第一章 静かな村
午後の斜光が、山間の小駅を淡い金色に染めていた。蓑笠を荷物代わりに背負った私は、列車から降りる。暑さ
にぼうっとした蝉時雨が頬にくすぐったい。駅前には人影も自動車もなく、空気は妙に静まり返っている。喧騒
は遠く、この村の時間だけがゆっくりと流れているようだった。ベンチに座り、手に持つ腕時計を見る。午後五
時すぎだが、昼下がりのように涼しい。
「おかえり、久しぶりだね」
背後から声がした。振り向くと、瓦屋根の一軒家から年老いた祖母が出てきた。額には真新しい白いバンダナを
巻き、その下の目は優しくもどこか遠くを見ているようだった。私はぎこちなく笑い、真夏の日差しを避けるた
め木陰のベンチに隣り合って腰を下ろした。
「本当に静かね……街とはまるで別世界だわ」
祖母は草履で小さなベンチを鳴らしながら座り、畑仕事の土に触れた大きな掌を拭った。微かな風が吹き抜け、
近くの緑を揺らし、何か小さな声がかすかに聞こえたような気がしたが、夏の風に頭の中の雑音が掻き消され
る。
「うん、この村はいつもこうだよ。変わったのはお前だけかもしれない」
言葉に含まれる軽い冗談に、私は口許だけで笑った。祖母と私は都心で数年顔を合わせていなかった。父が亡く
なってからは孫の私に手をかけさせまいと、この村で母親が過ごしている。今日は何となく、祖母の様子でも見
に行こうと決めて訪ねたのだ。
祖母の家の縁側に腰掛け、軒先の鯉のぼりの淡い音色を聞く。庭には初夏の花が咲き乱れ、隣の竹藪の奥に茅葺
屋根の社が見える。幼い頃、母に連れられてよく遊びに来た場所だ。私の心臓が不思議と早鐘のように鼓動す
る。懐かしいはずなのに、どこか居心地が悪い。風が引くたび、背筋に冷たい鳥肌が走る。
「お茶を飲むかい? お婆ちゃんが淹れたお茶を飲まない?」
祖母が戸棚から湯のみを取り出す。正座をし直しながら、私は首を縦に振った。いつもの緑茶の香りに、懐かし
くも安堵する。だが、祖母の瞳の奥には何か棘のように鋭い光があるのに気づいた。お茶をすすりながらも、私
はその視線に囚われる。
沈黙のうち、時計の秒針の音と、遠く山の方で鼓のように響くカラスの鳴き声だけが耳に残る。祖母はゆっくり
と私を見つめ、ほとんど囁くような声で言った。
「あなた、最近何か変な夢を見たことはない?」
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驚いたように私は首をかしげた。その問いが妙に真剣だったからだ。
「変な夢、ですか……? 別に、最近はそんなことないけど」
祖母は屋敷の隅に貼ってある一枚の古いポスターに目を向けた。それは山奥の祭りの案内で、そこには太い線と
朱色で熊の姿が描かれている。祖母が手に持っていた湯のみから目を離し、私も目をやる。だが、その図柄はす
ぐに曖昧な思い出へと溶けて消えた。
「いい子ね。じゃ、そうだね……そのまま、自由に過ごしなさい」
祖母は言うと立ち上がり、台所へと引き上げていった。ひとり残された私はそのポスターのことを考えた。熊
――心の奥がざわめく。子供のころに聞いた絵本の熊のようでもあり、どこか威圧的でもある。鳥の声がまた一
度、遠くから響く。私は眉を寄せて空を見上げる。
がらんとした縁側の床に、微かに耳慣れたメロディーが風に乗って聞こえてきた。「ラララ…」と子守唄のような
声がする。唇を噛み締めて音の方を見たが、葉っぱが擦れる音以外、何も聞こえない。ひととき、私はその場で
硬直してしまった。メロディーは結局、まぼろしだったのだろう。夏の風は、どこまでも静かだった。