2-3 龍の村の少女
2-3 龍の村の少女
翌朝、目を覚ますと、野兎の姿は家の中になかった。
窓から差し込む日差しがやや眩しく、寝過ごしたと気づく。
昨晩の疲れが、まだ体に残っている。
桶に汲まれていた水で顔と手を拭い、木の扉を開いて外へ出る。
そこには、驚くほど長閑な風景が広がっていた。
山々は連なり、空の高みにわずかに雲がかかっている。
棚田が陽光を受けてきらきらと輝き、その間に小さな作業小屋が点在していた。民家はまばらで、静けさが支配している。
「……あっ」
小さな声が聞こえ、そちらを見ると、私より少し年下の少女が木陰からこちらをうかがっていた。
「おはようございます」
とりあえず無難に挨拶をする。村人だろうか。
少女はぱっと木の影から出てきて、にこやかにお辞儀をした。
「おはようございます!
あの、私……アズールから聞いてきたんです。
野兎さんのところに“朱映”っていう臆病な男の子が保護されたって……それで、何かお手伝いできないかなって。
ごめんなさい、突然……朱映くんはいますか?」
──アズールを見て気絶したことが、どうやら村中に広まっているらしい。
「あ、あの……私、清空です。あなたは……どなたですか?」
“朱映”が小さな男の子だと信じている年下の少女に、成人男性である私が«朱映»であると名乗らなくてはならないらしい。
できるなら、この場で気を失ってしまいたいと感じた。
私は──彼女の想像を壊した後の視線が、少し怖かった。
清空は、隣で一生懸命に私を慰めていた。可愛らしい少女だ。
だからこそ、辛い。
この子の中で私は、きっともう「頼りない男」に分類されてしまったのだろう。
「朱映さん、大丈夫ですよ。
初めて龍をあんな間近で見たら、
大人でもびっくりします。わかりますよ。
臆病な男の子みたいだから、
みんなで気にかけてあげてって……アズールったら、
そうやって広めちゃったんです
アズール優しいんだけど、ちょっとずれることあるんです」
清空は優しく笑みを浮かべ、そっと私の腕に触れた。
完全に、子ども扱いされている。
まるで、野兎が二人に増えたかのようだ。
私は曖昧に微笑んで、それに応じた。
清空が野兎の居場所を知っているというので、私は彼女と並んで歩き始めた。
村には、緑と点在する家々のほか、目立った建物もない。
何がどこにあるのか、外から来た私にはまるで見当がつかなかった。
水を湛えた棚田が陽を反射して眩しい。
そのあぜ道を歩いていると、ぴょん、とカエルが跳ねるたびに、清空が驚いて道の端を行ったり来たりしていた。
「カエル、苦手なのか?」
「うん、水田の方には、あまり来ないようにしてるの。
龍の降り立つ広場とか、あっちの果樹園の方に私の家があるのよ」
そう言って、遥か遠くの木々を指差す彼女を横目に見る。
──もしかすると幻の“朱映”、小さな臆病な子のために、わざわざ家の近くで待っていてくれたのかもしれない。
こんな可愛げのない男が出てきた時の彼女の心境を考えた。
けなげに笑顔を見せる彼女に、少し申し訳ない気持ちになった。
気づけば清空は私の腕にすがって、カエルを避けながらぴょんぴょんと道を進んでいる。
「清空って、“空”がつくんだな」
沈黙が気まずくて、つい、思いついた言葉を口にしてしまった。
清空はぴたりと足を止め、驚いたように私を見た。
その瞳には、一瞬だけ戸惑いの色が浮かぶ。
(……まずかったか?)
私も足を止める。
“空”という名に、この村特有の意味があるのだろうか。
帝都では“空”の字は皇族にのみ許され、市井の民が名乗ることなど決してなかったが──。
清空の目がふと揺れ、やがて微笑みに変わる。
「そっか……まだ、知らないことばっかりだもんね」
安心したように息をつきながら、彼女は続けた。
「びっくりした?
“空”ってね、龍が人間に名前をくれるときに、よく使う字なの。
私の名前は、ボレアルっていう龍がつけてくれたの。赤ちゃんのころね。素敵でしょ?」
遠くを見つめるようにして語る清空に、私は内心の驚きを押し隠しながら、ただ肯定の言葉を返すしかなかった。
(“空”が、龍のつける名……)
それならなぜ、帝都では“空”を皇族のみが……、独占か?
龍との繋がりを吹聴し、民衆に対して優越を誇示したかった、それだけかもしれないな。
なんとくだらない。
私は長閑な村道を歩きながら、はるか遠くの皇室の闇に、ぼんやりと考えを巡らせていた。
小一時間ほど歩くと、開けた広場のような場所に出た。
道中、誰にも出会わなかったが、そこには数人の村人が集まっていた。
──村には、野兎と清空と私しかいないのでは。
そう思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
その中の一人が手を振ってきた。
野兎だ。村にあまりにも自然に溶け込んでいて、すぐには気づかなかった。
「野兎さーん、朱映さんを連れてきたよー!」
清空は跳ねるように駆けていき、野兎の隣に並んで手を振る。
「ありがとう、清空。助かった。そろそろ迎えに行こうかと思ってたところだ」
「……あれ? 思ったより大きいな」
「アズールの話じゃ、もっとこう……な?」
「でも、男手としては助かるわ」
村人たちの囁きが耳に入る。
私は何も言わず、ただ礼儀として微笑んで立つ。
まるで、見せ物のように。
初夏の山村は、緑が鮮やかだった。
この場にはいない、美しい水色の龍に、
私は心の中で、静かに文句を並べていた。