LOG06 緑青
つながった電話の向こうでは、真央の小さな、とぎれとぎれの声が聞こえていた。電波のせいなのか、それとも彼女自身が言葉を切っているのか、判別がつかないほど弱々しい。
「真央ちゃん、大丈夫?」
自分の声が、やけに遠く感じられる。
「三浦さんなら、きっと……フラット、帰ってくるから。もう少し待ってみましょうよ。」
私はこんな曖昧な答えしか出せなかった。
当の本人は、今、目の前にいるというのに。
「はな……」
一瞬、沈黙が入る。
「……あたし、だめだよ。切っちゃった。パパと約束したのに・・・・・・。」
「え?」
心臓が一拍、遅れて鳴った。
「どうしたの。何を――」
「んー?」
真央は、なぜか軽い調子で声を出す。
「大丈夫。たぶん」
その「大丈夫」は、誰に向けたものでもなかった。ただ、沈黙を埋めるために置かれただけの言葉だと、すぐに分かった。
電話口の向こうで、呼吸が乱れている。言葉の間に、変な間が空く。会話が成立していない。それでも通話は切れない。切らない、というより、切れない。
――切っちゃった。
その言葉が、頭の中で遅れて意味を持ち始める。
切るもの。切れるもの。
私は無意識に、三浦のほうを見た。
彼は、私のすぐそばにいた。ソファの背に体重を預け、目を伏せている。真央の声は、当然、聞こえているはずなのに、彼は何の反応も示さなかった。聞こえていないふりなのか、聞こえすぎて遮断しているのか、そのどちらかだ。
真央の様子は、明らかにおかしい。
さっきから、同じ調子で「大丈夫」を繰り返す。質問には答えない。こちらの言葉も、きちんと受け取っていない。
そういえば――と思い出す。
真央と出会った頃、三浦から聞いていた話。
自傷行為がひどい子だということ。
衝動的で、感情の行き場がなくなると、自分に向かうこと。
それでも彼は言ったのだ。どうにか、まっとうな道に戻したい、と。
私はそのとき、はっきり言った。
私は医者でもないし、専門家でもない。無理だ、と。
それでも三浦は引かなかった。
真央に入れ込んだ。そして、真央も三浦に入れ込んだ。
お互いを必要としているようで、実際には、互いの穴を埋め合っているだけだったのかもしれない。
「真央ちゃん、今どこ?」
できるだけ落ち着いた声を作る。
「誰か、近くにいる?」
「んー……パパから連絡来ないから切るね。」
返事は曖昧で、すぐに別の話題に流れそうになる。通話は切られた。
私はスマートフォンを握りしめた。
でも、このまま話し続けていても、何かが好転する気もしなかった。
三浦は、相変わらず動かない。
まるで、この状況から一歩引いた場所に立っているみたいだった。
その瞬間、私ははっきりと理解した。
この電話の向こうで起きていることと、
この部屋の中で起きていることは、
同じ時間に存在しているのに、決して交わらない。
けれど、本当に必要な人間は、ここにはいない。
真央の声が、また少し遠くなる。
緑青のように、静かに、確実に、何かが侵食していく音がした。




