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龍の国にて  作者: しし
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3-1 雪下ろし


3-1 雪下ろし





気がつけば季節が過ぎ、

龍の村にたどり着いてから、初めての冬が訪れていた。


村は深い雪に覆われ、近ごろは道を行く人影もまばらだった。

けれど今日は違った。

春祝を明日に控え、あちこちから笑い声と掛け声が響いている。


男たちは総出で家々の雪下ろしを行い、

女たちは広場に仮設されたかまどの前で、大鍋の湯気に包まれていた。


私は年の近い陽仁と組み、割り振られた家々の屋根に登っては、

冷えきった雪を無言で崩していった。


鍛錬を重ねた身体は、村の仲間たちと並んでも遜色のない動きを見せていた。




黙々と雪を落とし続けていた。

腕がじんじんと痺れる。

雪は軽くても、積もれば容赦がない。


休憩がてら家の裏に降りたとき、炊き出しを終えた女たちの一人が、こちらへ向かってきた。

すらりとした体格に、浅く巻いた灰色のマント。年は三十半ばくらいか。

目が合った瞬間、ふと驚いたように立ち止まり、それからおずおずと近づいてきた。


「……朱映さん、でしょう?」


「はい」


思わず姿勢を正す。知らない顔だ。

だがその瞳は、こちらをよく知っているようなまなざしだった。


女は柔らかく笑いかけたあと、少し声を落とす。


「あんたのとこのおじさん、体の調子はどう?」


野兎の知り合いだろうか?

だが、家に訪ねてきたことは一度もない。

――まぁ、俺も働いているし、四六時中家にいるわけでもない。そう思い直した。


「……最近は、あまりよくありません」


「そう……」


女は目を伏せると、ほんのわずかに間を置いた。


「帝都に行くことは、ありそう?」


帝都など、殺されに行くようなものだ。

たとえ体調が戻っても、野兎が再び帝都を目指すことはないだろう――。

そう思ったが、その言葉はそっと喉の奥にしまった。


「もう……ないと思います」


女はそれ以上何も言わず、「そう」とだけ小さく呟いて、来た道を引き返していった。


……そのときだった。


背を向けかけた彼女が、ふと振り返る。

その目が、ほんの一瞬だけ――わずかにこちらを射抜いた。


目が合った、と思った瞬間にはもう逸らされていて、幻でも見たのかと思うほどだった。


怒っているような、何か言いかけてやめたような……

そんな色が、ほんの刹那だけ、その瞳に宿った気がした。


――睨まれた?


……いや、考えすぎかもしれない。


遠ざかってゆく後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな違和感だけが残った。




「……今の人、誰だか知ってるか?」


屋根に戻って陽仁に尋ねると、彼は肩に雪を積もらせたまま、気だるそうに答えた。


「梨花さん。桂馬の母上だよ」


――あの? 騒がしい桂馬の、母上……?


田舎にそぐわない品のようなものが、どこかにあった気がした。


「……ちょっと驚いたな。

桂馬を見てると、家族もみんな、もっと賑やかな人かと思ってた」


手を止めて私を振り返った陽仁は、少しだけ目を見開いた。


「あー、そうか。知らないのか。

あの人、生粋の穏健派だよ。

最近どこの派閥も荒れてるからな、お前だけであんまり近寄らないほうがいい」


「……穏健派?」


聞き慣れない言葉に思わず陽仁に近づこうとすると、彼は手で制して、雪かきを再開した。


「……長くなりそうだから、明日話すよ。

今は雪下ろし、終わらせようぜ」


また、ふたりきりの静かな作業音だけが屋根の上に戻ってきた。




作業を終えた者から広場に戻り、

長に報告した後、解散となる。

そのまま前祝いと称して飲み始める者、そそくさと家に帰る者、それぞれがいたが、

みな明日の春祝に向けて、沸き立っていた。


広場を抜けて長の元へ向かう途中のことだった。


石壁の陰から、ひそひそとした声が聞こえてきた。


「──で、ほんとに“守り手”にする気か? あの子を……皇子を」


「声を抑えろ、聞こえる。今はまだ“可能性”だぞ」


「だからこそ、だろ……。この村に、火種を連れ込んだようなもんだ」


足音に気づいたのか、声が急に途切れた。

通りすがる私に、村人たちは少しぎこちない笑顔で頭を下げてくる。


私は軽く会釈を返した。


(……火種? なんの話だろう)


肩越しに一瞬だけ振り返ると、彼らはもう視線をそらしていた。



私は報告をした後、知り合いに挨拶だけ交わして帰路についた。

体調を崩して家で一人寝ている野兎に、早く晩飯を用意したかったからだ。


……思えば、村にたどり着いた直後の野兎は、今よりずっと動けていた。

帝都を出るまでは、まるで戦時中のように目を光らせていたが――

村に入ってからは、気が抜けたように笑う時間も増えた。

安心したのだろう。あるいは、ようやく歳相応の身体に戻ったのかもしれない。


家にたどり着くと、野兎は起き出して汁を作っていた。


「何やってるんだ、寝てなきゃ治らないだろ」

私は慌てて駆け寄り、その手から菜箸を奪った。


少し痩せた野兎は、いつもの困ったような笑顔を向けた。


「頑張って働いてきた家族に、晩飯の一つも用意できないほど弱っちゃいねえよ」


貸せと言わんばかりに、先ほどまで菜箸を持っていた手を、こちらに向けてきた。


――昨日よりかは、少し元気か。


そう思い、菜箸を返す。


「無理はしないでくれよ」


野兎が用意してくれたお湯に布を浸し、軽く絞って体を拭いていた時、ふと思い出した。


「そういえば、野兎。

梨花という人に、おじさんの身体は平気かと聞かれたよ。知り合いか?」


何気なく話した言葉に、野兎はしばし黙し、考え込むように目を伏せた。


「何か言われたか?」


「変わったことはなにも。

野兎の体調と、帝都に行く予定はあるかってさ。

予定はないって断っておいたよ」


野兎は渋い顔をして、手元に文箱を引き寄せると、何やら書き出した。


「朱映、済まないが、夕飯の前にこれを長に届けてくれ。

中身は長にだけ見せろよ」


「……穏健派が関係するのか?」


「大したことねえよ。問題ない」


安心させるように背中を叩いてきたが、

本当に大したことがないなら、明日でもいいはずだ……。


胸の奥で小さく息をつき、「わかったよ」と答え、再び広場に向かって歩き出した。


この行動が、どんな意味を含んでいるのかも知らないでいた。


日が陰り、赤く染まった雪の下、

まだ燃えぬ火だけが、静かに息を潜めていた。





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