020 丘を越えて
黄金の獣が、空を飛んだ――。
それは、傷つき、憎悪に駆られた肉の大砲だった。
黄金の獣は、扉の残骸で塞がれた碧ラたちがいる部屋の入口めがけて、そのまま一直線に飛び込んで行った。
悲鳴や怒声は、一切ない。
ただ、岩と金属が弾け飛ぶ凄まじい音が、静寂の広間と部屋の奥まで、爆発的に響き渡っていた。
夢ムとル礼ルが、崩れた足場から落ちて行ったことを、碧ラは見ていた。
だが、それは本当に一瞬のことで、他の四人全員が部屋の奥まで激しく吹き飛ばされたため、そのあとのことはわからなかった。
激しい衝撃の末、美カナは瓦礫の中に倒れたまま、神聖魔法の詠唱を唱えた。
《深き傷は触れた証そして女神への息吹》
それは、まず自分へ来るであろう強烈な攻撃を予想し、それに対する即座のカウンターだった。
美カナが今使える最大魔法は、思ったとおり黄金の獣が突っ込んできたので、すんなり決まった。
美カナの魔法を帯びた手は、黄金の獣の口の中へとそのまま飲み込まれた。
次の瞬間、獣の口の中から、切り裂かれた肉片と、大量の鮮血が吐き出された。
――だが、そのまま美カナの腕を噛んだままだった。
そして、黄金の獣は力の限り美カナの体を部屋の反対側へと投げ飛ばすと、その口には、美カナの腕だけが残っていた。
醜いしわだらけの老人の顔は、美カナの血か、自らの血か、もうどちらの血だか判別できないほど、血まみれだった。
翠コの弓の弦は切れており、もはや武器として何の役にも立たない。
それもあったが、彼女の意識は部屋の隅に投げ飛ばされた美カナのそばへ今すぐ駆け寄りたかった。
だが、「次はお前だ」と言っているような顔で、黄金の獣が近寄ってきた。
瑠フィーダは、瓦礫からでて立ち上がったが、彼の大剣を振るうには狭すぎる部屋だった。
それならばと、突き刺すように黄金の獣の後ろから攻撃を仕掛けるが、まるで背にも目があるかのように、サソリの尾をつかい、大剣の切っ先を完璧にそらしていた。
一方、獣の最初のタックルを一番中央で食らった碧ラは、壁に寄りかかるように、部屋の隅に倒れていた。
ぼんやりとした頭で、自分が立っているのか、寝ているのかすらわからない状態だった。
その視界は砂嵐のように乱れ、指揮を司ることは完璧にできなかった。
獣の突撃によって部屋の崩れた足場から落下したル礼ルは、高所からの墜落にもかかわらず、なかば受け身をとることができた。
しかし、守れたのは身体だけだった。
その頭部からは大量の出血をしていたが、無傷の夢ムが、その傷に手を当て、必死に止血を試みていた。
夢ムに神聖魔法のような回復魔法はない。
ただ、古代魔法を組み合わせ、それ以上の血が出ないように、傷口を無理やり塞ぎ、出血を抑えることしかできなかった。
その時、黄金の獣は今になって、自らのことを思い直した。
思った以上の力をもつ冒険者たちに立ち向かったのは愚かだったが、それすらも考えず戦えたのは良かったに違いない。
この場で力を思うように出せない残った二人にも、サソリの尾から出す毒を既に大量に打ち込んだので、そのうち息をとめるだろう。
もっと確実に止めをさしたい――だが今、動けない。
わずかに呼吸を整え、体の奥に残る力をつなぎ止めようとした。
それだけが、生き残る術だった。
碧ラは、意識は朦々としているが、自分と会話しているようだった。
たぶん、黄金の獣を倒すために、自分は今、立ち上がっている――そのはずだった。
だが、体の感覚はなく、指一本動かしている実感もない。
視界も、光と影の境が溶け合うようで、何を見ているのか判別できなかった。
「これが、自分ではなかったら、誰なんだろう……?」
声は確かに響いた。だが、それが頭の中なのか、外の世界なのかもわからない。
碧ラは、その声だけを頼りに、まだ生きていることを確かめていた。
黄金の獣は意識を失っているようだった。
気が付けば、人間が完全に立ち上がっていたため、驚いた。
「……いつの間に」
彼は、静かにこちらへと歩み寄ってくるだけだった。
黄金の獣には確信があった。
この程度の人間を倒すのは問題ないほど回復はできた、と。
黄金の獣は、確実に――そして一瞬で倒すために、碧らの喉元へ噛みつこうと、その顔を向けた。
その時、獣の聴覚に、突然、男の声が響いた。
「こんな所にいたら何年かかるかわからないから……すまないね」
この男の声か……?
突然の知らない声に一瞬、黄金の獣の動きが止まった。
そして、胸の奥で、何かが途切れた。
それは――心臓が止まっていたためだった。
碧ラの意識が、はっきりと戻った。
彼の目の前には、横たえられた黄金の獣がいた。獣はもう動かない。
自分の手には、瑠フィーダの荷物の中にあった装飾品の短剣を握っている。
それは、温かい血に濡れていた。
どうなったのかは、わからない。
自分が何をしたのか、なぜ立っているのかも。
ただ、胸の奥に、微かな熱だけが残っていた。
そんなことを考えている暇などない。
皆を助けるのが最優先だった。
毒を打たれた翠コ姉さんと瑠フィーダは、顔色が悪く、唇の端から泡を吹いていた。だが、まだ息があった。
キィたちが集めてきた虫を、碧ラはためらいもなく噛み潰し、その液を二人の口元へ流し込んだ。
生臭く、苦い匂いが広間に広がる。だが、迷っている時間はない。
キィキィが、毒の中和方法を教えてくれたのだ。
意識を取り戻した翠コは、すぐに美カナのもとへ駆け寄り、切断された腕の手当を始めた。
止血をし、息を整えさせながらも、美カナは意識を取り戻すと、真っ先に自分のことより、この部屋にいないル礼ルの安否を気にした。
碧ラも、もちろん皆のことが心配だった。
だが、今は現実的に、回復させる順番をつけなければならない。
崩れた床の下――ル礼ルと夢ムが落ちていった場所へ着いたとき、みんなは言葉を失った。
そこには、上半身が血に染まったル礼ルの姿があった。
その瞬間、誰もが“遅かった”と思った。
「平気だよ~月が見てるからね~」
夢ムが抱きかかえながら、ル礼ルの弱い鼓動をつなぎとめていた。
その手からこぼれる淡い光が、まるで月の雫のように揺らめく。
誰もが、その神秘的な魔法に言葉を失い、ただ感謝した。
やがて、美カナの神聖魔法が唱えられると、ル礼ルの傷はゆっくりと癒え、
流れ出た血さえ、元の体へと還っていった。
その癒しは、傷だけでなく、ここにいる皆の心にも静かな安らぎを与えた。
「美カナ……腕が、ないよ……」
気づいたル礼ルが、震える声で言った。
「大丈夫だよ~生えてくるからね~」
夢ムがにこやかに言うと、ル礼ルはほんの少し笑って、それを信じた。
「生えるわけないでしょ! くっつけるから、平気だから!」
美カナが夢ムの冗談を慌てて訂正し、周囲の空気にわずかな笑いが戻った。
冒険者として立てなくなるほどの致命傷は、どうにか免れた。
呪いも運命すらも、この仲間たちなら乗り越えられる――碧ラの胸には、確かな信念があった。
数日休めば、また旅立てるだろう。
碧ラは、月の光を浴びながら、巨大な洞窟の出口に立ち、静かに外の世界を見つめた。
目の前に、丘はなかった。
そこには、見渡すかぎりの雄大な森が広がっていた。
洞窟から激しく流れ出た水は、森の奥を縫うように進み、やがて静かな湖へと姿を変えていた。
「湖の先にある街とは……あれのことか」
碧ラは、夜の闇に目を凝らした。
月明かりに浮かぶその光は、自然の灯りとは思えないほど整然としていた。
規則正しく並ぶ明滅が、まるで星座のように地上を照らしている。
その光は、彼らの次なる目的地を――
静かに、確かに、示していた。




