日常の先
長い廊下を歩いている。
横には、等間隔に並ぶシャッター。
どれも閉じられていて、中は見えない。
こういう時、自己紹介をするのが普通なのかもしれない。
だが、すまない。私はそれを知らない。
そもそも——
私は、誰だ?
なぜここにいる?
ここはどこだ?
何も分からない。
記憶がない。
だが、不思議と「開けるべきだ」と思った。
最初のシャッターに手をかける。
重い音とともに開いた。
中には、映像があった。
男が誰かに怒鳴っている。
些細なことだ。
だがその数分後、取り返しのつかないことになる。
映像はそこで終わった。
「……後悔、か?」
そう思った。
次のシャッター。
今度は、言えなかった言葉。
選ばなかった選択。
見て見ぬふりをした瞬間。
どれも、よくある話だった。
三つ目。四つ目。五つ目。
同じだ。
誰かが選び、間違え、
そして取り返しがつかなくなる。
だが、奇妙だった。
胸が痛まない。
悲しくもない。
怖くもない。
ただ、「そういうものだ」と理解しているだけだった。
歩き続ける。
どれだけ見ても、同じものしかない。
特別な罪も、劇的な悲劇もない。
ただの、ありふれた失敗。
いや——
失敗ですらない。
それでも、歩き続けた。
理由はない。
止まる理由も、戻る理由もないからだ。
やがて、ひとつだけ違うシャッターが現れた。
少しだけ古く、少しだけ重そうなそれ。
なぜか分からないが、
ここだけは開けてはいけない気がした。
それでも、手をかけた。
理由はない。
開けない理由も、なかったからだ。
開ける。
そこには、人がいた。
映像ではない。
こちらを見ている。
「やぁ、こんばんは」
男は笑った。
「君はいろいろ見てきたんだね」
「……ああ」
気づけば、そう答えていた。
「そうだな、君たちの言葉で言うなら——閻魔、かな」
男は軽くそう言った。
まるで大したことではないように。
「今から貴様を裁く」
その言葉に、不思議と納得した。
「ああ、そうか」
口が勝手に動く。
「俺は裁くべき人間だな」
見てきたものを思い出す。
あれだけの“後悔”。
あれだけの“間違い”。
記憶はない。
だが、確信だけはあった。
「きっと、酷いことをしたんだろうな」
少しの沈黙。
そして、男は笑い出した。
「あは、アハハハハ」
「君を裁くべき人間?」
笑いながら、こちらを見る。
「面白い冗談だ」
空気が、少しだけ冷える。
「君は裁くべき人間じゃない」
一瞬、軽くなる。
だが次の言葉で、すべてが落ちた。
「裁かれて当然の人間だ」
言葉の意味を考える前に、続けられる。
「君の見たのは“後悔”じゃない」
「——日常だ」
思考が止まる。
「君のする“こうすればよかった”は後悔じゃない」
男はゆっくりと歩く。
「ただの結果だ」
「選んだわけでもない。
深く考えたわけでもない。
ただ流れて、そうなっただけ」
「それが君だ」
言葉が出ない。
「まぁいい」
男は肩をすくめる。
「罪の意識があるのは評価しよう」
「もっとも——」
少しだけ間を置く。
「“君じゃないこと”は残念だがね」
意味が分からない。
だが、聞き返す前に言われた。
「ここまで聞いて、何か言うことは?」
しばらく考える。
いや、考えていない。
ただ、浮かんだ。
「……俺と変わんねーな」
男の眉が、わずかに動く。
「閻魔」
一歩、近づく。
「地獄に落ちろ」
その瞬間、すべてのシャッターが開いた。
映像。映像。映像。
無数の“日常”。
無数の“どうでもいい選択”。
どれも、特別じゃない。
そして気づく。
どれ一つとして、
“選んでいない”。
全部、流れだ。
男の姿が歪む。
廊下も、音も、すべてが崩れていく。
最後に聞こえたのは、声だった。
「だからこそ——終わらない」
気づけば、また歩いていた。
長い廊下。
閉じられたシャッター。
違うのは、一つだけ。
今度は、開ける理由がある。
だが——
閉じる理由は、やはりなかった。




