていうのが、実はそノ……ウソなんでス……」
「――――は」
耳を疑う。
こいつ今、何て言った。
「――ぷっ! あははっ、だってアシモフさん、きれいに騙されてくれるんですもン! 私も楽しくなっちゃって、つい遊んじゃいましたよゥ」
人の生死で遊ぶな。職権乱用だ。
もはや怒りの言葉すらわいてこない僕を尻目に、ジェルミナルは腰に手を当てて言った。
「……ですから、安心してくださイ。あなたの、一世一代の自爆テロは、きちんと成功いたしまス」
「お前……信じられない……」
これから死ぬ人間に対して、こいつは今までも、こんなたちの悪い冗談を突きつけてきたのだろうか?
今度こそ、全身から力が抜けるのがわかった。ずるずると背中から滑り落ちる。
「えへへ、怒らないでくださいってバ。いいじゃないですかー、騙されてガッカリするウソよりも、騙されて安心できるウソの方が良心的じゃないんですカー」
これから死ぬ人間をだましてる時点で、悪質すぎる。
「と、こんなことしてる間に、いつの間にか時間がせまっているわけですガ……」
誰のせいだ。
「や、やだナー。顔が怖いですってバ」
ジェルミナルは、くるりと僕に向き直った。
「――さて、残念ながらクイズには不正解でしたガ」
もったいぶるように間を置いたあと、彼女は活き活きとした声で言った。
「敢闘賞ということで、生前の私のことを教えてあげましょウっ!」
「……………………」
短い時間だが、ジェルミナルと過ごしてわかったことがある。
こいつはいつでも、脈絡がない。
「さっき知りたがってましたもんネー? 〝生きてたころは、どんな女の子だったんだ?〟なんテ。もうっ、そんな露骨な好意をむけられてしまうとー、さすがの私もー、照れてしまうというカー……」
最初のウソが強烈すぎて、そんな疑問は朧の彼方へと消え失せていた。
がぜん勢い込むジェルミナルに、僕は言った。
「訊くのは、やめとくよ」
「え……?」
ジェルミナルの表情がこわばる。
こうして、目の前で生きて、動いて、笑っていても――やはり彼女は、死人なのだ。
これから死ぬ僕が、死人の何かを聞いたところで、それはあまりに無意味で、むなしいことのような気がした。
「だから、いい。言わなくて」
「……、でモ」
ジェルミナルは、置いて行かれた子供のような、寂しそうな表情を浮かべた。
「――いいえ。やはり、聞いてほしいんでス。だってあなたは、すでに生前の私と出逢っていますかラ」
その告白に、僕は目を見開いた。
――今、ジェルミナルはなんて言った。
「さっきまでは、名乗るつもりなんて、なかったんでス。本当ですヨ?」
自嘲めいた、弱々しい笑顔だった。
「だけど――やっぱり、あなたと出逢ってお話をして――アシモフさんにだけは、知ってほしくなったんでス」
――記憶にない。
僕は組織の人間としか、面識らしい面識はないし、〝仕事〟で殺した人間の顔もすべて憶えている。
だけど、そのいずれにも――ジェルミナルと同じ容姿の女の子なんて、いなかった。
僕は息を飲み、おそるおそる、訊ねた。
「お前は……誰だ?」
「ありがとウ――」
ジェルミナルは、両手でスカートをつまみ上げ、膝を曲げて、上品におじぎをした。
チェック模様のワンピースが、ふわりと揺らぐ。
「私の、生前の名前は――〈オクルス〉」
無音の世界に、その告白は思いのほか、はっきりと響き渡った。
「私は、あなたに壊されましタ」
◆3分まえ◆
〝過去、現在、未来――私たちはどこにだって迎えまス。ですが、それはどこにもいない、ということと同義でしょウ?〟
〝私たちに、この世界の時間の概念を適用しようとしても、それは無意味でス〟
最初に会ったとき、ジェルミナルはたしかに、そう言っていた。
――時間が、ねじれていたのか。
未来に破壊されたジェルミナルは、〈死神〉となって時間を超える力を得、そして――僕の〝生命〟を回収しに来たのだ。
なんてことだろう。
「ただのデバイスに過ぎなかった私が、その処理能力を、〝自我〟とみなされ、あなたの爆弾によって吹き飛ばされる直前に、〈ジェルミナル〉の称号を引き継いだ――今思えば、先代さんの気まぐれだったのでしょうネ」
ジェルミナルは目を閉じる。ゆるやかな身体のラインが、薄闇の中で浮き彫りになる。
「あなたはさっき、言いましたよネ。自分は、人間ではない、っテ」
「……ああ」
生物学的に人間として生まれただけの、空虚なにせもの。
「それなら――もともと人間でさえない私は、いったい何者なのでしょうネ?」
僕の正面に佇んだまま、泣いているような、すがるような、悲壮な声で、ジェルミナルは訊ねてくる。
「――僕には」
拳を強くにぎりしめ、僕は口をつぐんだ。
ジェルミナルの疑問に対する答えも、ジェルミナルの運命を嘆く権利も、僕は持ち合わせていなかった。
だから、代わりに決意した。
「ジェルミナル。僕が死ぬまで、あとどれくらい時間がある?」
「え……はい、あと三分ほどですけど――それガ?」
それなら、まだ時間はある。
「僕を、いそいで元の世界に、戻してくれ」
格子模様の瞳を見据え、言った。
「え、あの、どうしたんです、いきなリ」
慌てふためくジェルミナルに、僕は詰め寄った。
「……このフロアから、今すぐ離れれば、もしかしたら〈オクルス〉は無事に済むかもしれない」
〝有機爆薬〟の爆圧は凄まじい。今さら離れたところで、爆発の余波は、間違いなく〈オクルス〉を巻き込むだろう。
それでも、助けたかった。
彼女が無事でいられる可能性がわずかでもあるのなら、それに賭けてみたいと思った。
初めて、殺したくないと思った。
不合理な思考。不条理な行動だと、自分でもわかっている。理解に苦しんでいる。
なのに、なぜ、今さらになってそんなことを思ったのか――その理由だけが、スプーンですくわれたみたいに、ごっそりと空白になっていた。
「あのぉ……なにか誤解してるみたいですけド、私べつに、あなたを恨んでるわけじゃありませんヨ?」
ジェルミナルは、はつらつとしたウサギのような面持ちで、はにかんだ。
「アシモフさんが考えてるほど……私、深刻に考えてませン。どんな姿になったって、私は私ですし……それニ――」
ジェルミナルは、月の泉のような、澄んだ笑顔を浮かべる。
「それに、だから、自分を殺した相手にむかって、変だって思われるかもしれないですけど――アシモフさんには、私、感謝してるんでス」
「感謝って」
僕は立ち上がる。
「――どうしてッ」
気付けば、肩をふるわせて、叫んでいた。
彼女は狂っている。
やはり〈オクルス〉は、まぎれもなく生命をもっていた。だからこそ彼女は、〈死神〉になれたのだ。
「僕は――今まで、他人の生命を奪うことに、抵抗を感じたことなんて、一度もなかったんだ」
殺した相手は、すでに生きていないから。
自分の存在を認識できなくなった者に、いくら罪の意識を感じたところで、それはただの偽善だから。
だけど、彼女は今、こうして存在している。僕に殺されたあとも、確固として、ここに立っている。
死んだあとも生き続けて、ひたすら他人の生命を刈り取り続けるなんて、そんなのは、ただの地獄だ。
だというのに、ジェルミナルは恨み言ひとつ、ぶつけてはくれない。
「でも私……こんな穴ぐらみたいなところから、ヒトを殺すための機械をあやつるよりも――こうして、色々なヒト達と出逢って、話をして、その〝生命〟の終わりを看取ってあげることのできる今の方が、好きですヨ?」
「でも、それは……結果論じゃないかッ!」
僕が、彼女にしたことは変わらない。
ヒトを殺すための機械として、無感情なままでいられたはずのジェルミナルを、僕は永遠の地獄に引きずり込んだのだ。
「だから、せめて――!」
「……ああもう、めんどくさイっ!」
声を嗄らす僕を、ジェルミナルは大声で一喝した。
「男の子のクセに、うじうじうじうじ女々しいったラ!」
威勢のいい声が、円形のフロアの中に反響した。ジェルミナルは靴音を立てながらこちらに歩み寄り、僕の顔を至近距離でのぞきこんだ。甘い匂いが、鼻をつく。
「――ええ、この際、もうはっきり言いましょウ! あなたみたいなボクネンジンは、真正面から言わないと一生わかってくれないに決まってるんでス……!」
「な、何を……」
ジェルミナルの視線に、真正面から射ぬかれ、僕は思わず後ずさる。
「だから、……、そノ……」
大きな瞳を落ち着きなく泳がせながら、ジェルミナルはもじもじと両手の指をからませる。
「……ありていに言うとですね、あノぅ……」
白磁のように白かった彼女の頬が、みるみるうちに、紅色に染まっていく。
「……ただの機械だった私に。
〝生命〟と触れ合うきっかけをくれた、あなたニ――」
ジェルミナルの華奢な手が、迷子の子供のように、僕の服のすそを、つかんだ。
そうして、彼女は、
「私を殺したあなたに。
――私は、恋をしたのでス」
今にも消え入りそうな声で、ささやいた。
恋?
……意味がわからなかった。
「だから、一度だけでも、少しだけでもいいから――実際に逢って、こうしてお話をしてみたかったんでス」
少女の発した一言は、僕にとって、宇宙の向こうの遠い天体よりもずっと、遠く理解の及ばない感情だった。
「……わからない。ジェルミナルの考えてることが、これっぽっちも」
首を横にふり、僕はなんとか、自分の心情を告げた。
「本当に、わからないんですカ?」
いぶかしむようなジェルミナルに、僕は声もなくうなずく。
「……でもアシモフさんは、私を殺したくないって、そう言ってくれタ」
僕の服をつかんだジェルミナルの手に、ぎゅっと力がこもった。
「それなら、あなたはとっくに、答えを握り締めていると思うん、でス」
それとも、それは都合のいい、私の勘違いでしょうか? ――そう付け加え、ジェルミナルは、舌を出して笑った。
その笑顔を、ぼんやりと見つめながら、ふと気付く。
道具に対して、笑顔というものを向けてくれたのが、後にも先にも――ジェルミナルだけだったことに。
彼女は、この僕に笑いかけてくれて、手で触れてくれて、想いを告げてくれて。
……そうして、こんな僕と、人間の話をしてくれた。
「……ああ、そうか」
今さらのように自覚し、僕はようやく、ひとり納得した。
これが―――恋か。
ジェルミナルの手には、いつの間にか、無骨な銃が握られていた。
あざやかな白銀にいろどられ、グリップの部分に時計と歯車の意匠をほどこされた、一挺のリボルバー。
ジェルミナルは慣れた手付きで撃鉄を引き起こすと、その銃口を、音もなく僕の胸に据えた。
「……知っていますか? 今からたった数十年まえは、ネズミの脳の、たった半分の機能をコンピュータで再現するのが、やっとだったらしいですよ」
「……想像できないな」
「あなたが〝自分〟を信じて、それを認めてくれるヒトが一人でもいるのなら――あなたはきっと、人間でス。魂なんて、必要ない。
そういうものだと、思いますヨ」
「……ああ」
ジェルミナルの、最後の定義に、僕は一度だけ、大きくうなずいた。
「そうだと――いいよな」
どこか満ち足りたような気持ちで、僕は、そのやさしい銃声を聴き届けていた。
-いま、げんざい-
「あっ、ミナ先輩、おかえりなさーいっ!」
仕事を終えて聖域に戻った私を、ひさしぶりの笑顔が出迎えてくれた。
「……あら、ヴィオさン? お久しぶりですネ。お叱りはうけましタ?」
「ええ、それはもう、たっぷりと……。ようやく現場復帰ですよぅー」
はつらつとした笑顔を浮かべながら、ヴィオさんは慣れた手つきで、私の分の紅茶をそそいでくれた。
「ありがとうございまス。……おひとりですカ?」
テーブルには、ヴィオさん以外誰もいない。珍しいこともあるものだ。
「さっきまで、ヴァン先輩がいたんですけど……入れ違いになっちゃいましたねー」
椅子に座り、あたたかいカップを手にとって、一息つく。
私はふと、訊いてみた。
「あの……ヴィオさんは、失恋した経験ってありますカ?」
「……へっ?」
クッキーをくわえた姿勢のまま、ヴィオさんは、ぱちぱちとまばたきをする。
「あ、えっと、その――深く考えないでくださいネ。もしも経験があるなら、そのとき、ヴィオさんはどんな気持ちだったのかなーって、なんとなく気になっテ……」
とたんに、ヴィオさんの顔がみるみる、りんごみたいに紅く染まっていく。クッキーが床に落ちたのに、見向きもしない。
もしかして、地雷を踏んだのだろうか、私は。
「あの……もしアレなら、聞き流してくれてモ……」
いたたまれなくなった私が言うと、ヴィオさんは慌てた様子で、首をぶんぶんと横にふった。長い髪が振り乱れる。
「あっ、いえいえ! そうじゃなくって……ミナ先輩からそんなこと聞かれると思ってなくって、つい不意をつかれてしまったというか……っ!」
落ちたクッキーを片付け、ヴィオさんはふたたび椅子に座り直した。
「失恋、ですか。んー、そうですねぇ……」
ヴィオさんは、ガラス張りの天井を見つめながら、少し舌足らずな声で言った。
「私の失恋は、とっても優しくて――でも、胸にぽっかり穴が空いたような。なんだか、不思議なきもちでした」
大切な宝物を、ていねいに取り出すような、おごそかな声で、ヴィオさんは微笑んだ。
「でも、私は、トモくんがしあわせになってくれればそれでいいかなー……って、何言ってんの私!? こ、こんなありきたりな表現、ぜんぜん参考になりませんよね……? えへへ、国語は昔から苦手なんですよぅ」
語り終えてから恥ずかしくなったのか、弁解するようにまくしたてるヴィオさんを尻目に、私はしばし、停止していた。
「胸に、穴」
その表現に思い当たりがあって、私は、自分の胸元に視線を落とした。
――チェック模様のワンピースの胸元に、小さくて細長い穴が空いていた。彼に刺されたときに残った、ナイフが通った跡。
「……そうですカ」
その、ちっぽけな穴を、私は指先で、そっとなぞった。
「私も……その気持ち、わかるような気がしまス」
ずっと向こう――もう二度と逢えない場所へと旅立ってしまったひとに、私は想いを馳せる。
こういうとき、もしも私が人間だったのなら、涙を流すことができたのだろうか?
〝あなたが〝自分〟を信じて、それを認めてくれるヒトが一人でもいるのなら――あなたはきっと、人間でス〟
彼の前では、ああ言ったけれど。
けれど、やっぱり、私は所詮――造り物なのだろうか。
「あ、あの……先輩?」
顔を伏せたまま、黙りこんでしまった私を心配したのか、ヴィオさんがおずおずと近寄ってくる。
遠慮がちに伸ばされた手を、私は衝動的に、引き寄せていた。そのまま小さなの胸の中に、顔を埋めた。冷たいけれど、柔らかい。――私のような造り物じゃない、本物の生命の感触。
「先輩……?」
彼女はしばらくの間、困惑していたが、やがて、私のことを、強く抱きしめてくれた。
鼓動も体温もない、カタチだけを繕った私たちの躰。
そこに、魂は宿っているのだろうか。
いつの日か、わかる日がくればいいなと、ぼんやり思った。
《La fin》