第八章:隠された真実
数日間、美玲は図書館の謎について考え続けていた。「真実を知らなければならない」—その言葉が頭から離れなかった。日常生活を送りながらも、夜になると真夜中の図書館のことばかり考えていた。
「美玲、聞いてる?」
授業後、マリの声で我に返った。
「ごめん、ちょっと考え事してて」
「最近ぼんやりしてることが多いね」マリは心配そうに言った。「何か悩みでもあるの?」
美玲はマリの顔をじっと見た。友人の本で読んだことを思い出す。医学部を目指しているマリ。誰にも言えずに悩んでいるマリ。
「マリ」美玲は決意を固めた。「あなたの夢って何?」
「え?」マリは驚いた様子だった。「急にどうしたの?」
「最近、人生について考えてて」美玲は慎重に言葉を選んだ。「みんなそれぞれ夢を持ってるよね。あなたの夢、聞かせてくれない?」
マリは一瞬言葉に詰まり、それから視線を逸らした。「特にないよ…」
「本当に?」美玲は優しく問いかけた。「何でも話してくれていいんだよ」
二人は大学の中庭のベンチに座った。マリは長い沈黙の後、ため息をついた。
「実は…医者になりたいんだ」
「医者?」美玲は知らないふりをした。
「うん」マリは少し照れたように笑った。「子どもの頃から憧れてたんだ。でも両親は文学を学んでほしいって…」
「それで文学部に?」
「そう」マリは頷いた。「でも最近、本当にやりたいことをしようって思って。こっそり医学部編入の勉強してるんだ」
「すごいね」美玲は心から言った。「応援するよ、マリ」
「本当に?」マリは驚いたように美玲を見た。「誰にも言ってなかったのに…どうして急に聞いてきたの?」
美玲は微笑んだ。「友達の直感かな。あなたが何か抱え込んでるように見えたから」
マリの目に涙が浮かんだ。「ありがとう、美玲。あなたにだけは正直に話せてよかった」
二人は長い間話し合った。マリの夢、不安、そして希望について。美玲は物語を変えずとも、友人を支えることができると実感した。
「一緒に勉強しようか」美玲は提案した。「私は文学だけど、手伝えることもあるかも」
「ほんとに?」マリは嬉しそうに言った。「ありがとう!」
別れ際、マリは美玲をぎゅっと抱きしめた。「こんな友達がいて、私は本当に幸せだよ」
「私もだよ」美玲は心から答えた。
その夜、美玲は母の新しい小説の原稿を読んでいた。「真夜中の図書館」と題された物語は、美玲が体験している現実と不思議なほど似ていた。主人公は若い女性で、真夜中にだけ現れる不思議な図書館を訪れる。
「お母さん」美玲は思い切って尋ねた。「この物語のアイデアはどこから?」
母は編み物をしながら答えた。「子どもの頃の夢からよ。とても鮮明で、今でも覚えているの」
「その夢の中では、実際に図書館に行ったの?」
「ええ」母は懐かしそうに微笑んだ。「白髪の老人が案内してくれて、本の海を探検したわ。でも、これは創作よ。現実にそんな図書館があるわけないでしょう?」
「もちろん」美玲は笑顔を作った。「ただ、すごく面白いなと思って」
「原稿が完成したら、あなたに一番に読んでもらうわね」母は優しく言った。
美玲は考え込んだ。母も訪問者だったという老人の言葉は本当だった。では、他にも訪問者や読者がいるのだろうか。そして、その目的は何なのか。
真夜中、美玲は再び図書館へ向かった。今夜は何としても真実の手がかりを掴もうと決意していた。
図書館に入ると、いつもと様子が違っていた。本棚の配置が変わり、照明も少し暗かった。そして、老人の姿がなかった。
「おかしいな…」美玲は中央カウンターを見回した。
「美玲さん」
振り返ると、マイケルが立っていた。彼も困惑した表情をしていた。
「マイケルさん、老人はどこですか?」
「わかりません」マイケルは首を振った。「今夜は図書館全体が少し違います」
二人は館内を探索し始めた。いつもは見たことのない階段を発見し、上へと進んだ。
二階に上がると、そこは広大な円形の部屋だった。中央には大きな地球儀のようなものがあり、世界中の様々な場所が光っていた。
「これは…」マイケルは驚いた様子で地球儀に近づいた。
地球儀を見ると、光る点はすべて都市や町を示していた。東京、ニューヨーク、パリ、シドニー…そして他にも数多くの小さな町が光っていた。
「読者たちの場所でしょうか」マイケルは推測した。
「世界中にこんなにたくさん?」美玲は息を呑んだ。
地球儀の横には古い書類が積み重ねられていた。美玲は一枚を手に取った。それは読者のリストのようだった。名前、場所、そして「活動状態」が記されていた。
「あなたの名前もあります」マイケルが別の書類を指さした。「佐藤美玲、東京、活動状態:初期」
「あなたも」美玲はリストを見つけた。「マイケル・ジョンソン、東京(元ニューヨーク)、活動状態:中級」
さらに書類を調べていくと、美玲は衝撃的な発見をした。「お母さんの名前!」
「佐藤(旧姓:田中)咲子、東京、活動状態:休止」
「休止?」美玲は混乱した。「これはどういう意味?」
「成長を止めたという意味でしょう」老人の声が突然聞こえた。
振り返ると、老人が階段の上に立っていた。表情は厳しく、少し悲しげだった。
「ここは立ち入り禁止の場所です」老人は静かに言った。
「でも、私たちは知る必要があります」美玲は決意を固めた。「図書館の真の目的は何ですか?私たち読者は何のために選ばれたのですか?」
老人は長い間沈黙していた。そして、深いため息をついた。
「あなたは準備ができているようですね」老人は諦めたように言った。「では、お話ししましょう」
老人は二人を地球儀の前に導いた。
「この図書館は、物語のバランスを保つために存在しています」老人は説明を始めた。「世界中の物語は常に流動し、時に危険なほど不均衡になることがあります」
「不均衡?」マイケルが尋ねた。
「はい。あまりにも多くの悲劇、あまりにも多くの絶望。それらが世界のバランスを崩すとき、読者たちが必要になるのです」
「私たちは物語のバランサーなんですか?」美玲は理解しようとした。
「その通りです」老人は頷いた。「読者たちは世界中に散らばり、小さな変更を加えていきます。希望の種を植え、絶望の連鎖を断ち切る。しかし、大きな変更は新たな不均衡を生み出す可能性があります」
「だから代償があるんですね」美玲は言った。
「そうです。バランスを保つための仕組みです」老人は説明した。「しかし、それだけではありません」
老人は書類の山から一冊の本を取り出した。「真夜中の図書館:起源と目的」というタイトルだった。
「図書館にはもう一つの目的があります」老人は本を開きながら言った。「物語の保存です」
「保存?」
「この世界のあらゆる物語は、時に忘れ去られる危険にさらされています」老人は悲しげに言った。「人々が自分の物語を忘れるとき、彼らは自分自身の意味も見失います」
「だから私たちが読者になるんですか?」マイケルが尋ねた。
「はい。あなたたちは物語を感じ、理解し、時に変える力を持っています。しかし、最も重要なのは、物語を記憶する力です」
「記憶する…」美玲は考え込んだ。
「あなたのお母様は訪問者でしたが、読者にはなりませんでした」老人は美玲に言った。「しかし、彼女は物語を記憶し、今それを新たな形で世界に還元しています。それもまた重要な役割です」
「でも、私が読者になった理由は?」美玲は尋ねた。
老人は真剣な表情で美玲を見た。「あなたには特別な才能があります。物語の核心を見抜き、小さな変化で大きな影響を与える力。それは稀有な才能です」
「しかし、まだ理解できないことがあります」美玲は言った。「私の本に『真実を知らなければならない』と書かれていたのはなぜですか?」
老人は地球儀に目を向けた。「世界のバランスが危機に瀕しているからです」
「危機?」マイケルが緊張した様子で尋ねた。
「はい。過去数年間、物語の暗い側面が急速に増加しています」老人は説明した。「絶望、孤独、分断。それらが世界中で広がっています。読者たちの力だけでは対処しきれないほどに」
地球儀を見ると、多くの光が弱まり、一部は消えかけていた。
「これらは失われた読者たちです」老人は悲しげに言った。「力を使い果たしたか、代償に耐えられなくなったか…」
「どうすれば助けられますか?」美玲は切実に尋ねた。
「それがあなたに与えられた使命です」老人は美玲を見つめた。「特別な読者として、あなたには新しい読者を見つけ、導く力があります」
「私が?」美玲は驚いた。「でも、私はまだ初心者です」
「才能は経験と関係ありません」老人は微笑んだ。「あなたは既に正しい道を歩んでいます。友人のマリさんを理解し、彼女の秘密を知りながらも、物語を変えるのではなく、現実で彼女を支えることを選びました」
「それが大切なことなんですか?」
「そうです」老人は頷いた。「物語を変える力は、時に最も大切なことを見失わせます。人々が自分自身で物語を変えるのを助けることこそ、真の読者の使命です」
美玲は新たな理解を得た気がした。図書館の目的、読者の役割、そして自分の使命。
「これから何をすればいいですか?」美玲は尋ねた。
「あなたの周りには潜在的な読者がいます」老人は答えた。「彼らを見つけ、導いてください。しかし、急ぐ必要はありません。一人ずつ、彼らが準備できた時に」
「わかりました」美玲は決意を示した。
「そして、もう一つ」老人は付け加えた。「あなた自身の物語も大切にしてください。読者である前に、あなたは一人の人間です」
美玲はマイケルを見た。彼も新たな理解を得たようだった。
「私も他の読者を探します」マイケルは言った。「一人でも多くの力が必要なようですね」
時計が午前4時を指していた。
「そろそろ戻るべきです」老人は言った。「今夜の発見について考えてください。そして、あなたの直感を信じてください」
美玲とマイケルは階段を降り、出口へと向かった。
「今夜は大きな一歩でしたね」マイケルは言った。
「はい」美玲は頷いた。「でも、まだ多くの疑問があります」
「それが読者の宿命です」マイケルは微笑んだ。「常に問い続けること」
外に出ると、夜明けが近づいていた。
「明日、大学で会いましょう」マイケルは言った。「これからの計画について話し合いたいことがあります」
「はい、また明日」
アパートに戻った美玲は、夜の出来事を整理しようとしたが、疲れで思考が鈍っていた。ベッドに横になりながら、老人の言葉を反芻した。
物語のバランスを保つこと。世界中の読者たち。そして、新たな読者を導くという使命。
眠りに落ちる前、美玲は一つの決意をした。
「明日から、潜在的な読者を探そう」
しかし、その前に自分自身の物語も大切にすること。健太郎との文学祭のプロジェクト、マリとの友情、そして母との絆。それらすべてが、美玲の物語の重要な部分だった。
朝日が窓から差し込み始める中、美玲は深い眠りに落ちた。その夢の中で、彼女は無数の光る糸が絡み合う壮大な織物を見た。それぞれの糸が一つの物語を表し、すべてが繋がり合っていた。そして、彼女自身もその織物の一部だったのだ。