2-5 知識
2-5 知識
私はしばらくの間、三体の龍それぞれに、一日交代で「お願い事」を聞くことになった。
毎日アズールの相手をしなくてもいいと知ったときは、正直ほっとした。
アズールは少し残念そうだったが、
ルスカとオーリスに諭され、しぶしぶ了承してくれた。
「朱映と遊ぶ作戦、ちゃんと練っとくから、楽しみにしててね〜!」
そう言って、清空を手に乗せたアズールは、空高く飛び去っていった。
(“私と遊ぶ”じゃなくて、“私で遊ぶ”だよな……)
昨日のアズールとの激しい追いかけっこや、空中ぶら下がり体験を思い出しながら、私は思わず苦笑する。
この日、私の前に現れたのは、赤銅色の龍──ルスカだった。
午後の陽射しが、彼の鱗のひとつひとつをきらきらと照らしている。
私たちがいるのは、村の広場の一角。陽に温められた石畳の上に、柔らかな風が吹き抜けていた。
どっしりとした身体を優雅に横たえたルスカは、目の前にいくつかの果物を丁寧に並べてくる。
ほんのりと甘酸っぱい香りが漂い、陽だまりに混じって空気に溶け込んでいた。
「食べてみてほしいんだ。
できれば、感想も教えてくれると嬉しい」
そう言われて、私はひとつ目の果実──赤くて小さな実を手に取った。
手のひらに載せると、ほんのりとした熱と、わずかな湿り気が指先に伝わってくる。
齧った瞬間、鋭い酸味が舌を突き、続いて爽やかな甘みがふわりと広がった。
「とても美味しいです。
強い酸味がありながら、後味に爽やかな甘みが残る……私の好みの味です」
ルスカは穏やかな瞳で私を見つめ、満足そうに微かに喉を鳴らした。
「やっぱり、感じ方に個体差があるんだね。
清空は『美味しい』とだけしか教えてくれなかったけど……
何か、もう少し詳しく数値化できるかい?」
私は近くの石台に置かれた紙と筆を取り、簡単な評価を書きつける。
インクの香りと紙のざらつきが、手に触れて少し懐かしかった。
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酸味:4
甘み:2
好み:4
備考:後味は爽やかな甘み。
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紙を差し出すと、ルスカは小さく唸るような声を上げた。
「完璧だよ。とてもわかりやすい。
じゃあ、次はこっちの果物を頼む」
彼が示したのは、黄色く熟した大ぶりの果実だった。
皮を指で押すと、わずかにへこむ柔らかさとともに、青っぽい芳香が鼻先に届く。
齧った瞬間、濃厚な甘みとともに、どこか土のような青臭さが鼻に抜けた。
「……なるほど」
私はまた紙に記していく。
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酸味:1
甘み:4
好み:1
備考:後味は青臭い甘み。
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「強い甘みはありますが、えぐみのような青臭さも感じます。
私の好みではないですね。
でも……冷やして食べたり、すりおろして酸味のある果物と混ぜれば、もっと美味しくなるかもしれません」
ルスカは少し驚いたような声で返した。
「温度で味の感じ方が変わる……という可能性を示してくれたのかい?
お腹を壊したりしないか?」
「凍るほど冷たいのは苦手ですが、少し冷えた果物は好きですよ」
そのときだった。
ルスカはふと顔を伏せ、顎を地面に乗せるようにして、静かに考え込んだ。
「──あの子はね、甘いものが好きだった。
赤い果実と黄色の果実を、一緒に食べるのが好きだったんだ」
(あの子……、子供?)
その声は、風の音に紛れるほど低く、小さかった。
でも確かに、そこには遠い記憶と、淡い悔いの響きがあった。
「赤い果実だけなら普通に食べる。
でも、黄色だけだと、あまり食べなかったな……
酸味か……少し冷やして出せば、もっと喜んでくれたかもしれない」
どこか遠くの空を見つめるようなルスカの瞳に、微かな翳りが差す。
その姿が、なぜだかとても可愛らしく見えた。
私は何も言わず、ただ黙ってうなずいた。
風がひとしきり吹いて、木の葉が擦れる音がした。
彼の言う「あの子」が誰なのか、私はまだ知らない。
けれど──きっと、大切な誰かだったのだろう。
こうして、私と龍たちの「交換」が始まった。
知識と感覚。言葉と想い。
私が渡せるものは限られているかもしれない。
けれど、龍たちはそれを嬉しそうに受け取り、また別の何かを返してくれた。
私にとってはとても有意義で──
そして有意義であればあるほど、帝都に繋がれた意思なき龍の姿を思い出すたび、違和感を強くした。
これほど知的で、友好的な龍をなぜ帝国は鎖で繋ぎ、そして殺すのだ。
帝国にいた頃は不思議に思わなかったその慣習が、今の私にはただ忌まわしい悪習として映っていた。
そして、次に待っていたのは──
黄金色の龍、オーリスとの出会いだった。
静謐な龍の中でも別格の龍らしい。
少し緊張し、龍が現れる時を待った。
龍たちの寝床の近く、草と石碑が連なる待ち合わせの広場。
空は朝から薄く曇り、陽はあまり差していなかったけれど、風がやわらかく吹いていた。
彼の一歩ごとに、草がかすかに揺れる。
その匂いが、しっとりと濃く、鼻をくすぐった。
オーリスは静かに、確かな重みを持って座し、柔らかな声で言った。
「私の知識と、君の知識を交換したい。
お互いにとって、有意義な時間にしよう」
ふいに、どきりとした。
(……知識を渡すだけ、ではないのかもしれない)
私はふと戸惑い、少し視線を落とす。
自分に何を渡せるのだろうか。何を聞けばいいのだろうか。
そう迷っていると、清空が言っていた言葉を思い出した。
「今朝何を食べたかとかでもいいんだよー」
──そう、難しく考える必要はない。
私は、帝都での儀式の様子を話した。
長く訪れていないという彼にとって、それは新鮮な話だったようで、オーリスは黙って耳を傾けていた。
「──五百年のあいだに、随分と変わったのだな」
そう言って、彼は小さく鼻を鳴らすように息を吐いた。
その息が風になって、私の髪をそっと揺らす。
「さて──君は、私に何を聞きたい?」
オーリスの朱色の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
その眼差しは、ただの好奇心ではなかった。
静かに、慎重に。
私の中の“欲望”の向こうにある何かを見極めようとする眼だった。
思わず、息をひとつ飲む。
自分の答えが、試されている気がした。
けれど、これは試験ではなく、たぶん、対話の入り口だ。
私が何者であるのか──彼が知ろうとしているだけ。
私は一呼吸置いて、静かに答えた。
「もしも、できることなら……魔法を教えてもらいたい」
オーリスは、ふっと目を細めて微笑むと、頷いた。
「そうだね。村の子たちは、皆まずそれを聞いてくる」
彼の声は優しかった。けれどその奥で、何かが静かに測られている気がした。
「よろしい。君に、魔法を教えてあげよう」
ゆっくりと立ち上がる彼の身体が、曇り空のなかに金色の曲線を描く。
その動きに、空気がわずかに引き締まる。
「まずは、素質があるかどうか──調べてみようか?」
素質──オーリスから出たその言葉に、
期待と不安が入り交じり、手をきつく握りしめた。