2-6 竜と魔法
2-6 龍と魔法
オーリスの鋭く湾曲した鉤爪が、目の前に静かに差し出された。
根元は黄土色、先に向かって淡い金色へと変わっていく美しいグラデーションが、かすかに光を反射している。 実用的で、同時にどこか神聖な気配をまとうその爪に、自然と息を呑んだ。
恐怖で立ちすくみそうになる身体を、どうにか踏みとどまらせる。
「この爪に、手を置きなさい」
穏やかな声に促され、内心のざわつきを押し隠しながら、ゆっくりと手を伸ばす。 指先が触れた瞬間、仄かな光が走り、すぐに静かに消えていった。
「……実に好ましい」
オーリスが小さく笑みを漏らす。
「君には、身体強化や飛行、攻撃系の魔法の素質はないみたいだ。 でも、補助──周囲の仲間を支える力があるようだよ」
私は目を閉じ、小さく息をついた。 悔しさを、喉の奥にそっと押し込む。
……つまり、アズールのお願いは今後も体力勝負ってことか。
鍛錬は継続、か
目を開けると、オーリスの朱色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「不満そうだね」
一瞬だけ視線をそらしかけたが、正直に答えることにした。
「……アズールのお願いは、かなり体力を使うので」
清空の魔法は、紐や縄に魔法を通し、その紐や縄が触る対象物を重力関係なく持ち上げることができた。
そして対象物には清空自身も含まれるのだ。
アズールのお願いや日常生活、全てに使える優れた魔法だった。
それと比較すると、私の魔法は格段に見劣りしていると感じた。
くすり、とオーリスが喉を鳴らす。
「まあ、人間にはきつい任務だろうね。
でも、少し面白い話をしようか」
少し身を乗り出し、彼は続ける。
「君が魔法を習得すれば──アズールも清空も、もっと速く、もっと強くなる。
そういう力の流れ方をしているんだ。楽しみだよ」
軽く楽しむように言われ、私は思わずため息を漏らした。
(……今以上に? あの二人が?)
想像するだけで、背筋がぞわりとした。
訓練する気力も失いかけた私を見て、オーリスは少しだけ声の調子を変える。
「つい愉しみすぎた。
意地悪と受け取ったなら、謝ろう」
そう言って、前脚で何かを引き寄せるように動かし、小さな石を差し出してきた。
手のひらに収まるサイズのその石は、淡く金色に明滅しており、まるで脈打つように光を放っている。
「君に渡すのは、悪くない賭けだと思うよ。
光を灯すことができたなら──また、話そう」
おずおずと受け取ると、石は私の手に触れた瞬間、すっと光を失った。
……消えた。
一瞬不安になったが、オーリスは特に驚いた様子もなく言った。
「君の魔力で、また灯せばいい。それが訓練になるからね」
そう言って、彼は背を向けて寝床に戻っていった。
私はしばらく、手の中の石を見つめていた。
魔法の訓練用の石、か。
思ったより重い。冷たくて、ずしりとした感触がある。
材質も魔力の仕組みもさっぱりわからないが──とにかく、失くすのだけは避けたい。
オーリスに「もう一つください」なんて言えるわけがない。
袋に入れて、腰に付けておくか。
書物に何か情報がないか野兎に聞いてみようか
…… ……いや、魔法の記述は禁止されていたんだったな。
体で覚えろ、ってことか。
ため息をつきながら、魔法習得までの道のりの遠さを憂いた。
この石が、オーリスがこれまで誰にも渡したことのない大切な宝だったと気づくのは──
もう少し先の話だ。
魔石を受け取ってから、二週間が過ぎた。
訓練の合間や寝る前の時間を使って、何度も石に触れてきた。 けれど、一度も光ることはなかった。
魔力の使い方なんて分からない。
試しに念じてみたり、手でこすってみたり、腕立て伏せの途中で「今なら出るかも」と握ってみたりもした。
全部、駄目だった。
今は石を袋に入れて、腰のベルトに下げてある。
落とすわけにもいかないし、普段はその存在すら忘れかけることもある。
その日も、昼の休憩中だった。
川辺の岩に腰掛けて水を飲みながら、ぼんやりと流れを眺めていた。
訓練をしなければなと思いつつ、惰性のように、石を袋から出して掌の上で転がす。
ふと視線を横に向けると、アズールと清空が草の上で昼寝をしていた。
清空は口を開けて寝ていて、 アズールは尻尾で鼻を隠すようにして丸まっている。
思わず、小さく笑ってしまった。
この二週間、とにかく騒がしくて、慌ただしかった。
けれど──
こんなふうに誰かと共に過ごした時間は、これまでなかった気がする。
あの二人は、いつもまっすぐにぶつかってくる。 気持ちを隠しても、関係なく関わってきた。
……この二人は、私の仲間だ。
ただ、それだけだった。 理屈でも理由でもない。
確かな実感だった。
そして思った。
守りたい。
ちゃんと、守れるようになりたい。
それは決意だった。
その瞬間。
掌の中で、魔石が強い光を放った。
「……っ!?」
それは、今まで見たこともないほど鮮やかな朱色だった。
爆ぜるような強さで、世界は一瞬──
焚き火の火の粉のように朱に染まり、揺らめいた。
「うわっ、まぶしっ!」
「な、なんだ!? 敵!?」
アズールと清空が、慌てて跳ね起きる。
私は石を見つめながら、戸惑い混じりに小さくつぶやいた。
「……やっと、光った」
ただ石を握りしめていた日々は終わりを告げた。
私はまだ知らなかった。
この光が、どれほどの嵐を呼び寄せるのかを。
逃げ場がなくなるその日が、
すぐそこまで来ていることさえ──。