1…5 皇降崖
1-5 皇降崖
月のささやかな灯りだけを頼りに、私たちは暗闇の中を歩き始めた。
川の浅瀬をしばらく進んだのち、森の中へ入っていく。
月の光さえ届かない森の奥は、まるで底の知れない深淵だった。
湿った土の匂いと虫の声、そして肌にまとわりつくような冷たい空気。
野兎が踏む枯葉の音だけが、やけに大きく耳に残る。
野兎は暗闇をものともせず、迷いなく進んでいた。
時折、木に結ばれた紐を確かめるように手探りで触れる。
――いつから、どこまで準備していたのだろう。
そんな疑問が頭をよぎったが、足元に気を取られ、深く考える余裕はなかった。
根に足を取られぬよう慎重に進みながら、野兎に声をかける気力すら湧かない。
そのとき、不意に風を切るような鋭い音が響いた。
野兎が無言のまま、木々の隙間を指差す。
その先――
空を覆い尽くすかのような巨体が、月明かりの下を悠然と舞っていた。
龍だ。
繋がれていない、野生の龍を初めて目にする。
見上げることすら怖いと思った。
月の光を受けて銀色に輝く鱗、その一枚一枚が刃のようだった。
声も出せないまま、私はただ立ち尽くしていた。
夜に歩き、昼間は隠れて眠る生活が続いた。
保存食の硬いパンや干し肉を口にできるのは、夜中の休憩時の一度だけ。
行軍演習では、あまりの塩辛さに二度と食べたくないと思っていたが、今ではそれが一番の贅沢品だ。
他には、泥臭いキノコやサワガニ、水草を食べ、
運が良ければ山の果実や川で捕れる小魚やヘビを口にした。
薄暗い森や川で得られるものはすべて食べ尽くしてきた。
今はもう、ただ意地だけで野兎の後ろを追っていた。
行軍演習など、今思えばただのお遊戯だった。
野兎と私は四十歳以上も年が離れている。
食料調達や寝床の確保も全て野兎に頼り切っていたのに、私の歩みは野兎のペースを落とさせた。
野兎が振り返って足を止め、私を待つたびに、自分の不甲斐なさに憤った。
全身の痛みをねじ伏せて、ただ足を動かした。
歩き始めて七日目。
野兎が突然、足を止めた。向かいの山の崖を、苦しげな目で見つめている。
私は追いつき、野兎がいつもより早く立ち止まったことに戸惑った。
「野兎、何かあったのか」
野兎は振り返る。しかしその目は、私ではない、もうこの世にいない誰かを探しているようだった。
「あれが、皇降崖です」
私は思わず息を呑む。
皇降崖――龍捕獲の祭壇へ向かう道中で、最大の難所。
幾多の皇子の命を、そして烈鋭空の命をも奪った崖。
切り立った岩肌の巨崖。
一歩足を誤れば、命はない。
『――兄上こそ、お気をつけて』
弟・烈鋭空が私に向けて言った、震える声が耳に蘇る。
無念だったろう。生前も、今も、私はあいつに何一つしてやれなかった。
目を閉じ、心の中で祈りを捧げる。
そのとき――
山のあいだから吹き抜ける風が、まるで龍の咆哮のような音を響かせた。