007 ホラ話と手渡された鍵
夜の露に濡れたマントの端も、とっくに朝は過ぎていてすっかり乾いていた。
「イタイノイタイノ、トンデイクエ」
美カナが呪文を口にすると、瑠フィーダの肩に走っていた棘の傷が、痛みと共に跡形もなく消えた。
「ありがとう、美カナ」
「うん!よく寝たからね。でも昨日は、ほんと危なかったんだよ」
美カナは大げさな身振りを交えて話し出した。
「あいつ、兄さんたちと別れたすぐ後に出てきたんだ。でもさ、絶対もっと前から付けてたと思うんだ。だって、あいつは日が暮れてからしか姿を見せないし、最初は遠くからじっと見てただけなんだよ」
彼女は顔をしかめ、低い声で続けた。
「……あの『プレッシャー』を使うでしょ? そのせいで夜もろくに眠れなくてさ。三日目には夢ムの魔力も尽きちゃって……。それが奴にわかったのかな? いきなり襲ってきたんだ」
美カナの目が瑠フィーダをとらえる。
「今思うと、それも翠コ姉の矢を引き出すためだったんだよね。本気で来たのは昨日で……でも翠コ姉が『碧ラ君たちは、すぐそばまで来ているはず』って言ってくれて……だから、私たち、走ったんだ」
「……何もなくてよかった」
瑠フィーダは安堵の息を漏らし、美カナの頭を撫でた。
「今日も強行軍で都に戻る予定だ。気を抜くなよ」
碧ラが冷静に告げる。
「はーい、わかったよ、兄ちゃん!」
美カナは元気よく答え、仲間たちを笑顔にした。
食事も歩きながら済ませる強行軍を続け、一行が王都キハンへたどり着いたのは、深夜のことだった。
幸い、この大都市では夜でも宿が開いており、しかも今は宿泊客が激減している。理由は明白だ――ほとんどの者がバードマンを追って街を出ているからだ。そのため安く、しかも快適な大部屋を借りることができた。
――そして翌朝。
目覚めた時には、すでに太陽は高く昇っていた。
窓から差し込む光が床に金の帯を描き、香ばしいパンと温かなスープの匂いが空腹を刺激する。二階の吹き抜けから食堂を見下ろすと、長いテーブルには豪華な料理がずらりと並べられていた。
宿の主人に理由を尋ねると、にこやかに笑いながら答えた。
「客の大半がバードマン狩りに出てしまったんでね。せっかく作った料理を余らせるのももったいない。遠慮せず、好きなだけ食べてくれ」
ただで受け取るのは気が引けると碧ラが申し出ると、主人は首を振った。
「キャンセル料で十分にまかなえているから大丈夫さ」
碧ラたちはありがたく席に着き、食事を始めた。
ただの冒険者でありながら、彼らの所作は洗練されている。ナイフやフォークを静かに扱い、食べ残しもない。これは幼い頃からの翠コの厳しい躾の賜物だった。
一番年下のル礼ルも、欲張らずに食べ切れる分だけを皿に盛り、きれいに平らげる。やがてル礼ルと美カナが皆の皿を片付けると、テーブルはまるで誰も食べていないかのように整っていた。
宿を出ようとしたその時だった。
部屋の隅、灯りの届かぬ暗がりから、かすれた声が碧ラを呼び止めた。
「……おい。お前さん、ちょっとこっちに」
そこにいたのは、酒と煙草の匂いが染みついた古びた服を纏う老人だった。皺に埋もれた顔は、どこか遠くを見るような虚ろな目をしている。
全員で耳を傾けるのは得策ではないと判断し、碧ラは一人で老人のもとへ歩み寄った。他の仲間たちは翠コに促され、旅支度のために外へ出ていく。
「どうしたんです? 何かご用ですか」
碧ラが静かに問うと、老人は低く笑った。
「……俺はな、昔はシフカレって街に住んでいたんだ」
耳慣れぬ地名に碧ラは眉をひそめる。老人の舌足らずな発音では、場所の見当すらつかない。
「そこでな、スリや空き巣で食ってた。だが、ある時ふと魔が差して、西の果てまで足を延ばしたんだよ」
老人は、声をさらに潜める。
「驚くなよ……そこには小さな城があった。だが住んでいたのは……人間じゃない。みんなモンスターだったのさ」
碧ラは心中で「やはりホラ話か」と思った。
西の果ては、人が足を踏み入れられる土地ではない。湿地と暗い森が広がり、恐ろしい魔物が跋扈する“禁域”――少なくとも常識ではそうとされている。
だが、老人の声色には妙な真実味があった。
老人の語りは続いた。
「不思議なことに、そこの連中は俺を見ても牙を剥きやしねえ。せいぜい『人間のくせに不細工だな』と笑われるくらいでな……」
皺だらけの顔に、どこか懐かしむような微笑みが浮かんだ。
「調子に乗った俺は、しばらくそこで暮らした。だが、最後にやらかしたのは同じだ。スリだよ。人間なら誤魔化せても、あいつらには通じなかった。すぐに見つかって、町中を追い回されてな……」
老人は遠い目をし、震える手で義足を杖で叩いた。
「……その時の怪我で、もうろくに歩けやしねえんだ」
自嘲するように笑った後、ふっと力を抜いて肩を落とした。
「――まあ、いつもの作り話さ。これで小銭や酒にありつくって寸法だ」
そこへ宿の主人が食事を持ってきた。
「お客さん、もうそれくらいに。日が暮れますよ」
主人は碧ラに目配せして立ち去る。
碧ラは黙って金貨を一枚、テーブルに置いた。
その瞬間、老人の目が変わった。
「……待て」
掠れた声が鋭さを帯び、両手が碧ラの手を強く握りしめる。
掌に押しつけられたのは、ずっしりと重みのある鉄の鍵だった。
「細かい道順は……もう忘れちまった。実際に行けたとしても、もう俺には分からねえ。けどな……深い森のその又奥に、エメラルドに輝く湖のことは……今でも忘れられねえんだよ……」
言い終えると、老人は強く握っていた手をゆっくりと離した。
声は震え、涙を堪えるようだった。
「朝日の中、その湖の向こうに……あの街があったんだ」
独り言の様に言い終えると、老人は壁に寄りかかり、力なく酒を口に含んだ。視線は遠く、もうこの世のものではない景色を見ているかのようだった。
あとがき。
第7話を読んでいただき、ありがとうございます。
王都キハンでの束の間の休息。
しかしそこで碧ラは、ひとりの老人から奇妙な「ホラ話」と、一振りの鍵を託されます。
西の果てにあるという、モンスターの街。
老人の言葉はただの酒場の与太話なのか、それとも誰も知らぬ真実なのか。
仲間とともに選ぶ道は、安寧の帰還か、それとも危険と未知に満ちた冒険の続きか――。
彼らが手にした鍵は、運命の扉を開くのか、それともさらなる混迷へ導くのか。
次回、第8話もぜひご期待ください。




