第四章 深い森
翌日、祖母に謝りがてら川原まで散歩に出た。空は真夏の陽光で高く抜け、川面には光の波紋がキラキラと踊っ
ている。川辺には小さな社があり、犬の狛犬の代わりに鹿と熊の木彫りが置かれていた。昔話に熊を捧げる神社
だと聞いたことを思い出す。楠の木陰で私はひとり立ち止まり、風に乗ってぴったりと耳に届くビエンビエンと
いう虫の音色に目を閉じた。
そのとき、背後で水の音がした。若い声で「あっ、あった!」と呼ぶ声が聞こえた気がして、思わず振り返る。
そこには人影はなく、川に浸かった足元に小さな貝殻が落ちていた。無意識にそっとしゃがみ、かがんで拾い上
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げる。指先に触れたのは、見慣れた白い貝の破片だ。昨日母に渡されたイヤリングの、欠けた片割れだと思っ
た。なぜこんなところに……私は吐息をついた。
「その破片、大事にしてね」
突然、近くで子供の声がした。心臓が跳ね、私は立ち上がって回りを見た。眼前には小学生くらいの女の子が腰
かけ、投網のカゴを川に沈めて魚を待っている。黒髪を一つに結い、首に風遊ぶスカーフ。何かをじっと待って
いるようなその姿は、どこか既視感があった。走り寄ろうとしたが、女の子はびくりと手を上げただけで怖がる
でもなく、私を見つめている。
その声は朝も聞こえた子守唄めいた囁きに似ていた。顔ははっきり見えないが、幼い妹の面影に、わずかに似て
いたからだ。私は「なんて声だった?」と問いかけるように女の子の方を見る。
女の子は、一瞬その言葉に反応したように首をすくめ、軽く体を震わせる。だがすぐ何もなかったかのように、
静かに微笑んだ。背中には真珠のように光る白い貝殻のイヤリングがまた輝いていた。
「それ、お姉ちゃんの……」 私の声は空気を吸い込むように消えそうになった。
女の子は「ううん、違うよ」と首を振ると、そっと叫んだ。「じゃ、行こうっと!スタコラサッサ、サ!」
そう言って、溶け込むように子は立ち上がり、河原から茶色い土手の小径を駆け上がっていった。まるで私の訪
れを待っていたかのように、駆け抜けた時、後ろ髪の長いその影が少し揺れた。私はただ立ち尽くして見送るし
かなかった。
「スタコラサッサ……?」声に出して呟いてみる。すぐさま、その音だけが山々にこだました。風に揺れる木の葉
のざわめきに、私の心が震える。
私は足早に社まで戻り、貝殻を手に握りしめた。知らず知らず、その白い欠片の冷たさが掌から骨まで染みこん
でくる。「大事にしてね」という言葉を反すうしながら。もしかして、これは別れの予兆だったのか。それとも
――期待と恐怖が渦巻き、何を信じていいのかわからないまま、熱い涙が溢れ落ちた。