2-2 野兎
2-2 野兎
目を開けると、木組みの天井が見えた。
ここはどこだろうか。見知らぬ部屋に、思わず身構える。
簡素な寝台からゆっくり起き上がり、部屋を見渡す。
寝台と机、衣櫃、そして木の引き戸があるだけだった。
窓はなく、引き戸の隙間から淡い光が漏れている。
いつの間にかまた夜なのかもしれない。
いったいどのくらい気を失っていたのだろう。
野兎の姿が見えず、警戒心がさらに強まった。
ゆっくり足を床につけようとすると、包帯が巻かれているのに気づいた。
潰れて擦れて血が滲んでいた足の指や裏は、丁寧に手当てされていた。
引き戸の向こうから、焚き火のはぜる音がかすかに聞こえる。
人の気配がある。
何か武器になりそうなものがないかと、視線を机に走らせた。
机の上には、背負っていた袋と腰に隠していた小刀が置かれていた。
小刀を手に取り、袋を背負おう。
引き戸の横に草鞋が置かれているが、明らかに動きを制限されそうだ。
裸足よりはましだろうと草鞋に近づいたその時、引き戸の向こうから声がした。
「朱映、気がついたのか?」
野兎だった。
私は少し息を吐き、背中の袋を置いて、小刀だけを腰紐に差し込んだ。
「……野兎、起きたよ」
声をかけながら引き戸を開けると、かまどのそばに野兎の姿があった。
火にかけられた汁からは美味しそうな香りが立ち上っている。
私は、自分が空腹であることに気づいた。
「そこに座って、食事をしなさい。
丸一日眠っていたから、お腹が減っただろう」
野兎は汁を注いで、手招きした。
私はかまどの横に座り、差し出された椀と箸を受け取り、汁を啜った。
美味かった。
記憶の中の豪華な料理よりも、この質素な汁が美味いと感じた。
平らげた椀を持ち、野兎を見つめた。
軽く頷く野兎から木べらを受け取り、自分で椀に汁を注いだ。
「食べながら聞いてくれ。長い昔話だ」
野兎の声が部屋に静かに響いた。
かまどの火だけが、部屋の輪郭を赤く滲ませていた。
だがその表情はよく見えなかった。
---
芙蓉──それがお前の母の名前だ。
聞いたことくらいはあったか? 美しい娘だったそうだ。
俺は小さい頃しか会ったことがないからな、よくはわからない。
俺か? お前の母親の叔父だ。
芙蓉の父親の玉稿が、俺の兄になる。
だから、俺はお前の親戚のおじさんってわけだ。
玉稿──その名を覚えておけ。
反逆罪で粛清された男だ。
玉稿が粛清されたのは、帝国による龍支配の風習崩壊を目論んだからだ。
龍を鎖で縛るような、そんな在り方を壊そうとした。
帝国はそれを許さなかった。
思想ごと、一族すべてを消した。
お前が芙蓉と引き離されたのは、そのせいだ。
芙蓉はお前の将来を悲観したのだろう、まだ赤ん坊だったお前を切った。
そうだ、お前の背中の傷は……芙蓉がつけた。
……知っていたか。そうか……。
俺はな、放蕩息子だった。家のことも、龍のことも、気楽に考えていた。
玉稿が粛清された時、親類縁者の男子は、0歳の子供まで殺された。
財産は没収され、残された女たちも保護されることなく、
花街に身を落とした者も多かった。
お前が生き残った理由?
……そうだ、龍支配の為だ。
帝国の礎にして、呪いだ。
お前も知っているだろう、皇子が龍を捕らえることで帝の資格を得る。
だが、龍を捕まえる任務はほとんどが死ぬ。
だから、予備が必要だった。
芙蓉の子であっても、玉稿の血を引いていても、
「使える駒」だったから残されたんだ。
……そしてお前は、その崩壊を狙った家系の男子が、
龍支配の継続のための“予備”として残された。
皮肉な話だ。
俺は、その時たまたま他国にいた。
だから殺されなかった。
名も捨てた。
野兎──それが俺の名だ。
もとの名は、もう覚えていない。
一族とともに粛清された名前だからな。
生き残った俺は、その残りかす、ただの野兎だ。
帰国して最初にしたのは、一族の女たちを保護することだった。
既に他の男に嫁いだ者、死んじまった者も多かった。
龍の村に連れてこられたのは、子供も含めて十人にも満たなかったよ。
そんな目立つ行動をしていれば、いずれ捕まる。
俺は王宮の騎士に捕らえられ、後宮の奥へと連れて行かれた。
そこにいたのが翡翠空だった。
そうだ皇帝の正室であり、お前の養母だ。
彼女は俺を見てこう言った。
「芙蓉の縁者ですね」
俺はもうどうでもよかったから、うなずいた。
……危ないって?もう俺が死んで苦しむ人間なんて一人も生き残ってなかったさ。どうでもよかったんだ。
翡翠空は、小さな子どものいる部屋に俺を連れていき、言ったよ。
「あなたが抱きしめてやって」
俺と子供を二人きりにして、翡翠空は去っていった。
……そうだ、お前だよ、朱映。
部屋の隅で怯えて泣いていたお前を見て、後悔したんだ。
兄貴も、親も、芙蓉も、自分の信じた道を貫いて死んだ。
俺は可哀想だなんて思わなかった。
でも、お前だけは違った。
何も選ばず、ただそこに置かれていた。
だから俺は決めたんだ。
この残りの命、お前のために使おうってな。
---
野兎の声が途切れ、火がはぜる音だけが部屋に響いていた。
沈んだ声が、落とされた。
「俺のことは、これからなんて呼ぼうが構わない
場所が変わろうが、俺にとってお前は守ってやらなきゃならん朱映であることに変わらん。
お前は自分がどう生きたいかは自分で決めろ。
だが、決める前に王宮以外の世界も見てから決めて欲しいと願うだけだ」
私は箸を置き、静かに口を開いた。
「お祖父様と叔父様、どっちで呼ばれたい?」
野兎は顔を上げて、呆れたように私を見た。
「野兎のままがいい……」
少し間を置いて、ぽつりと口を開く。
「私は……龍支配を壊すために皇族に送り込まれた、道具だったのだろうか」
野兎は目を伏せ、火の消えたかまどを見つめたまま、答えた。
「──芙蓉や兄貴の考えていたことなんて、俺にはわからん。
でも、俺は“誰かの道具”としてじゃなくて、
朱映空という“ひとりの命”を守りたかった。
それだけは、信じてほしい」
私はその言葉が、慰めではなく、真実だと感じた。
「わかった、野兎。
これからもよろしく。
私は……生活能力なんてないぞ。
全部、教えてくれ」
笑う声が部屋に響いた。
「結構、話す勇気いったんだぜ?
……もう寝ろ。
明日、村の奴らに紹介する」
再び部屋へと押し込まれる。
「着替え、衣櫃に入ってるから着替えろよ。
替えの布もある。汚れた服で寝てたから、気持ち悪ければ自分で変えろよ。
俺は手伝わないからな」
そう言って、かまどの火を消し、鍋を抱えて土間へ向かう野兎の背中を見送った。
世話焼きなのは、性分かもしれないなと、私は思った。
着替えながら、ようやく逃走の日々が終わったことを実感した。
……あの、水色の美しい龍に、明日また会えるだろうか?
今度は気を失わないように、己を叱咤した。
二度、同じ失態はしない。
そう心に決めて、床についた。
──翌日、別の形でまた恥をかくことになるとは思いもよらずに。