1−1 帝都
1−1 帝都
この春で18歳になる烈鋭空の成人の儀と出立が発表されたのは、私、朱映空が20歳を過ぎ、約一ヶ月ほど経った頃だった。
泰威空帝の正妃であり、私の養母である翡翠空は「陛下のお決めになられたことでしたら」とそのまま受け入れていた。
烈鋭空が龍を迎え、帝国に帰ってきた時、私は生きていられるだろうか……
盛大な拍手と歓声の真ん中にいる、第二夫人桂花と、異母弟の烈鋭空を眺め、軽く拍手をしながら考えていた。
群集は沸き立ち、楽隊が誇らしげに響き渡る。紅と金の幕がはためく広場で、桂花はまるで勝利の女王のように微笑んでいた。
烈鋭空はあどけなさを残したまま、
それでも立ち姿はすでに「皇子」だった。
私の隣で控えていた翡翠空が小さく溜息をつく。
「あなたにとっても利となることかもしれませんよ」
「そうですね」
私は曖昧に笑う。
烈鋭空は第二夫人の子だが、皇帝にとっては後継候補の筆頭だ。
成人の儀を終えたら龍の国に赴き、自らの龍を迎え入れる。
この国の皇子である証、龍を従えた者だけが皇帝の座を望む資格を得る。
そして——
帰ってこられる者は半分もいない。
儀式後の饗宴でも、私はただ杯を傾ける役目に徹した。
誰も私を祝福しない。私に期待する者もいない。
烈鋭空の出立が決まったことで、私の命が延びると噂する者すらいる。
どうだろう。
弟が戻れば、私の立場は薄れ、
弟が死ねば、私が代わりに“使われる”。
私の願いも、恐れも、何ひとつ考慮されることはないだろう。
「お兄様」
烈鋭空が、私の前に立った。
晴れやかな正装のまま、幼さの残る顔を強張らせている。
桂花は少し離れたところで、次男の蒼識空を控えさせ、侍女と談笑しながらこちらを見ていた。
烈鋭空の背筋が硬くなる。母に見張られていると感じているのだろう。
「成人の儀、おめでとう。立派だった」
「……ありがとうございます」
「気をつけて行ってこい」
儀式的に挨拶を交わすが、烈鋭空は私の目を一瞬強く見つめた。
「——兄上こそ、お気をつけて」
震えた声だった。
私は笑った。
私を心配するのか。
自分がこれから死地に向かうのに。
優しい子だ。
私はどんな兄だっただろうか。
幼い頃はまだ良かった。お互いの立場が分かり始めて、皇帝の子として、正しくあることを求められた。
兄弟としての絆、
それを砕いたのは——誰だろう。
「泰威空帝陛下がお呼びです」
声がかかり、烈鋭空は慌てて礼をし去っていく。
その背を見送った時、不意に胸が痛んだ。
弟の生死。
それは私の生死をも決めるものだった。
出立の日は快晴だった。
王宮の城門前に、龍の神官たち、騎士団、群集が集う。
桂花は白い装束で烈鋭空の額に口付け、花を手渡した。
蒼識空も、母の横に控え、彼の兄に花を渡していた。
烈鋭空を見上げる桂花の表情は涙ぐみながらも、誇らしげだった。
私と翡翠空は並んで見守っていた。
翡翠空は微動だにせず、ただ弟を見送った。
龍の神官が祝詞を捧げる。
神官の手から光が溢れ、跪く烈鋭空に降り注ぐ。
厳格で幻想的な光景に、群衆からは感嘆の声が漏れていた。
私は 、祈った。
(生きて帰ってこい。私に代わって、生き延びろ)
でも龍の神官の祝詞も私の祈りも、龍には届かなかった。
——弟は死んだ。
報せはあっけなく届いた。
烈鋭空は龍の選別を受ける前に、谷底へ落ちて死んだという。
神官の話によれば、龍の怒りに触れたのだと。
それは敗北を意味する。
泰威空帝はただ頷き、桂花は泣き崩れ、翡翠空は長い間沈黙していた。
泣き崩れる桂花を、蒼識空が必死に抱きとめていた。
その腕で、烈鋭空を送り出したのはほんの数日前だったのに。
私はその場にいて、ただ黙っていた。
私の番が来たのだ。
数日後、泰威空帝の前に呼ばれた。
帝は四十を越えた男だが、皺の気配さえなかった。
鋭い目と張った頬は、年齢を感じさせない。
——この人は、時間さえ従わせている。
恐ろしい人だと思った。
「朱映空、そなたの出立を命じる」
低く響く声に、私は頭を垂れる。
「御意」
それしか言えない。
「そなたは皇帝を継ぐ血筋だ。龍はそなたを待っている」
私の中で何かが冷たくなった。
——私は捧げ物だ。
その役目から逃れる道はない。
烈鋭空を失った帝は私を差し出す。
跡継ぎを確定するために。
皇帝のために。
この国のために。
私の命は私のものではない。
それを改めて思い知りながら、私は礼をして立ち上がった。
翡翠空は泣きもせず、ただ私を見つめた。
その眼差しが唯一の慰めだった。
出立の日の支度が淡々と進む。
誰も祝わない。
桂花は顔を出さなかった。
翡翠空だけが来て、私の裾を直し、髪を結い上げた。
「朱映、貴方に幸運がかけおりますように」
小さな声だった。
私は頷くしかなかった。
ジグリと背中の傷が痛んだ。
誰も期待するな。
誰も信じるな。
そう傷が教えている気がした。
養母を慕えば慕うほど、この傷は疼く。
でも、この声だけは——、
背中にそっと触れ、痛みに耐えた。
翡翠空は私を見上げ、そっと背中を擦った。
皇居の門の前まで進む。
近衛の野兎と、数人の騎士のみが私に同行した。
死地への道案内にしては少し寂しい人数だ。
門が静かに開いた。
一度だけ振り返ると、まだ私を見つめている翡翠空の姿があった。
野兎が私の腕をそっとたたく。
「朱映空様、行きましょう」
私は頷き、烈鋭空の喪に服し、静まり返る帝都を後にした。