1-4 逃走
1-4 逃走
その瞬間は、すぐに訪れた。
月明かりの中、野兎の剣が振り下ろされ――
その刃は私に届かず、柄で胸を強く突いた。
声も出せぬまま、仰向けに崖の下へと落ちていく。
視界には、崖と蒼白く光る月だけが映っていた。
遠くで、水音が弾けた。
騎士たちは驚き、崖の上から身を乗り出そうとしたが、縁に広がる血を見て一瞬足を止めた。
「野兎様、遺体を持ち帰らなくても大丈夫なのですか?」
一人が問うと、野兎は肩をすくめ、気だるげに野営地へ向かって歩き出す。
「助からねぇよ。……そんなに言うなら、俺が遺体を探す。
お前らは桂花様に完了報告をしに先に戻れ」
騎士たちは暗い崖下を覗き込むが、そこには深い闇が広がるだけだった。
頷きあった彼らは剣を納め、野兎の後に続いて森へと消えていく。
「烈鋭空様が死んだら、か……」
「蒼識空様が成人されるまで、龍が持てばよいが……」
森の中に誰ともしれぬ声が沈んでいった。
崖の上には、生ぬるい風が吹いていた。
物音一つない静寂の中、月明かりが土に残った足跡をぼんやりと照らしていた。
落ちていく。
背中の傷が痛む。『誰も信じるな』――頭の中で誰かの声が囁く。
要らない命だったのか。そんなにも。
「なぜだ」
悔しい。苦しい。
どうしてこんなにも私は愛されないのだ。
背中の傷だけが私に与えられた唯一の愛なのか。
誰も答えることのない問いを、心の中で叫ぶ。
バシャーン。
大きな水音を立てて、背中から水に落ちた。
ひやりとした水の感触が全身を包み、思わず目を見開く。
真夏の川は意外なほど冷たく、けれど心地良いくらいだった。
一瞬、痛みを忘れる。
口と鼻に水が入り、慌てて手足をばたつかせる。
流れに引かれそうになり慌てたが、意外と簡単に身体は水面に浮いた。
背中と腰、胸に付けた袋が浮き袋のように水を押し返し、何もしなくても体がぷかりと持ち上がった。
呼吸を確保しながら、荒く息をつく。
野兎の声を思い出した。
『この荷物は背負って頂きます……万が一の際に、貴方を守るでしょう』
――あれは。
あれは、そういうことだったのか。
何を考えているんだ、野兎……。
しばらく川の流れに身を任せ、ただ流れていった。
やがて流れが緩み、川は浅瀬となった。
川岸に、ゆっくりとカンテラの光が回っているのが見える。
私は立ち上がり、ゆっくりとその光に近づいた。
その先にいたのは、いつもの笑顔を浮かべる野兎だった。
「何を考えているんだ」
「怪我はないですか?
着替えを用意しました。
早めにその服を脱いでください」
野兎が差し出してくる手を振り払った。
「説明が先だ」
「五対一で守りきれる自信はありませんでした。
申し訳ないですが、死を演出する必要があったんです」
「二対五だろ?」
まるで子供扱いだ。
屈辱を噛みしめながら、野兎の渡してきた服を広げる。
肌触りが悪く、縫製も粗末な服だった。
横目で野兎を見やると、馬の尻を叩いて森へ逃がしていた。
振り返った野兎の姿は、先ほどと違い、市井の農民のような変装だった。追っ手の目をくらますためか……。
私は観念して、服を脱いだ。
「下着も全部ここに捨てます。
馬も放します、足跡は消せませんからね。
騎士たちが戻る前に離れましょう」
野兎は私の着替えを手伝い、脱いだ服を懐から取り出した袋の血で汚し、剣先に垂らしてから切り裂き、手でちぎって川に流した。
「死体も用意できれば良かったんですが……まぁ、これで少しは勘違いしてくれると助かりますね」
私は野兎を見つめた。
「どこへ向かうのだ」
野兎は浅瀬を進みながら答えた。
「龍の村です。
外の人間は滅多のことでは、入れませんので」
龍……。
言いしれぬ恐怖と不安を抱え、私は野兎の後を追った。