1-3 裏切り
1-3 裏切り
帝都を出立して約六日。宿泊する街の規模は徐々に小さくなり、行き交う人々の数もまばらになってきた。
もうすぐ国境が近いのだろう。すなわち、龍の住む場所に近づいているということでもあった。
日は高く、蒸し暑い。
馬たちも疲労が溜まっているのか、列から遅れ始める個体も出てきていた。
水面に反射する太陽の光が、きらきらと目の端を照らす。野兎の声が響いた。
「一度、馬に水を与えましょう。ここで休憩を取ります」
背後の巨石には一人が張り付き、前方には二人が警戒態勢を取っている。
残る二人は馬の世話をしながら、ちらちらとこちらの様子をうかがっていた。
野兎は、私の荷物の整理と入れ替えを隣で黙々と進めている。
「騎士たちは休まなくてよいのか? それに、私の荷物を減らす必要もない。馬に積めば済むことだ。お前の馬の負担が増すだろう」
野兎は手を止めず、落ち着いた声で答えた。
「いえ。この荷物は、背負っていただきます。
背中にこれがあることで、万が一の際に、貴方を守るでしょう」
そう言って、骨組みだけを入れたほぼ空の袋を差し出してきた。
正直、これが何の役に立つのか見当もつかない。しかし、夜にでも理由を聞けばよい。私は袋を受け取り、背に括りつけた。
野兎はさらに似たような袋を、私の腰と胸にも手際よく取り付けていく。
「厳重だな」
「龍も近いので、警戒を強めているのです」
補給を済ませた野兎と騎士たちは再び馬上へと戻り、行軍を再開した。
やがて、夕闇が迫ってきた。空はゆるやかに群青へと染まり、野営地を探すころには薄闇が辺りを包み始めていた。
この時期の夜風は生ぬるく、人影の顔を識別するには心もとない時間帯だった。
やや先を進んでいた野兎が戻ってくる。
「野営に程よい場所を見つけました。道から少し外れますが、近くに川もあります。行きましょう」
私たちは馬を降り、野兎の後をついて森へ入った。傾斜がわずかに増し、足場は徐々に不安定になっていく。
やがて、少し開けた場所に出た。そこを野営地とした。
馬に水を与え、各々が木の陰に腰を下ろす。私は燃える火を眺めながら敷物に座り、袋を取り外そうとした。
すると、野兎がそれを手で制し、結び目を確認した。
理由を問おうと思ったが、この状況では話せないのだろう。
このまま、その装備で眠れということらしい。
ため息をひとつ吐き、野兎が入れたお茶を一口すすった。
そのとき、野兎がふいに立ち上がった。
後ろ手を振ったかと思うと、カンテラを一つ手に取り、静かに森の奥へと歩いていく。
私は湯呑を地面に置き、中腰になって野兎を目で追った。
――と、そのとき。
気づけば、護衛の騎士たちが私の周囲を囲むように立ち上がっていた。
「朱映空様。国のためです。ここで死んでいただきます」
剣を抜く音が、闇に鋭く響いた。
何が起きているのか、理解できないまま、私は背後の森に飛び込んだ。
目の前に、カンテラの光が揺れているのが見える。野兎の灯りだ。
とにかく、あれに向かって走らなければ。
後ろから追ってくる騎士たちの気配が伝わる。
剣を抜いているせいで動きは鈍い。だが油断すればすぐ追いつかれる。
私は荒れる呼吸を抑える暇もなく、ひたすらカンテラを追った。
視界が揺れた。木々の間をすり抜ける。息が上がる。
頭は空白で、生き延びたいという本能だけが身体を動かしていた。
ふいに、視界が開けた。
そこには、ただぽつんと、カンテラが置かれていた。
近づいた瞬間、足がすくむ。
そこは崖だった。カンテラは、崖の縁に置かれていたのだ。
崖の縁には何故か大量の血が付いている。
『野兎……どこにいる……?』
息を整えながらカンテラに手を伸ばしかけたとき、背後から複数の足音が迫るのが分かった。
しまった。
振り返ると、騎士たちが森を抜け、こちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
私は、完全に崖の端に追い詰められていた。
どこにも、逃げ場はなかった。
そのとき。
騎士たちの後方から、灯りの消えたカンテラを手に、野兎が姿を現した。
「野兎!」
私は叫んだ。だが、騎士たちは振り向くことすらなく、ただ黙って剣を向けてくる。
野兎はその一人の肩を軽く叩き、つまらなそうに言い放った。
「下がってろ」
そして、ゆっくりと剣を抜いた。
崖の上を、生ぬるい風が通り過ぎる。
足音だけが、はっきりと耳に届いた。
「どうして……?」
私は信じられずに、野兎の目を見つめた。
彼は、いつものように困ったような笑顔を浮かべて言った。
「朱映空様。あなたは国を背負うには、優しすぎると思うですよ」
月明かりの下、野兎の剣が静かに光を反射した。
私は、その場を一歩も動けなかった。