2-4 初仕事
2-4 初仕事
「野兎、こんなに育っているのなら、この子にも働いてもらうよ」
奥にいた老婆が、重みのある声でそう言った。
「ええ、元よりそのつもりです」
野兎が私の背を軽く押し、老婆の前へ進ませた。
「顔が良くてもねぇ、力がなきゃ使えないよ。あんた、何ができるんだい?」
野兎は少し困ったように笑った。
「力仕事は……まあ、特に。
でも文字は書けますし、子どもたちに読み書きを教えるくらいなら」
「そりゃあんたに頼むつもりだよ。
もう年だし、そろそろ隠居しな。
こっちは若いんだ、身体を使ってもらいたいねぇ」
そのやりとりを、私は半ば当事者でありながら、ただ黙って聞いていた。
すると、私の背後からぱたぱたと駆ける音がして、少女の声が弾んだ。
「はい! じゃあ、私の仕事、手伝ってもらってもいい?」
清空だった。私の背中から回り込むようにして前に出て、元気よく手を挙げている。
「力仕事だし、今は私しかやってる人いないから、ちょうどいいなって!」
老婆はちらりと清空を見て、そして私を見た。
目を細めて、しばし沈黙したのちにうなずいた。
「……まあ、いいだろう。清空、お前がちゃんと面倒を見るんだよ」
私は目で野兎に問いかける。
(いったい、どんな仕事なんだ?)
だが野兎は、私の視線に気づいた様子もなく、
私と清空を交互に見つめて、少しだけ口元を緩めた。
「あの頃、俺の影に隠れてた子が、な……。
大きくなったもんだ」
そう言って、どこか感慨深そうに笑った。
誰からの説明もないまま、私の村での初めての仕事は決まってしまった。
清空は「じゃあ、また広場でねー!」と手を振りながら、昼食をとりに駆けていった。
一方、私は野兎に言われるまま、先ほどの老婆の家で食事をとることになった。
あの距離を往復せずに済むのは助かるが、代償は高くつきそうだ。
老婆──村の長は、箸を動かしながらぽつりぽつりと村の掟について語り始めた。
薄暗い室内には、焼き味噌の香ばしい匂いと、長の掠れた声だけが漂っていた。
……この村は、人間を知ろうと願う龍と、龍と共に生きることを決めた人間が住む村だ。
そして、いくつかの掟がある。村と龍を守るための決まり事だ。あんたにも、守ってもらわなきゃならん。
1. 村の存在や入口(泉と石碑)とその力の存在は、外に漏らしてはならない。道筋もまた同様とする。
2. 二十歳までは、長の許可なく外へ出てはならず、龍とも外では関わってはならない。
3. 龍に学んだ魔法は使ってよい。ただし、その出処・記録・教授を禁ずる。
4. 村内での争いは慎むこと。やむを得ぬ場合は、龍の立ち会いのもと勝負で決める。
ところどころ、長自身の意見が混ざっていたようにも思えたが、私は顔を変えずに黙ってうなずき続けた。
話が終わると、不機嫌そうな顔で椀を片付けながら、呟いた。
「まあ、あんたが二十を越えてるなら、村を出ていくのは自由だけどね」
そして横から野兎が苦笑混じりに言葉を重ねた。
「男ってのは、夢だの理想だのに弱いからな。すぐ外へ出ていきたがる」
その顔を見た瞬間、
私は昨夜の「放蕩息子だった」という言葉を思い出し、呆れた目線を横に送った。
昼食を終えた後、野兎と2人並んで広場に戻ることにした。
「いろいろ覚えることばっかで、今日は疲れたろ。……まあ、焦らず少しずつ慣れていけばいい」
野兎がそう言って笑った直後、ふいに小さく咳き込んだ。
「……っ、こほっ……ごほ……」
「大丈夫か?」
「ん、大丈夫。ちょっと埃っぽかったな。……すまん、変な心配かけて」
一瞬眉を寄せた野兎は、
何気ないふうに手を振ってみせたが、口元をぬぐう仕草はゆっくりだった。
私はそれ以上何も聞けず、ただ並んで歩いた。
(……いつもと、少し違う?)
けれど、野兎の背はいつも通り、まっすぐだった。
「知人に挨拶してくる」と言い残して広場の前で背を向ける野兎を、少しの不安とともに見送った。
私は広場の隅、木の根元に腰を下ろし、清空が来るのを待った。
まぶたが重い。ほんの少しだけ、目を閉じる。
遠くで風の音がした。近づいてくる音。
目を開けると、空に龍の姿があった。
本当に、龍がいる。
その鱗は陽光を受けて煌めき、蒼い空と緑の山の間を、淡い水色の身体が優雅に舞っていた。
見とれていたのも束の間、その龍がこちらに向かってくることに気づいた。いや──明らかに、私めがけて。
慌てて飛び起き、建物の陰に逃げ込もうとした瞬間、空から声が響いた。
「朱映〜、迎えに来たよー!」
空が翳り、広場に大きな影が落ちる。
すぐそばに、その姿が降りてきた。
その前脚の上に立つ清空が、太陽のような笑みで手を振っている。
風がひゅうっと駆け抜けた。
空色の龍──アズールが、私の目の前にふわりと舞い降りた。
「やっぱり朱映ってば、すぐびっくりするんだね〜!」
「……うん、跳ね起きてたよ。ちょっと面白かった」
アズールの無邪気な言葉に、清空が少し笑いながら私の方を見る。
二日続けて、またこの村で狼狽してしまったらしい。
また一つ、私の臆病話が村中に広まるのだろう。
……臆病ではない。
そう言いたかったが、それすら虚しく思えて、私は目を閉じた。
私の仕事は、龍のお世話係だった。
この村には現在、三体の龍が滞在している。
無邪気なアズール。
穏やかなルスカ。
思慮深いオーリス。
──そして、この仕事がなぜ体力仕事なのか。
それは、主にアズールの“お願い”のせいだった。
アズールは、人間がどこまで何ができるのかを知りたがった。
自分には簡単でも、人間には難しいことがある──その違いが不思議で仕方ないのだろう。
崖登り、鬼ごっこ、龍の爪につけた紐を握っての空中散歩。
清空は魔法の力でそれらをこなしていたが、魔法を使えない私は、すべて身体で受け止めるしかなかった。
アズールは、清空にできて私にできないことを、より一層不思議に思ったらしい。
「この縄につかまって。ぎゅっとね」
そう言われて掴んだ直後、アズールが飛び立ったときは、本気で死ぬかと思った。
握力だけでは数秒も持たず、私はすぐ落下。アズールの前脚の上にいた清空が慌てて魔法で縄を私に巻きつけ、宙吊りのまま散歩を強行された。
アズールがようやく「できないのー? 不思議ー」と気づいて飛行をやめるまで、その状態は続いた。
初日が終わる頃には、全身の筋肉が悲鳴を上げ、布団に倒れ込むのがやっとだった。
「また明日ね〜!」
無邪気にそう言い残し、私を家の前まで送り届けて、アズールは風の中へ消えていった。
夕焼けに染まる空を、空色の鱗が小さく遠ざかっていく。
私は玄関にもたれながら、その背中を見送った。
魔法が習えるなら、絶対に習おう──と、心に誓いながら。
そしてその機会は案外早く訪れたのだった。
……思ったより、すぐに。
—
──その夜、村の奥。小さな書斎に灯る燭火が、古びた机をぼんやり照らしていた。
長は報告書の束に目を落としながら、深いため息をついた。
(……野兎が、朱映を連れて戻ってきたか)
王宮に入り込んだ唯一の人材を失った損失は、大きい。
もう帝都の中枢へ手を伸ばす術は断たれた。
だが、それと引き換えに連れ帰ったのは──あの皇子だ。
(彼がどちらに転ぶかは分からぬ。不確定な芽ではあるが……)
もしこちらの土に根付いたのなら、村の未来を動かす天秤になりうる。
「……静かに育てることだ。見誤れば、潰れる」
そう呟き、長は筆を置いた。
燭火がかすかに揺れた。