第二章 記憶のかけら
祖母の家から一時間ほど離れた、古ぼけた公営住宅で育った私たち姉妹は、夏休みに毎年この山里に遊びに来て
いた。冷たく澄んだ小川、竹藪、季節の虫。五歳の私と四歳の妹が、一緒にかくれんぼをしたり、風鈴を鳴らし
ながら格子戸の縁側で麦茶を啜ったりしたものだ。母が語るには、私たち姉妹は瓜二つだったという。長い黒髪
と丸い瞳、顔立ちも仕草も、姉妹だけれど姉を見分けるのは難しかった。母はよく私を「子熊」などと呼んでい
たらしい。幼い私が照れて目をそらす姿を、思い出して懐かしく微笑んだ。
その夏の昼下がり、四歳の妹はいつもお気に入りの貝殻のイヤリングを身に着けていた。真珠のように光る白い
貝は、遠い海から来たものだと言われている宝物だった。それを耳にさげると、妹はいつもにこにこして「お姉
ちゃん、どう?」と私に笑いかけた。田舎の虫網と麦わら帽子の組み合わせと、その無邪気な笑顔を、私は今で
もはっきりと思い出せる。
あの日も、私たちは河原に行こうと歩いていた。裏山の小径を抜けると、野花が咲き乱れる道に出る。その花畑
の縁から、ひんやりと湿った風が吹きすさび、私は妹の髪がふわりと揺れるのを見た。蝉の音がぐるぐると頭上
でひびき、私たちの足音をかき消す。いつも妹は率先して先を行った。その日は少し風が強く、妹のイヤリング
が貝殻同士を打ち鳴らすカチン、カチン、という音が聞こえた。
――そろそろ秋祭りの準備が始まる時期だね、と妹がひと言つぶやいた。
私は黙って頷いた。その年の秋、この村で小さな祭礼があることは知っていた。祖父や村の古老たちが、春先に
山で何かを見つける祭礼と同じように、秋には「熊送り」の行事をしていたのだ。村の言い伝えでは、山に住む
神様を慰めるため、仮面をつけた男たちが太鼓を叩きながら森の奥へ入るという。その話を私はこわごわ聞いた
覚えがある。
妹は木の陰からひょいと顔を出してきた。黒い目を大きく見開いて、私をからかうようにニヤリと笑う。私は思
わず顔を背けた。どこまでも続く青い空の下、小さくて愛らしい熊のぬいぐるみを妹に思い出す。妹は新しいお
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人形を自慢げに私に見せていた。私たちはいつも熊のぬいぐるみの話をしながら遊んだものだ。――そのまさに
あの時のことを、今では夢か幻か判断できない。
「あ、お姉ちゃん!ちょっと待って!」
妹が突然、私の後ろから呼んだ。小さな足音が石ころに当たって跳ねる。私は靴ひもの結び目を外し、振り返っ
た。
妹は森の入り口で立ち止まり、こちらを見ていた。首にかけた縄で、子熊の絵が描かれた手作りのメダルを誇ら
しげに揺らす。いつの間に渡したのか、私はそのメダルの存在を忘れていた。妹は一生懸命に息を吸い込みなが
ら、何かを言おうとしているようだった。
「こ…この先にね、面白いものを見つけたの!」
妹の顔は少し青ざめていたが、眼だけが興奮で輝いている。私は少し身構えた。いつもならそばにいたはずの母
や祖父母は見当たらない。私たち姉妹だけで森の奥へ向かうのははじめてだった。
「そこ、行ったらだめだよ」
私がそう言う前に、妹はすーっと吸い込むような呼吸音を立てた。その瞬間、樹々の陰から巨大な黒い影が動い
たような気がした。背筋が凍り、思わず叫びそうになる。妹も「大丈夫、大丈夫、いたら遊びに来るよ」と、ふ
いに陽気に笑い、「スタコラ サッサッサのサ!」と幼い口笛まじりに足早に森へ入っていった。私は慌てて追い
かけようとした。
「おじょうさん、待ちなさい……」
どこからか聞こえた、中年男の声。私の頭の中に響き渡るように、不気味に「おじょうさん」だけを繰り返し
た。振り返った瞬間、妹はいなくなっていた。代わりに、どこかで風鈴のような澄んだ音が鳴り響く。私は「お
ばあちゃん!おばあちゃん!」と必死で叫び、泣きながら森を走り出した。だが、ただ風が木々の葉を揺らす音
と、どこか彼方から聞こえる子守唄のような声以外、何もなかった。
それ以来、妹は戻らなかった。村人たちは、事件の話をしない。口を開くと泣きじゃくる祖母を困らせるだけだ
と誰もが思っていた。私自身も、その日の午後のほとんどを漆黒の森の中でさまよっていたことは覚えていな
い。ただ、遠くでかすかに聞いた子供の歌と、妹が落とした白い貝の破片を、一枚だけ手に握りしめていたこと
を覚えている。