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03/Germinal

作者: ついへいじ

 ◆三〇分まえ◆


 長い回廊も、ようやく終わりが見えてきた。

 窓のない、のっぺりとした金属にかこまれた白い通路。

 そこかしこに張り巡らされているはずの防犯システムは、止まり木で眠る鳥のように、ひっそりと静まり返っている。

 世界最高峰の信頼性をほこるセキュリティも、何重にも仕込んだ〈バグ〉のはたらきで、あと数分間は張子の虎だろう。今ごろコントロールセンターには、偽装された監視映像と生体反応が、むなしく送信され続けているはずだ。しばらくは、僕の侵入をさとられる心配はない。

 やがて、厳重に閉ざされたシャッターの前にたどり着いた。

 ここが、目的地をふさぐ、最後の関門だ。

 僕は解錠用コンソールを取り出すと、シャッターの開閉用端末と、周波数をすばやく合わせる。

 端末同士がリンクしたことを示すアラートが鳴りひびくと同時に、僕は猛然と、両指を動かした。十本の指が、別々の生き物のようにうごめきながら量子キーボードをたたくたび、暗号化を解除され、丸はだかになったプログラムが、次々と破壊され、蹂躙され、こじ開けてられていく。

 三〇秒ほどで、作業は終わった。ここに着くまでに、いくつか開けてきた扉よりかは骨が折れたものの、一番の難関とされていた箇所を、想定時間よりも早く突破できたのは、運がよかった。

 ――〝鍵開け〟は、今日この日のためだけに身につけた技術だ。失敗は許されない。

「…………」

 仕上げに、僕はポケットから〝最後の鍵〟を取り出した。

 生食液に浸け込まれた〝それ〟を、容器のガラス越しに、カメラへと向ける。

認証完了(アクセプト)

 照合はすぐに終了した。最後のロックが、がちりと解除され、分厚いシャッターが静かに開いていく。

 ――僕たち犯罪者が、いくら技術の粋をつくして、データをでっちあげたところで、生体認証(バイオメトリクス)だけはお手上げだ。個人の人体を〝鍵そのもの〟にするなんて、最初に考えた人は、本当に頭がいいと思う。

 僕は、用済みになった〝鍵〟を、床に放り捨てる。がしゃんとプラスチックが割れ、生食液と一緒に中身がとびちって、床に転がる。

 人の眼球だ。

 この研究所の、最高責任者のモノだ。――持ち主は今ごろ個室トイレで、自分の眼球よりもひと足早く、あの世へ旅立っている。

 やがて、行く先を閉ざしていたシャッターが、完全に解放された。

 さしたる感動もなく、僕はゆっくりと部屋に踏み入った。

 ――室内は薄暗く、冷蔵庫の中のように冷えていた。

 高層ビルの最奥部にはふさわしくない――十メートルほどもある、高い天井。無数のコンピュータと計器類に囲まれた、角のない、円形の室内。

 ごぅんごぅんと、恐竜のいびきのような重低音が、規則ただしくなり響いている。

「これが、」

 そして。

 部屋の中心――天井の大型ディスプレイが放つわずかな光の中で、僕は殺すべき〝標的〟の全容を、あおぎ見た。

 古代神殿の柱を思い起こさせる、巨大なシリンダ状の胴体。おぞましいほどの量のコードが、黒い表面のそこかしこを、毛細血管のように這い回っている。


「これが、新型ニューロコンピュータ〈オクルス〉。

 ――〝自我〟をもつコンピュータ」


 その威容を、あらためて見据える。

 物言わぬ、巨大な金属の内部では、こうしている今も、おびただしい量の情報が行き来し、増殖し、成長を続けているのだろう。

 僕は無神論者だが――もしも〝神〟という偶像が可視化したのなら、それは、このような姿なんじゃないだろうか。人の面影(カタチ)など残すはずもない。ただ荘厳なオブジェのような、既知の生命ではまずありえない威容。

 周囲の柵をナイフで切断し、〈オクルス〉へと歩み寄る。

 黒いボディの表面に、ぺたりと手をつく。温かい。室温が低く保たれているのは、〈オクルス〉本体を冷却するためなのだろう。

 と。


「ごきげんよウ」


「―――!」

 背後から、ふいに声をかけられた。

 次の瞬間には、僕は床を蹴っていた。

 身体に染み付いた習性が、思考ではなく、反射で足を動かす。

 前傾姿勢になり、床を這う。

 声のした方に駆け寄りつつ、人影にむかって、下からナイフを斬り上げる。

「わ、きゃ、ちょ……待っテ……っ!」

 人影がとっさに飛びのく。刃先が空を切る。斬られた髪の毛が、はらりと宙を舞う。――女か。

 うろたえつつ、後退する闖入者(は、むしろ僕の方だが)に、間髪いれず迫る。

 ふたたびナイフを振りかぶりながら、僕はいぶかしむ。

 ――ここに、他の人間がいることは、ありえないのに。今まで通過してきた扉はすべてロックしてきたし、〈オクルス〉のあるこの部屋も、僕が侵入するまでは、間違いなく無人だった。

 なのに、なぜ?

「――しッ!」

 ……疑問は、いらない。

 部品が悩む必要はない。

 器用にナイフを避けつづける敵の足首めがけて、コンパスで描いたような足払いを繰り出す。

「あっ!?」

 ナイフばかりを警戒していたのか、敵は不意をつかれ、あっけなくバランスを崩した。

 すかさず突進し、ナイフの柄を脇腹に叩き込む。あばらを砕いた感触。

 後ろに吹っ飛び、床を転がる敵にすかさず駆け寄り、下半身に馬乗りになる。

「けほっ、痛――って、きゃーっ!? 待って待ってやめて、刺さないでくだサ――」

 邪魔な右手をひねりあげ、息を吐くのと同時に、ナイフを振り落とした。

 刃が、筋肉と胸骨の間を縫って、敵の心臓と肺に、深々と突き刺さる。

 ぐちり、と肉を引き裂く、慣れ親しんだ感触が、右手に伝わってくる。

「――……」

 うめき声すら上げず、絶命した敵の胸からナイフを引き抜きながら、思案する。――伏兵がいたということは、僕の侵入は、すでに察知されているのだろう。

〈バグ〉の効力はいまだ続いているはずだが、向こうにも、それなりの対策はあったらしい。

 ともあれ、手遅れになる前に仕事を済ませなければ。

 僕は死体から視線を切ると、ふたたび〈オクルス〉に歩み寄る。円柱をぐるりと一周し、装甲の厚さを調べる。

「――?」

 ふと、違和感に気付き、僕は足を止めた。

 なんだか急に、室温が上がった気がする。さっきまでは、肌寒いくらいだったのに。冷房が止まったのだろうか?

 ごぅんごぅんとうるさかったはずの〈オクルス〉の稼動音も、いつのまにか、スイッチを切ったように止んでいる。これほど巨大で複雑な機械が、こんなにもかんたんに停止することなんて、ありえるだろうか?

 なにか、様子がおかしい。


「……やっと、異変に気づきましタ?」


 こつりと足音が響いた。穏やかな声が、僕の背中にぶつかる。

 今度こそ、僕は振り返ることができなかった。

「……? どうしました、固まっちゃっテ。もう、襲ってこないんですカ?」

 なぜなら。

 その声の持ち主を、僕はたった数秒前に、刺し殺したはずなんだから。

「まあ、当然ですよネ。ナイフで胸を深々と突かれて、それでも生きてるヒトなんて、きっと今までで初めてでしょうシ」

 動揺を押し殺し、僕はようやく背後に振り返った。

「いちおう警告しておきますけど、いくらナイフで刺したところでわたしは死にませんから、もうムダな戦闘をふっかけてくるのは遠慮してくださいネ」

 ――信じられないことに。

 ついさっき、ナイフで心臓を貫かれたはずの少女が、すずしげな微笑みを浮かべて、立っていたのだ。

 穴の空いたワンピースの胸元を、うらめしそうな顔でつまみ上げながら、彼女はふてくされたように唇をとがらせる。

「いくら死ななくったって、痛いものは痛いんですかラ。……だいたい、出会い頭に押し倒した上に、いきなりそんな物で刺してくるなんテ、女性をなんだと思っているんでス? いったいどこの暴漢ですカ、あなたは」

 不機嫌そうにのたまう少女の白い胸元には、もう、傷ひとつ残っていない。ワンピースの襟元に空いた、刃の通った穴だけが、先ほどの戦闘が現実であったことを証明する、唯一の痕跡だった。

 血の一滴すら、見当たらない。

「お前は」

 きれいなままのナイフを、強く握りしめながら、訊ねる。

「お前は、なんだ」

 なぜ、生きてる。

「強姦未遂のつぎは、人のことをお前呼ばわりですカ? もウ……戦う技術の十分の一でもいいですから、その情熱をレディの扱い方の勉強にむけることを、おすすめしますワ」

 淡々としたしゃべり方のわりに、やけに軽薄な口調なのが、よけい癇にさわる。

「質問に、こたえろ」

 ――死なない身体――停止した空調――突如として、稼動を止めた〈オクルス〉。

 はたして、どんな答えが返ってくれば、僕はこの現状を受け入れられるのだろう?

 自問するが、答えは出ない。

「でハ、ご要望にお応えしまして、自己紹介を。

 わたしの称号(なまえ)は〈ジェルミナル〉」

 少女――ジェルミナルは、ぺこりと頭を下げながら、唄うような声音で名乗り上げた。

「あなたの語彙の中に、わたしの存在を明確に示す単語はありませんが――そう、あえて申し上げるなら、〝命を回収する〟者でス」

 意味がわからない。

「それとも、〝死神〟とでも名乗ったほうが、あなた方には通りがいいでしょうカ」

「しにがみ」

 当然のように吐き出された、メルヘンじみた単語が、僕の理解をこえ、頭の上をふらふらと浮遊する。

「なに、ふざけたことを」

「すでにご存知かと思いますガ」

 僕の言葉をさえぎって、ジェルミナルはなんでもないことのように、笑顔で言った。

「あなたは、もうすぐ死んでしまいまス」

「――――」

 あまりにも唐突な死亡宣告に、僕ははっとした。

 ……驚きは、これから死ぬという事実に対してではなく、その事実を当然のように言い当てられたことに対してのものだ。

 追い打ちをかけるように、ジェルミナルは、タイプライターのように言葉をつむぐ。

「あなたの現在の偽名は、フィロス・アシモフ。十六歳。

 生後間もないころ、A国の森林公園に捨てられていたところを、とある反政府活動団体に保護されル。以後は、テロリストとしての英才教育を受け、高い知能と、殺しの技術を合わせ持った活動家として、幾人もの要人を葬り去ってきタ。初めての殺人は五歳のとき。相手は政府の高官ドミニコ・グエル。

 そして今日、二〇五二年三月二十日――あなたは、新型コンピュータ〈オクルス〉の破壊任務をうけ、オルディゴ研究所に侵入。仲間のセキュリティ乗っ取りに乗じて、標的の目前までたどり着き、今に至る――ト。

 ……これでどうでス? 死神(わたし)のコト、少しは信じていただけましタ?」

 ひとしきり、口上を終えたジェルミナルは、首をかしげながら、そう訊ねてきた。

 一方の僕は、口を閉じたまま、疑問に思考を埋めつくされていた。

 なぜ見も知らない他人が、記録など残っているはずのない僕の過去を、洗いざらい知っている? 経歴はおろか――初めて殺した人間のことまで。

 髪も、服も、そして瞳まで――全身を、チェッカーフラグのような格子模様に包まれた、奇妙な少女が笑う。

 ――死神だと、彼女は名乗った。

 それを、信じるのか?

 ばからしい。

「それにしてモ」

 ジェルミナルは、天井まで伸びる〈オクルス〉の全容を、首を伸ばして見上げた。白い喉が無防備にのぞく。

「こんなに頑丈そうな機械を壊さなければならないというのに、アシモフさん、あなたずいぶんと軽装ですネ?」

「――言っておくけど、爆弾なんて持っていないよ」

 思わず、そんなことを口走ってしまったのは、得体の知れない彼女のプレッシャーに負けたからだ。

 ジェルミナルがはたして何者かはわからないが、ここで〈オクルス〉の破壊を阻止されるのだけは、だめだ。

 ――それに、手ぶらなのは本当だった。ナイフと〝錠開け〟用の端末以外、今は何も持っていない。

「みたいですネ」

 意外にも、ジェルミナルはあっさりと肯定した。

 ひそかに安堵する僕の全身を、ジェルミナルの視線が、くまなく舐めた。

「……だっテ」

 ジェルミナルは両手をうしろに回しながら、よどみなく囁いた。


「肝心の〝爆弾〟は、あなたのカラダそのものですものネ」


「――、」

 世間話のような軽薄さでつむぎ出された言葉に、僕はこんどこそ息を飲んだ。

 彼女は、しずかな口調で話を続ける。

「施術は四年前。あなたは体内に〝有機爆薬〟を、脳内に電気信管を、それぞれ埋め込まれタ」

 絶句する僕に、少女は長い髪を指で梳きながら、こともなげに微笑みかけてくる。


「最新鋭の生物兵器――〈生体爆弾〉。

 それがあなたの正体ですね、アシモフさン」




   ◇


〈生体爆弾〉。

 進捗していく対テロ技術に抗するため、とある技術者が考案した新兵器。

 一切の金属部品を排し、カルシウムに包まれた信管と、俗に〝有機爆薬〟と呼ばれる特殊な化学物質を、体内の組織と同化させる。そうすることで、あらゆるセンサーをかいくぐることに成功した、〝生きた爆弾〟である。

 人の身体を媒体とする特性上、倫理面やコスト面、安定性に問題が残るものの、その圧倒的な威力は、過去の可塑性爆薬をはるかに上回っていた。

 起爆は、基本的に信管装備者の任意により行われ、また、オプションを切り替えることで、装備者の死亡と同時に起爆させることもできる。

 発見されることもなく、解体されることもない。ひとたび施設に潜入してしまえば、万が一撃ち殺された場合でさえ、相手に大きな被害を与えることが可能という、史上最凶の生物兵器。

 いまだ初期ロットの数十体が存在するだけの、知名度の低い兵器ではあるが、需要はここ数年で確実に伸びており、数年後には大規模なマーケットも形成されるだろうと、活動家たちからは嘱目されている。




 ◆二十分まえ◆


「――というわけデ。あなたの命は、まもなく終わりを迎えまス」

「というわけで、と言われたって」

 ひととおり、自分の役割について説明を終えたジェルミナルは、子供のように無垢な目で、こちらを見据えてくる。

 いわく、ジェルミナルは、死にゆく人間が残した〝命の余剰〟を回収するための〝装置〟であるという。

 過去も、素性も――ここにいる目的すら、洗いざらいに暴露された僕は、〈オクルス〉の外装にもたれたまま、肩をすくめるしかない。

 目の前の事実(しょうじょ)を否定したくても、この状況が、それを許してはくれなかった。

「――だいたい、お前はどこから来たんだ」

「どこからでもありませんヨ」

 しごくまっとうな僕の質問に、ジェルミナルはのほほんと答える。

「過去、現在、未来――私たちはどこにだって迎えまス。ですが、それはどこにもいない、ということと同義でしょウ?」

 なぜか誇らしげに、ジェルミナルは胸を張った。

「私たちに、この世界の時間の概念を適用しようとしても、それは無意味なんでス」

「……ふぅん」

 もう意味がわからない。

 理解をあきらめ、僕は周囲を見回した。

 ジェルミナルの声以外、まわりからはいっさいの音が失われ、凍りついたように静まり返っている。大昔の、無声映画の世界に入り込んでしまったような心地だ。

「それで」

 歩きながら、僕は訊ねた。

「僕は、〈オクルス〉の破壊に、成功するんだな?」

 あと数分――予定時刻になれば、僕は頭に埋め込まれた信管を起爆させて、このフロアをこっぱみじんに吹き飛ばす。

 死因は、爆死のはずだ。

 死神(こんなもの)と出遭ったのは予定外ではあったが(想定外でもある)、それでも、結果が変わるわけではないのだ。

「それが、大変申し上げにくいのですガ……」

 しかし、ジェルミナルはもじもじと両手を組みながら、気まずそうに両目を泳がせた。

 いやな予感が、いやな寒気となって、僕の背中を駆け抜ける。

 もしかして。

「――起爆に、失敗するのか?」

 抑揚のない声で訊ねる僕に、ジェルミナルは一度だけ、こくりと小さくうなずいた。

「……はイ。残念ながラ」

 目の前が、真っ白になるのを感じた。全身の血液が一気に氷点下を下回ったような虚無感が、身体の内側をまたたく間におおっていく。

「……初期ロットゆえの、予期せぬトラブルなんでス。信管の動作不良で、爆弾は不発に終わリ、」

 憐れむようなジェルミナルの視線が、僕に向けられた。

「駆け付けた警備員によって、あなたは、蜂の巣にされてしまいまス」

「――――」

 なんてことだ。頭を抱えたくなる。

 あのやぶ医者――! 心の中で毒づくが、あとの祭りである。

 それなら、せめて、撃ち殺される前に少しでも――

 ナイフを手に、僕は〈オクルス〉へと歩み寄る。

 が、いちるの望みは、次の一言によっていともたやすく打ち砕かれた。

「無意味でス。この場所は、あなたの魂を捕縛するために造り出した複製(コピー)にすぎませんかラ。ここにあるものをいくら傷つけようと、現実にはなにひとつ影響を及ぼしませン」

 ジェルミナルは律儀にも、手振りをまじえながら説明してくれた。

「ええと、こういう場合は、その……ごしゅうしょうさま、でいいのでしょうカ?」

 腫れ物をあつかうような慎重さで、ジェルミナルはあいまいに笑いかけてくる。

「……そう」

 その笑顔に、奇妙な安堵といらだちをおぼえつつ、僕は深くため息をついた。〈オクルス〉に背中をあずけ、ずるずるとその場に座り込む。

「……あのぉ、アシモフさン?」

 目を閉じた僕に、ジェルミナルがひかえめな声で話しかけてきた。

「なに?」

「その……なんだか、えらく冷静ですネ?」

 そんなこと言われたって、失敗が確約されているのなら、もう僕にできることは何ひとつないのだ。

 もうどうにもならないのなら、おとなしく、その時が訪れるのを待つほかにない。

「ショックじゃないんですカ? 命をかけた任務なのニ」

 控えめな声で訊ねてくるジェルミナルに、僕は頭をかきながら答えた。

「別に。運がなかった。それだけだろ」

 失敗するのだとわかった瞬間こそ茫然としたものの、だからといって、感傷めいた気持ちが湧き上がってくることもない。驚くほど冷静に、今の状況を俯瞰している自分が、少し離れたところにいた。

「そういうものですカ……」

 と、しばらくの間だまっていたジェルミナルが、ふいに声をかけてきた。

「あのぅ……ご迷惑でなければ、おとなり、座ってもいいですカ……?」

 視線を上げると、ジェルミナルが僕の顔をのぞき込んでいた。

「……自分が殺した相手に、そんなことを言われたのは、初めてだよ」

 彼女のワンピースの胸元に空いた、ナイフの痕を見ながら、思わず苦笑してしまう。

「殺した、ですカ。……ええ、たしかに、そのとおりですね」

 ジェルミナルが、おずおずととなりに座る。

〈オクルス〉を背にして、僕とジェルミナルは、30センチほどの間隔をあけて並びあった。

 彼女が身じろぎするたびに、新鮮な花弁のような、甘い匂いがただよってくる。

 血や、硝煙の臭いで侵されきった僕の鼻には、彼女の匂いは優しすぎて、とても落ち着かない気分になる。

「…………」

「…………」

 お互いに話すこともないまま、時間だけが過ぎていく。

 わざわざ許可をとってまで、僕の隣に陣取ったジェルミナルだったが、彼女が喋り出す気配はまるでない。

 僕は横目で、膝をかかえて座る彼女の横顔を、ひそかにうかがう。

 動かないジェルミナルは、無機質だった。

 白磁のように白い手足も、格子模様に包まれたなめらかな髪も、弓なりに伸びた長いまつ毛も、鼻筋から顎までのなだらかなラインも――ぜんぶが常軌を逸していて、作り物じみていて、まるで古代の彫像のようだ。

「あの……なにか、話さないんですカ」

 その姿に見とれていると、ジェルミナルが突然、いじけたような口調で訊いてきた。

「なにかって」

 えらく漠然とした不満だった。

 ……だいたい、僕は物心ついてからというもの、まともな人間生活なんて送ってきていないのだ。

 そういう、ヒトらしい気遣いを求められたって、弱る。

「……だっテ! こんなに珍妙なモノが、今あなたの目の前にいるんですヨ? 死神ですヨっ! なにかもっと、知りたいコトとか訊きたいコトとかないんですカっ!?」

 頬をふくらませながら、ジェルミナルはぷんぷんと怒り出す。さらりと自虐が混じっているあたり、本人も余裕がないらしい。

「どうして、お前が怒ってるんだ」

「あーっ、やですやですこーいうヒト! 変にニヒルぶっちゃって、そんな自分に酔っちゃうあたり、特に救いがありませンっ! ええ、構いませんとモ。そういうイタい人は、私、ぜったい看取ってあげまセーん!」

 威勢よくまくしたてたジェルミナルは、ぷいと顔をそむけたきり、黙りこんでしまった。

「……せっかく、楽しみにしてたのニ」

 背中を丸め、ぽつりと恨み言をつぶやく様子は、まるで小さな子供だ。死神っていうのはみんな、こんなに感情豊かな(めんどくさい)代物なのだろうか。イメージと違う。

 僕は数秒間、葛藤したすえ――結局、彼女の相手をすることに決めた。

 今わの際くらい、しずかに過ごしたかったが、どの道、一人きりにはなれないらしい。ヘンに気まずい思いをするよりは、なにか話していた方が楽かもしれない。

「ひとつ、教えてもらいたいことがあるんだけど」

「…………」

 返事はなかったが、僕は構わず続けることにした。

 どうせ、まともな答えは期待していない。

 独白するように、僕はなにもない空間に向けて言った。


「僕は、人間なのか?」


 要は、ヒトという生き物の、定義のハナシ。

 いつからか疑問に思っていた。

 生まれてから今日まで、組織の部品として生き、果てには身体まで造り変えられた僕が、一体どういう存在なのか。

 人間なのか、それとも、機械なのか。

 自分自身にさえ、それがわからない。

 人の〝命〟を扱う役目をもった死神(ジェルミナル)なら、その疑問を解き明かしてくれる――そんな気がした。

「なんです、そレ? そんなの、あなた自身にしかわからないコトでしょウ?」

 自称死神は、間の抜けた表情で、僕の期待をこっぱみじんに打ち砕いた。

「……」

 自分がばかだったことを自覚する。

 小さく舌打ちし、ふたたび目を閉じた僕の耳に、慌てふためいた声が飛び込んでくる。

「やっ……、うそうそアシモフさんっ、やだな、もゥ! お茶目な冗談ですってバ! お願いですから、寝ないでくださーイっ!」

 彼女としては、何としてでも会話をつなげたいらしい。勢い込んで詰め寄ってくるジェルミナル。

「……てゆーかですね、あなたの質問は抽象的すぎまス! ヒトとそれ以外との線引きをしたいのなら、まずは基準値(ルール)をはっきりさせなくきゃ、おはなしになりませン。でショ?」

「それは、たとえば?」

 訊くと、ジェルミナルは薄桃色の唇に指を当てながら考え込む。

「そうですネー……。

 それじゃあ例題――あなたは、昆虫が意思を持っていると思いますカ?」

 虫が? ずいぶんと、話が飛躍した気がする。

「――そりゃあ、生き物なんだから、意思くらい持ってるんじゃないのか」

 生物である以上、捕食に繁殖、外敵から身を守るとき、何らかの〝意思〟がはたらくのは当然だろう。

「では、その一連の行動は、本当に〝意思〟にもとづくものでしょうカ?」

「……どういう意味?」

「実はですねぇ、昆虫の行動の多くは、外からの刺激に対する、単なる反射なんでス。特定の刺激に対して、一定方向の反応を示しているだけで、そこに個体の感情は介在していないと、一般的には言われていまス」

 ソウセイ、と呼ぶらしいが、学のない僕にはあまりぴんとこない。

「でも、虫だって、エサを食べるのは空腹感があるからだし、外敵から逃げるのは、危機感がはたらいてるからだ」

 それが、単なる〝反射〟で片付けられる行動だとは、どうしても思えない。

「んー……かんたんに説明するとですネー」

 ジェルミナルはおもむろに、お尻を引きずってこちらに近づいてくると、僕の右手をそっととった。体温のない、陶器みたいに冷たい手だ。

「たとえば、この手に、硫酸をかけたとするでしょウ?」

「もっとソフトなたとえはなかったのか」

 想像するだけで肌が粟立つ。

「男の子なんですから、がまんしてくださイ。……そしたらあなたは、まず手を引っ込めますよネ。熱いとか痛い、怖いと感じるのは、そのあとのおはなシ」

「まあ、だろうね」

 硫酸である必要はあったのだろうか。

 疑問は尽きない。

「ですが、複雑な脳を持たない生物の場合、その〝熱い・痛い・怖い〟というプロセスが存在しないのでス」

 なるほど、今度はわかりやすい。

 要するに彼らは、〝痛みや死〟を恐れているから逃げるのではなく、ただ単に〝襲われている〟から逃げているだけなのだ。

 動機ではなく、機能の問題。

 感情をともなわない行動っていうのは、おそらく、そういうことだ。

「じゃあ、昆虫や微生物には、〝意思〟は存在しないって?」

 僕の言葉に、ジェルミナルは煮え切らない様子で目を細めた。

「ところガ。さっきから私やあなたが言っている〝意思〟や〝反射〟といった概念は、私たち知的生物が、〝言葉〟をもっているがゆえに認識できる、一方的な解釈でしかありませン。

 たとえバ摂食行動。さっきまでの走性を例にとると、昆虫がエサを食べるのは、〝空腹感〟という刺激によって起こる反射行動と捉えることができますよネ」

 僕はうなずく。

「しかし拡大解釈しますと、それは〝空腹〟によって発生した不快感――つまりは〝感情〟と考えることもできませんカ?」

「……なるほど。でも、それなら逆もまたしかりだろう。その理論でいうなら、人間の〝意思〟だって、複雑に折り重なった〝反射〟のカタマリみたいなものだ」

 いわば、処理装置としての多様性(スペック)の違いでしかない。

 僕たちは、言葉によって、自分や、ほかの生物の思考や行動を〝意思〟として定義付け、それ以外の生物の行動を〝本能〟として定義付ける。

『昆虫は意思をもっていない』という仮定は、僕たち人間が〝言葉〟という概念を知っているからこそ、確立可能な考え方だ。

 昆虫や動物は、みずからの行動を示すための〝言葉〟を知ら(もた)ない。

 彼らの行動が、ただの本能によるものなのか、それとも何らかの感情を伴うものなのか。

 人間は結局、それを〝言葉〟を用いてでしか、明確に示すことができない。

 少なくとも、僕たちの視点(せかい)では。

「そう、私たちが、他の生物と大きく異なる部分――それは、周囲や自身の事象すべてが〝言葉〟という概念に縛られ、くくられてというところでス」

 つまり、意思だの本能だのという捉え方も――結局は、客観的な解釈(エゴ)でしかないということ。

 人間は、目に見えないものに名前と意味を与えることでしか、物事を理解できないのだ。おろかなことに。

「……観測する側の、知能(ことば)の有無によって、一個体の行動は、〝意思〟にも〝本能〟にもなりえる」

 そして、そこに境界線なんて存在しない。

 僕の相槌に、ジェルミナルはうんうんと、満足そうにうなずいた。

「その通リ。アシモフさんは、頭がいいですネ。1を教えるだけで10を理解して、それを統合しつつ、0,5くらいにまとめて出力してくれるなんて、なんだか高性能なパソコンみたイ!」

 褒めているのか、けなしているのか、ジェルミナルは子供をあやすような手付きで僕の頭をなでてきた。

 こそばゆくて、その手を振り払う。すると、彼女は不満そうに僕をにらみつけた。

「これで、もうちょっと癒し成分があれば、一家に一台モノなのニ……」

 ぶつくさと文句をたれていたジェルミナルの目が――ふと、空虚なひかりをたたえた。

「……そう考えると、〝意思〟なんてモノは、その個体に内包されているのではなく、観測する側の思考の中に、外因的に発生するだけの、幻想なのかもしれませんネ」

「かもしれないって」

 命を扱っているクセに、ずいぶんピントのずれた言い回しをする。

 呆れる僕に、ジェルミナルは柔和な笑顔を向けてきた。

「ええ……意外と、あいまいなものですヨ。

 人間と、それ以外の生き物の境界線なんテ」




 ◆十分まえ◆


〝意思〟と〝知恵〟は、どこまで機械で再現することができるのか。

 それは、過去から現在にかけて、幾人もの科学者たちが立ち向かってきた、永遠の命題だ。

 ――この〈オクルス〉も、彼らのひたむきな情熱から生み出された産物の一つである。

 開発したのは、さきほど僕が殺害した、オルディゴ研究所のリナイゼ博士を筆頭とした、研究チーム。

 現時点において、〝生命の再現〟という境地に、もっとも近い高性能コンピュータ。

 大脳皮質を完全再現したプログラムを基板に、メモリ空間に膨大な数の擬似神経細胞(ニューロン)を構築し、増殖をうながすことで、人の脳機能を限りなく本物に近いかたちでシミュレートすることに成功している。

 秘匿性の高い研究であり、〈オルクス〉に関する情報は、民間にはいっさい流れてはいない。

〈オクルス〉の存在と開発目的を知るのは、少人数の開発チームと、出資者(スポンサー)である国家機関――そして、一部の軍事関係者のみである。


   ◇


「あの、アシモフさン」

 前を向いたまま、ジェルミナルはぽつりと、つぶやくように言った。

「あなたは、どうして〈生体爆弾〉なんかになったんですカ?」

 今さら、それを訊くのか。

 可笑しくて、僕は苦笑する。

「ジェルミナルは、僕のことを何でも知ってるんだろ?」

 そういう〝機能〟なのだと、彼女はさっき語った。

 彼女は、ただ知ろうと思うだけで、対峙した人間の人生(すべて)がわかるという。

 出会いがしら、闇に葬られたはずの僕の経歴を、ぴたりと言い当てたときのように。

「もう……さっき、言ったばっかりでしょウ」

 ジェルミナルは、三日月のような半眼で、じろりと僕をにらんだ。

「私がどれだけあなたのコトを知っていたとしても、それは私の主観にすぎませン。昆虫専門の学者と同じで、ただ知識をもっているだケ。昆虫のキモチなんて、わかりっこありませんヨ」

 それだけ言うと、ジェルミナルは真摯な面持ちで、こちらをじっと見つめてきた。

「……別に。そうしろって言われたから、そうしただけだよ」

 まっすぐ前を見たまま、僕はありのままを告げた。

「ただの機械の部品が、改造をこばんで、何になるっていうんだ」

「無茶な手術で、命を大幅に削られてしまったのニ?」

「寿命を気にする爆弾なんて、いないだろ」

 もとより、使い捨てを前提にした兵器だ。

 ジェルミナルは「言われてみれば」といった表情になったあと、くすくすと笑った。

「あなたは、本当に、根っからの〝部品〟なんですネ」

 そう言って、ジェルミナルは、背中にある〈オクルス〉の表面に、そのたおやかな指を這わせた。光沢のある外装に、彼女の精密な横顔が映り込む。

「……こんな、つまらない物を壊すために、人生を投げ打ってしまうなんて――もったいなイ」

 なんと、世界でもっとも価値のあるコンピュータを〝つまらない物〟呼ばわりである。

 なまじ死神になってしまうと、物の価値観まで変わってしまうのだろうか。……当然か。物に依存するような環境では、なさそうだ。

「ジェルミナル」

「はイ?」

「この〈オクルス〉の存在が、なぜA国内でここまで厳重に秘匿されているのか、知ってる?」

 なんとなく、僕は訊いてみた。

 なにせ、人間の脳と同等か、それ以上の処理能力をもつ超高性能コンピュータだ。

 大々的に発表すれば、〈オクルス〉の技術革新から生み出される経済効果は、はかりしれないものになるはずなのに。

 ジェルミナルはしばらくだまっていたが、やがて、床を見つめたまま、口を開いた。

「――軍用兵器。〈オクルス〉本来の運用用途は、軍用無人機や弾道ミサイルの、自律制御システムでス」

 さもありなんというべきか。

 ジェルミナルは考え込む様子もなく、ぴたりと真相を言い当てた。

「自ら思考・判断する人工知能は、従来のジャミングや想定外のトラブルに強く、遠隔操縦機よりもはるかに高い精度での機体操作を実現させまス。

 ……〈オクルス〉を開発したA国は、技術力と資源に恵まれている代わりに国土が狭く、兵士の数が不足していまス。周囲の国と、長きに渡る軋轢をかかえ、抑圧され続けてきたA国にとって、いくら撃墜されたところで替えのきく〈オクルス〉は、おあつらえ向きの〝兵士〟でしょうネ」

 組織が数年かけて、ようやく暴き出した自国の機密を、ジェルミナルはあっさりと放言してのけた。

 リーダーが聞いたら、卒倒しそうだ。

「〈オクルス〉が配備されれば、A国は即座に行動を起こすでしょウ」

 ジェルミナルが、顔を上げた。格子模様の奇妙な瞳が、僕の方を向く。

「そして――それをさせないために、あなたはここへ来タ。技術の流出を恐れた政府は、〈オクルス〉の設計図をどこにも残していませんから、実物を破壊してしまうのが、一番手っとり早いですものネ」

 その通りだ。

 ――今ごろ各地では、開発にたずさわった研究者たちが、仲間たちの手によって次々と処理されているはずだ。

 主だった開発者が死亡した今、あとは本体さえ破壊してしまえば、〈オクルス〉の存在は闇へと葬り去られるだろう。

 ――結局、最後の仕上げで、肝心の僕が失敗してしまったわけだけど。

「この数年で、アシモフさん達が相手にしてきたのは、武力を是とした、過激派の勢力だけでしタ。あなた達の組織の戦いは、戦いを止めるための戦いだっタ。あなたは、そのために〈オクルス〉を――」

「買いかぶりだよ。そんな大義名分、僕にはない」

 僕ははっきりと言う。

「それが僕の存在意義なら、僕はだまって、受け入れるしかなかったんだ。壊す対象が、〈オクルス〉だろうと、人間だろうと、僕はなんでもよかった」

 生まれて(ゆりかご)から今日(はかば)まで、ひたすら、殺すための道具としてあり続けてきたのだ。

 そこに特別な感慨はないし、自分の境遇を不幸だとも思わない。駆け抜けるような生涯は、僕に悩むような時間を与えてなどくれなかった。

 口をつぐむジェルミナルから目を逸らし、僕は矢継ぎ早に続けた。

「さっきジェルミナルに訊いたこと、あるよな」

「あなたが、人間かどうかっテ?」

「今なら、答えがはっきりわかる気がする。

 ――やっぱり僕は、人間じゃない」

 断言した。

 自分が何者であるかは、自分にしかわからない。他人の主観に、意味はない。

 ――ジェルミナルが教えてくれた現実は、たぶん、何よりも正しいのだと思う。

 全てをかけた任務が、失敗したというのに。

 僕はこれから、無惨に死ぬというのに。

 想いも、願いも、憂いも――本当に、何の感情も、湧いてこない。

 そんなのは、やっぱり、人間なんかじゃないだろう。

「……あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうネ」

 ささやくようなジェルミナルの口調は、どこか醒めていて、僕の胸にちくりと刺さる。

 得体のしれない不快感だった。

「なぁ。ジェルミナルは――もともと、人間だったんだろ?」

 生じた空白を埋めるため、僕は手の中のナイフをもてあそびながら言った。

「生きてたころは、どんな女の子だったんだ?」

 特に、意図のある質問ではなかった。

 ジェルミナルは両手の指を組み合わせながら、少しのあいだ悩むそぶりを見せた。

「……私も、アシモフさんと同じですヨ」

 長く伸びた毛先を指先でいじりながら、ジェルミナルは自嘲げに目を細めた。

「僕と同じ?」

「私も、私自身が何者なのか知らないまま、死んでしまって――気付いたら、こんな身体になっていましたかラ」

 私たち、なかまですねぇ、と無邪気な笑顔を浮かべるジェルミナル。

「それ以上は、ヒミツでス」

 鵜呑みにはできない発言だった。ころころと、目まぐるしく表情を変えるジェルミナルは、世間の毒気を知らない、良家のお嬢様といった風情だったから。

 だけど――彼女の浮かべる笑顔の裏に、ときおり残像のように現れる空虚さは、なんなんだろう?

 答えあぐね、黙り込んだ僕を、ジェルミナルはしばらくのあいだ、じぃっと見つめていた。

 と。

「あの……アシモフさンっ」

 何の前触れもなく、ジェルミナルが勢いよく立ち上がった。

「残り時間もあと数分ですし、最後に、私と賭けをしませン?」

「――は……?」

 何の脈絡もなく、ジェルミナルはそんな提案をしてきた。

 うろたえる僕にかまわず、ジェルミナルは両手をひろげながら言う。

「今から、かんたんなクイズを出しまス。もしも、アシモフさんが答えられれば、」

「ちょっと、待て。僕はやるなんて、」

 僕の制止を無視して、ジェルミナルは口早に告げた。

「――少しだけあなたの因果をいじって、信管が正常に作動するよう、細工してあげまス」

「――、え」

「悪い話じゃないでしょウ?」

 彼女の提案に、僕は自分の耳を疑った。

 因果をいじる。信管が、直る。

〈オクルス〉を――破壊できる?

 そんなことが、はたしてジェルミナルにできるのだろうか?

 僕の顔色が変わったのを見て取ったジェルミナルは、ゆっくりと歩き、そして僕の正面に佇んだ。

 スカートをひるがえしながら、僕の方に振り向き、胸元に手を当てる。

「チャンスは一度。勝っても負けても、やり直しはありませン。じゃあいきますヨ?」

 ジェルミナルは小さく息を吸うと、唄うようにささやいた。


「ヒトの〝魂〟は――いったい、何に宿っていると思いますか?」


 魂の、在り処。

「言い換えれば、〝人間としての定義〟でス。……はたして、アシモフさんにわかるでしょうカ?」

 口元にいじわるな笑みを貼りつけ、ジェルミナルは腕を組んだ。

「それ、本当に答えはあるのか?」

「もちろン。――わたしを誰だと、思っているんでス? 生命を扱う私が、その寄る辺となる魂について、知らないはずがないでしょウ?」

 不敵な口調は、挑発しているようにも、応援しているようにも聞こえる。僕は目を閉じ、思考を研ぎ澄ませる。

 以前〝仕事〟を終えたあと、ターゲットが持っていた小説に目を通したことがあった。なんてことのない好奇心。その時に見た一文が、ふと思い浮かんだ。

『人間の魂は、もって生まれた〝人格〟に宿っているのか、それとも〝記憶〟に、依存しているのか』

 生まれ持った〝魂〟そのものが、人間としての証なのか。

 それとも、人間としての日々を送っていくことによって、〝魂〟が形成されていくのか。

 ずいぶん前の話だが、その日一日、ヒトの自我について、本気で悩んだことを憶えている。

 ……もっとも、翌日には興味を失い、本ごと、ごみ箱にすててしまったけれど。

 ――まさか今になって、もう一度、そんなものに思いを馳せることになるなんて。

 一分ほど悩んだすえに――僕は、自分の中で導き出した答えを口にした。

「〝記憶〟」

 他人にはあって、僕にはないもの。

 正確にいえば、積み重ねた〝ヒトとしての経験〟。

 たとえば、狼に育てられた子供がいたとする。その子供は、もはや人間とは呼べないだろう。その子供には、人間としての経験値が存在しないのだから。

 人間のカタチに生まれただけで、人間として生きられるとは限らない。僕たちは、在り方次第で、獣にも道具にもなれる。

「…………」

 僕は床に座ったまま、唇を引き結んでジェルミナルの返答をまつ。心臓が、どくんと、高鳴るのがわかった。

「アシモフさん」

 しばらくのあいだ床を見つめていたジェルミナルは、やがて、顔を上げて言った。

「……残念ですが、不正解でス」

 ジェルミナルの声は、思いのほか空虚にひびいた。

「そっか」

 肩をすくめる。なぜだろうか、悔しいとは思わなかった。

「……で、正解は?」

 あらためて訊ねると、ジェルミナルは、いたずらがバレた子供のような、無邪気な笑顔で言った。


(そんなモノ)始めから、どこにも存在しませン」


 は。

 なんだって。

「だって機械じゃあるまいですし……そもそも、生き物を形作る要素のひとつひとつを、分解して、個別に捉えて考えることの方が、おかしいって思いませんカ?」

 そうだけど。

「……でも、答えはちゃんとあるって、お前」

「答えがないのも、立派な答えでス。だいたい、さっき、さんざん話したでしょウ? 意思だの本能だの、言葉をもつ人間が無理やり定義づけただけの概念にすぎないっテ。

 魂だって、例外ではありませン」

 こつこつと靴音を立てながら、ジェルミナルは〈オクルス〉の周りをゆっくりと回る。一周して、僕の正面に戻ってくる。満面の笑顔。

「残念でしたネ」

「……まあ、いいさ」

 結局、埋め込まれた信管が不良品だっただけのことだ。それを、ジェルミナルがどうこうする責任なんてない。

 不可抗力だ。撃ち殺されるのなら、仕方ない。今まで、僕は他人にたいして、同じことをしてきたのだから。

「現実を曲げてもらってまで、どうこうする問題じゃない」

「あ、――えート」

 しかし。

「えへへ……それがその、すみませン。さっきのアレ、ウソでス」

「え?」

 ジェルミナルは気まずそうに片手を上げた。

「私たちに、まだ生きてるヒトの因果に干渉する権限なんて、ありませんかラ」

「…………」

 すました顔で告げるジェルミナルだが、不思議と怒りは湧いてこない。

 いくらなんでも、動作不良を起こした信管を直してもらえるだなんて、都合が良すぎると思っていた。

「いいよ……なんとなく、わかってた」

 これでいい、と思い直す。

 別に、〈オクルス〉が憎いわけでも、過激派が憎いわけでもない。仕事がひとつ失敗した。それだけだ。

「あ、いえ、そっちじゃなくテ……」

「そっちじゃないって、何が?」

 ジェルミナルは、問い詰められる子供のように目を逸らしながら、とんでもないことをのたまった。

「いえ、ですから、ウソなのは最初のアレなんです。信管が作動しなくて、爆発しないっていうのが、実はそノ……ウソなんでス……」

「――――は」

 耳を疑う。

 こいつ今、何て言った。

「――ぷっ! あははっ、だってアシモフさん、きれいに騙されてくれるんですもン! 私も楽しくなっちゃって、つい遊んじゃいましたよゥ」

 人の生死で遊ぶな。職権乱用だ。

 もはや怒りの言葉すらわいてこない僕を尻目に、ジェルミナルは腰に手を当てて言った。

「……ですから、安心してくださイ。あなたの、一世一代の自爆テロは、きちんと成功いたしまス」

「お前……信じられない……」

 これから死ぬ人間に対して、こいつは今までも、こんなたちの悪い冗談を突きつけてきたのだろうか?

 今度こそ、全身から力が抜けるのがわかった。ずるずると背中から滑り落ちる。

「えへへ、怒らないでくださいってバ。いいじゃないですかー、騙されてガッカリするウソよりも、騙されて安心できるウソの方が良心的じゃないんですカー」

 これから死ぬ人間をだましてる時点で、悪質すぎる。

「と、こんなことしてる間に、いつの間にか時間がせまっているわけですガ……」

 誰のせいだ。

「や、やだナー。顔が怖いですってバ」

 ジェルミナルは、くるりと僕に向き直った。

「――さて、残念ながらクイズには不正解でしたガ」

 もったいぶるように間を置いたあと、彼女は活き活きとした声で言った。

「敢闘賞ということで、生前の私のことを教えてあげましょウっ!」

「……………………」

 短い時間だが、ジェルミナルと過ごしてわかったことがある。

 こいつはいつでも、脈絡がない。

「さっき知りたがってましたもんネー? 〝生きてたころは、どんな女の子だったんだ?〟なんテ。もうっ、そんな露骨な好意をむけられてしまうとー、さすがの私もー、照れてしまうというカー……」

 最初のウソが強烈すぎて、そんな疑問は朧の彼方へと消え失せていた。

 がぜん勢い込むジェルミナルに、僕は言った。

「訊くのは、やめとくよ」

「え……?」

 ジェルミナルの表情がこわばる。

 こうして、目の前で生きて、動いて、笑っていても――やはり彼女は、死人なのだ。

 これから死ぬ僕が、死人の何かを聞いたところで、それはあまりに無意味で、むなしいことのような気がした。

「だから、いい。言わなくて」

「……、でモ」

 ジェルミナルは、置いて行かれた子供のような、寂しそうな表情を浮かべた。

「――いいえ。やはり、聞いてほしいんでス。だってあなたは、すでに生前の私と出逢っていますかラ」

 その告白に、僕は目を見開いた。

 ――今、ジェルミナルはなんて言った。

「さっきまでは、名乗るつもりなんて、なかったんでス。本当ですヨ?」

 自嘲めいた、弱々しい笑顔だった。

「だけど――やっぱり、あなたと出逢ってお話をして――アシモフさんにだけは、知ってほしくなったんでス」

 ――記憶にない。

 僕は組織の人間としか、面識らしい面識はないし、〝仕事〟で殺した人間の顔もすべて憶えている。

 だけど、そのいずれにも――ジェルミナルと同じ容姿の女の子なんて、いなかった。

 僕は息を飲み、おそるおそる、訊ねた。

「お前は……誰だ?」

「ありがとウ――」

 ジェルミナルは、両手でスカートをつまみ上げ、膝を曲げて、上品におじぎをした。

 チェック模様のワンピースが、ふわりと揺らぐ。

「私の、生前の名前は――〈オクルス〉」

 無音の世界に、その告白は思いのほか、はっきりと響き渡った。


「私は、あなたに(ころ)されましタ」




 ◆3分まえ◆


〝過去、現在、未来――私たちはどこにだって迎えまス。ですが、それはどこにもいない、ということと同義でしょウ?〟

〝私たちに、この世界の時間の概念を適用しようとしても、それは無意味でス〟


 最初に会ったとき、ジェルミナルはたしかに、そう言っていた。

 ――時間が、ねじれていたのか。

 未来に破壊されたジェルミナルは、〈死神〉となって時間を超える力を得、そして――僕の〝生命〟を回収しに来たのだ。

 なんてことだろう。

「ただのデバイスに過ぎなかった私が、その処理能力を、〝自我〟とみなされ、あなたの爆弾によって吹き飛ばされる直前に、〈ジェルミナル〉の称号を引き継いだ――今思えば、先代さんの気まぐれだったのでしょうネ」

 ジェルミナルは目を閉じる。ゆるやかな身体のラインが、薄闇の中で浮き彫りになる。

「あなたはさっき、言いましたよネ。自分は、人間ではない、っテ」

「……ああ」

 生物学的に人間として生まれただけの、空虚なにせもの。

「それなら――もともと人間でさえない私は、いったい何者なのでしょうネ?」

 僕の正面に佇んだまま、泣いているような、すがるような、悲壮な声で、ジェルミナルは訊ねてくる。

「――僕には」

 拳を強くにぎりしめ、僕は口をつぐんだ。

 ジェルミナルの疑問に対する答えも、ジェルミナルの運命を嘆く権利も、僕は持ち合わせていなかった。

 だから、代わりに決意した。

「ジェルミナル。僕が死ぬまで、あとどれくらい時間がある?」

「え……はい、あと三分ほどですけど――それガ?」

 それなら、まだ時間はある。

「僕を、いそいで元の世界に、戻してくれ」

 格子模様の瞳を見据え、言った。

「え、あの、どうしたんです、いきなリ」

 慌てふためくジェルミナルに、僕は詰め寄った。

「……このフロアから、今すぐ離れれば、もしかしたら〈オクルス〉は無事に済むかもしれない」

〝有機爆薬〟の爆圧は凄まじい。今さら離れたところで、爆発の余波は、間違いなく〈オクルス〉を巻き込むだろう。

 それでも、助けたかった。

 彼女が無事でいられる可能性がわずかでもあるのなら、それに賭けてみたいと思った。

 初めて、殺したくないと思った。

 不合理な思考。不条理な行動だと、自分でもわかっている。理解に苦しんでいる。

 なのに、なぜ、今さらになってそんなことを思ったのか――その理由(ぶぶん)だけが、スプーンですくわれたみたいに、ごっそりと空白になっていた。

「あのぉ……なにか誤解してるみたいですけド、私べつに、あなたを恨んでるわけじゃありませんヨ?」

 ジェルミナルは、はつらつとしたウサギのような面持ちで、はにかんだ。

「アシモフさんが考えてるほど……私、深刻に考えてませン。どんな姿になったって、私は私ですし……それニ――」

 ジェルミナルは、月の泉のような、澄んだ笑顔を浮かべる。

「それに、だから、自分を殺した相手にむかって、変だって思われるかもしれないですけど――アシモフさんには、私、感謝してるんでス」

「感謝って」

 僕は立ち上がる。

「――どうしてッ」

 気付けば、肩をふるわせて、叫んでいた。

 彼女は狂っている。

 やはり〈オクルス(ジェルミナル)〉は、まぎれもなく生命をもっていた。だからこそ彼女は、〈死神〉になれたのだ。

「僕は――今まで、他人の生命を奪うことに、抵抗を感じたことなんて、一度もなかったんだ」

 殺した相手は、すでに生きていないから。

 自分の存在を認識できなくなった者に、いくら罪の意識を感じたところで、それはただの偽善だから。

 だけど、彼女は今、こうして存在している。僕に殺されたあとも、確固として、ここに立っている。

 死んだあとも生き続けて、ひたすら他人の生命を刈り取り続けるなんて、そんなのは、ただの地獄だ。

 だというのに、ジェルミナルは恨み言ひとつ、ぶつけてはくれない。

「でも私……こんな穴ぐらみたいなところから、ヒトを殺すための機械をあやつるよりも――こうして、色々なヒト達と出逢って、話をして、その〝生命〟の終わりを看取ってあげることのできる今の方が、好きですヨ?」

「でも、それは……結果論じゃないかッ!」

 僕が、彼女にしたことは変わらない。

 ヒトを殺すための機械として、無感情(らく)なままでいられたはずのジェルミナルを、僕は永遠の地獄に引きずり込んだのだ。

「だから、せめて――!」

「……ああもう、めんどくさイっ!」

 声を嗄らす僕を、ジェルミナルは大声で一喝した。

「男の子のクセに、うじうじうじうじ女々しいったラ!」

 威勢のいい声が、円形のフロアの中に反響した。ジェルミナルは靴音を立てながらこちらに歩み寄り、僕の顔を至近距離でのぞきこんだ。甘い匂いが、鼻をつく。

「――ええ、この際、もうはっきり言いましょウ! あなたみたいなボクネンジンは、真正面から言わないと一生わかってくれないに決まってるんでス……!」

「な、何を……」

 ジェルミナルの視線に、真正面から射ぬかれ、僕は思わず後ずさる。

「だから、……、そノ……」

 大きな瞳を落ち着きなく泳がせながら、ジェルミナルはもじもじと両手の指をからませる。

「……ありていに言うとですね、あノぅ……」

 白磁のように白かった彼女の頬が、みるみるうちに、紅色に染まっていく。

「……ただの機械だった私に。

〝生命〟と触れ合うきっかけをくれた、あなたニ――」

 ジェルミナルの華奢な手が、迷子の子供のように、僕の服のすそを、つかんだ。

 そうして、彼女は、


「私を殺したあなたに。

 ――私は、恋をしたのでス」


 今にも消え入りそうな声で、ささやいた。

 恋?

 ……意味がわからなかった。

「だから、一度だけでも、少しだけでもいいから――実際に逢って、こうしてお話をしてみたかったんでス」

 少女の発した一言は、僕にとって、宇宙の向こうの遠い天体よりもずっと、遠く理解の及ばない感情(もの)だった。

「……わからない。ジェルミナルの考えてることが、これっぽっちも」

 首を横にふり、僕はなんとか、自分の心情を告げた。

「本当に、わからないんですカ?」

 いぶかしむようなジェルミナルに、僕は声もなくうなずく。

「……でもアシモフさんは、私を殺したくないって、そう言ってくれタ」

 僕の服をつかんだジェルミナルの手に、ぎゅっと力がこもった。

「それなら、あなたはとっくに、答えを握り締めていると思うん、でス」

 それとも、それは都合のいい、私の勘違いでしょうか? ――そう付け加え、ジェルミナルは、舌を出して笑った。

 その笑顔を、ぼんやりと見つめながら、ふと気付く。

 道具(ぼく)に対して、笑顔というものを向けてくれたのが、後にも先にも――ジェルミナルだけだったことに。

 彼女は、この僕に笑いかけてくれて、手で触れてくれて、想いを告げてくれて。

 ……そうして、こんな僕と、人間(ヒト)の話をしてくれた。

「……ああ、そうか」

 今さらのように自覚し、僕はようやく、ひとり納得した。


 これが―――恋か。


 ジェルミナルの手には、いつの間にか、無骨な銃が握られていた。

 あざやかな白銀にいろどられ、グリップの部分に時計と歯車の意匠をほどこされた、一挺のリボルバー。

 ジェルミナルは慣れた手付きで撃鉄を引き起こすと、その銃口を、音もなく僕の胸に据えた。

「……知っていますか? 今からたった数十年まえは、ネズミの脳の、たった半分の機能をコンピュータで再現するのが、やっとだったらしいですよ」

「……想像できないな」

「あなたが〝自分〟を信じて、それを認めてくれるヒトが一人でもいるのなら――あなたはきっと、人間でス。魂なんて、必要ない。

 そういうものだと、思いますヨ」

「……ああ」

 ジェルミナルの、最後の定義に、僕は一度だけ、大きくうなずいた。

「そうだと――いいよな」

 どこか満ち足りたような気持ちで、僕は、そのやさしい銃声(こえ)を聴き届けていた。




 -いま、げんざい-


「あっ、ミナ先輩、おかえりなさーいっ!」

 仕事を終えて聖域に戻った私を、ひさしぶりの笑顔が出迎えてくれた。

「……あら、ヴィオさン? お久しぶりですネ。お叱りはうけましタ?」

「ええ、それはもう、たっぷりと……。ようやく現場復帰ですよぅー」

 はつらつとした笑顔を浮かべながら、ヴィオさんは慣れた手つきで、私の分の紅茶をそそいでくれた。

「ありがとうございまス。……おひとりですカ?」

 テーブルには、ヴィオさん以外誰もいない。珍しいこともあるものだ。

「さっきまで、ヴァン先輩がいたんですけど……入れ違いになっちゃいましたねー」

 椅子に座り、あたたかいカップを手にとって、一息つく。

 私はふと、訊いてみた。

「あの……ヴィオさんは、失恋した経験ってありますカ?」

「……へっ?」

 クッキーをくわえた姿勢のまま、ヴィオさんは、ぱちぱちとまばたきをする。

「あ、えっと、その――深く考えないでくださいネ。もしも経験があるなら、そのとき、ヴィオさんはどんな気持ちだったのかなーって、なんとなく気になっテ……」

 とたんに、ヴィオさんの顔がみるみる、りんごみたいに紅く染まっていく。クッキーが床に落ちたのに、見向きもしない。

 もしかして、地雷を踏んだのだろうか、私は。

「あの……もしアレなら、聞き流してくれてモ……」

 いたたまれなくなった私が言うと、ヴィオさんは慌てた様子で、首をぶんぶんと横にふった。長い髪が振り乱れる。

「あっ、いえいえ! そうじゃなくって……ミナ先輩からそんなこと聞かれると思ってなくって、つい不意をつかれてしまったというか……っ!」

 落ちたクッキーを片付け、ヴィオさんはふたたび椅子に座り直した。

「失恋、ですか。んー、そうですねぇ……」

 ヴィオさんは、ガラス張りの天井を見つめながら、少し舌足らずな声で言った。

「私の失恋は、とっても優しくて――でも、胸にぽっかり穴が空いたような。なんだか、不思議なきもちでした」

 大切な宝物を、ていねいに取り出すような、おごそかな声で、ヴィオさんは微笑んだ。

「でも、私は、トモくんがしあわせになってくれればそれでいいかなー……って、何言ってんの私!? こ、こんなありきたりな表現、ぜんぜん参考になりませんよね……? えへへ、国語は昔から苦手なんですよぅ」

 語り終えてから恥ずかしくなったのか、弁解するようにまくしたてるヴィオさんを尻目に、私はしばし、停止していた。

「胸に、穴」

 その表現に思い当たりがあって、私は、自分の胸元に視線を落とした。

 ――チェック模様のワンピースの胸元に、小さくて細長い穴が空いていた。彼に刺されたときに残った、ナイフが通った跡。

「……そうですカ」

 その、ちっぽけな穴を、私は指先で、そっとなぞった。

「私も……その気持ち、わかるような気がしまス」

 ずっと向こう――もう二度と逢えない場所へと旅立ってしまったひとに、私は想いを馳せる。

 こういうとき、もしも私が人間だったのなら、涙を流すことができたのだろうか?


〝あなたが〝自分〟を信じて、それを認めてくれるヒトが一人でもいるのなら――あなたはきっと、人間でス〟


 彼の前では、ああ言ったけれど。

 けれど、やっぱり、私は所詮――造り物なのだろうか。

「あ、あの……先輩?」

 顔を伏せたまま、黙りこんでしまった私を心配したのか、ヴィオさんがおずおずと近寄ってくる。

 遠慮がちに伸ばされた手を、私は衝動的に、引き寄せていた。そのまま小さなの胸の中に、顔を埋めた。冷たいけれど、柔らかい。――私のような造り物じゃない、本物の生命の感触。

「先輩……?」

 彼女はしばらくの間、困惑していたが、やがて、私のことを、強く抱きしめてくれた。

 鼓動も体温もない、カタチだけを繕った私たちの躰。


 そこに、魂は宿っているのだろうか。

 いつの日か、わかる日がくればいいなと、ぼんやり思った。


《La fin》


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