第三章 日常の軋み
夏になったばかりのこの日、私は駅から祖母の家を経て、久しぶりに母の家へ向かった。子供のころ通った細い
山道は舗装され、車がすれ違うたびに砂埃を巻いた。街から里へ帰っていたあの子供の心にあった静謐が、今は
どこにもない。川の色も、空気の温度も、懐かしいはずの光景が、どこかぎこちなく歪んで見えた。
母はすぐに私に気づいて、庭仕事を中断して駆け寄ってきた。いつも背を丸めている痩せた体つきだが、張りの
ある声は昔のままだ。驚くほど澄んだ黒い瞳が、私を見ると一瞬だけ不安そうに揺れた。
3
「おかえり。無事に着いたのね」
抱きしめようと手を差し出した母の手には、いつもついているはずの貝殻のイヤリングがない。私はそのことに
ひどく動揺しながら、自分の耳を触った。そこにも、もとのイヤリングはなかった。母は慌てた様子で自室に駆
け戻り、しばらくすると小さな箱を持って出てきた。
「ごめん。大事に取っておいたと思ったのに。これはあなたの物でしょう?」
箱の中には白い貝殻のイヤリングが一組入っていた。紙に包まれ、母が大切に保管していたようだ。箱に忍ばせ
てあったのは、十五年前の夏を最後に飾らなくなったあのイヤリングだ。私の胸がキリリと痛む。母はなぜ今さ
らこれを…?
「大事にしてくれてたんだね」
ほろりと涙がこぼれそうになる私は、すぐに笑い顔を作った。「妹が、なくしたって? 忘れてたな……」
母は言葉に詰まり、小箱を優しく閉じた。曇った眼差しの先に、幼い日の私は映っているのだろうか。母は私を
抱くと「お茶にしましょう」と言ってくれたが、その声には微かな震えがあった。
夜になり、母の家の板敷きの床の上で目を覚ます。外は満天の星空で、窓の桟に静かに月が沈もうとしている。
遠くの山にぽっかりと大きな赤い月が浮かび、その麓には濃い青の森が広がっている。私はふと、子供のころの
森を思い出していた。
目を閉じると、ラララ…と子守唄が聞こえてきそうな気がした。だが、耳を澄ましても何もない。昨夜と同じ不思
議な錯覚が、胸を掻き毟るように蘇る。息苦しいほどの闇の中、窓の外の景色が揺らめいた。私は伸び上がり、
カーテンの隙間から外を見やる。
庭には、揺れる風鈴の音とともに、三匹の小さな狐の影が走り回っているように見えた。私はじっと見つめる。
すると、狐たちが方向を変え、私の方へ走ってきた。驚いて引き下がると、狐の一匹が私をじっと見つめた。
――それは狐ではなく、幼い妹の面影に似ていた。
心臓が止まりそうになる。妹にそっくりな影は、揺れる風に溶けるように目の前からいなくなった。耳の奥で、
あの「ラララ…」がまた聞こえる。私は思わず飛び起き、窓を大きく開けたが、部屋に差し込むのは虫の声と夜
の空気だけだった。