2-1 朱色の瞳に映る空
2-1 朱色の瞳に映る空
皇降崖での祈りを終え、私たちは黙って山道を登り始めた。
誰かに見られているような気配に耳を澄ますが、
冷たい風が山の間を吹き抜け、木々がざわめく音が届くだけだった。
その日は干し肉を噛んでも、味はぼやけてただ味気なかった。
崖から落ちて死んだ烈鋭空と、崖から突き落とされても生きている私の間に、
生死を分けた決定的な違いはあったのだろうか。
野兎がいるかいないかの差か。
だが烈鋭空にも、命を賭けて助けようとした近従がいただろう。
…きっと差はなかったのだ。
私はただ、生きているだけ。
ならば――何を食べてでも、生き残ると決めた。
姿の見えない追跡者の影に怯えながら歩き始めてから約十日、深い森の奥に静かな泉が姿を現した。
月明かりに照らされた水面は黒く澄み、周囲の岩肌には苔がしっとり絡みついている。
野兎は泉のほとりにしゃがみ込み、疲れたように息を吐いた。
私はその表情をじっと見つめた。
「龍の村入り口がここです」
野兎が静かに湖面を指さす。
私はただ、底も見えない水面を見つめて息を吐いた。
「水の中に入りますが、
はぐれたら危ないです。
離れないよう、縄でつなぎましょう」
この水の中に?
躊躇はしたが、行くと言うなら仕方がない。
私は黙って、野兎の差し出した縄を手に取った。
結び目を作る指が少し震えている。
それでもこの綱を手放せば危険なのはわかっていた。
自分の腰にできるだけ強く結びつけた。
もう一端は野兎の腰に巻かれている。
ひんやりとした空気の中で、縄の張りが緊張感をもたらしていた。
「できる限り、私の近くにいてください」
そう言って、野兎は泉のほとりに立つ古びた石碑に手を触れた。
静かに、聞き慣れない言葉を呟く。
その声に応えるように、一陣の風が私たちを包み込んだ。
「行きましょう」
野兎が静かな水面に足を踏み入れた。
足を入れた場所だけ、水が割れるように水底が現れる。
信じられない光景だった。
空気の壁が野兎の体をすっぽり包み、水を遠ざけていた。
水中を自由に歩く彼のすぐ隣を歩き、深呼吸をする。
野兎を信じてついていくしかなかった。
泉は想像以上に深く、底は見えなかった。
それでも空気の壁のおかげで、
水中で息をしながら歩くことができた。
体は一滴も濡れない。
恐る恐る手を伸ばし、
空気の壁の外側に指を触れる。
ひんやりとした水の感触が伝わってくる。
魔法……。
知識としては知っていた。
だが目の前のそれは、まったく別物だった。
指先が震える。
思わず野兎の顔を見上げる。
帝都では龍の神官だけが魔法を使う。
だが、これほど強い魔力を放つ魔法は、式典でも軍の演習でも見たことがない。
胸の奥で何かがざわめいた。
恐怖とも、畏敬ともつかぬ感情に身体が支配された。
「説明はあとにします。
効力が長く続かないので、急ぎましょう」
水中にいても、野兎の声は驚くほどはっきり聞こえた。
私はつながった縄をきつく握りしめた。
彼は静かに、泉の底にある暗い横穴へと歩みを進め、
私はその背を追った。
まるで魔法の中に迷い込んだような、夢のような心地だった。
何度目かの分かれ道の先に、上へと続く階段が現れた。
いつの間にか朝になっていたのだろう。
階段には光が差し込み、壁に敷き詰められた色鮮やかな陶板が仄かに輝いていた。
――人がいる。
そう感じた。
野兎は励ますように私の肩を軽く叩き、
二人で慎重に階段を登り始めた。
光が強くなっていく。
水面から抜けるとき、私は思わず目を閉じた。
そのまま一歩、二歩と階段を上がる。
野兎が隣で立ち止まるのを感じ、恐る恐る目を開けた。
目の前に――
深く輝く朱色の瞳があった。
水色の鱗を持つ龍が、水道の出口に佇み、じっと私たちを見つめている。
「野兎とー、知らない人ー」
どこからか、可愛らしい子供の声がした。
水道のまわりには、さまざまな花が咲き乱れ、
光を浴びた水色の鱗は眩しいほどに輝いていた。
まるで絵画のように美しく――
まるで神のように、神々しかった。
私はただ、まっすぐに朱色の瞳を見つめていた。
野兎は親しみのこもった声で言った。
「アズール。お久しぶりです。
お変わりはありませんか?
こちらは、私の親族の朱映です」
龍は地面にぺたりと顔を伏せた。
最初は驚きすぎて気がつかなかったが、
帝都にいる縛られた龍や、道中で見かけた龍たちよりも、
体色はずっと淡く、体も二回りは小さいように感じた。
「朱映かー。名前だけは知ってるよ。
ようやく保護できたの?
はじめまして。怖くないよ。
……アズールだよー」
その声が目の前の巨大な龍のものだと気づき、
思わず息を呑んだ。
空腹、疲労、混乱。恐怖と畏怖、そして――言葉にならぬほどの陶酔。
それらがいっきに押し寄せて、私は意識を手放した。
遠くで、野兎と子供の声がする。
アズール。空色の龍。
私が初めて言葉を交わした龍であり、
未来の私にとって――唯一無二の、絆を結ぶたったひとつの龍だ。






