第七章:交差する物語
一週間が経ち、美玲の日常は少しずつ元に戻りつつあった。健太郎は無事に退院し、大学に復帰していた。梨花は出版社の面接を終え、採用通知を待っている。母の小説は小さな文芸誌に採用され、家族全員が喜んでいた。
美玲自身も、体の痛みはほぼ消えていた。ただ、時折左手の小指に痺れを感じることがあった。小さな代償として残ったのだろう。
「美玲、これ読んでみて」
授業後、健太郎が一冊のノートを差し出した。彼が書き始めた小説の原稿だった。
「わあ、本当に書いたんだ」美玲は嬉しく思った。
「まだ下手だけど…」健太郎は照れくさそうに言った。
美玲はその場で読み始めた。若い男性が不思議な喫茶店で出会った人々について書かれていた。登場人物たちはそれぞれ秘密を抱えていて、主人公が彼らの話を聞いていくという設定だった。
「すごく面白いよ」美玲は心から言った。「続きが気になる」
「本当?」健太郎は嬉しそうに笑った。「実は文学祭で発表しようと思ってるんだ」
「素晴らしいアイデアだね」
二人は文学祭のプロジェクトについて話し合った。健太郎の小説と美玲による批評を組み合わせたプレゼンテーションを準備することになった。
下校途中、美玲はキャンパスの中庭でマイケルを見かけた。彼は学生たちに囲まれ、英語で何か話していた。
「マイケルさん」美玲が近づくと、マイケルは振り向いた。
「やあ、美玲さん」マイケルは微笑んだ。「彼らは私の英会話クラスの学生たちです」
学生たちとの会話を終え、マイケルは美玲と二人きりになった。
「図書館の外で会うとは思いませんでした」美玲は言った。
「読者同士、不思議な縁があるものです」マイケルは静かに言った。「調子はどうですか?」
「だいぶ良くなりました」美玲は頷いた。「健太郎さんも元気になりました」
「それは良かった」マイケルはベンチに腰かけながら言った。「私から聞きたいことがあります」
「はい?」
「最近、何か違和感を感じませんか?」マイケルの表情が真剣になった。「図書館について、あるいは老人について」
美玲は考えた。「特には…」
「そうですか」マイケルは少し安心したように見えた。「私は読者になって三年になりますが、まだわからないことが多いのです」
「どういうことですか?」
「図書館の目的です」マイケルは静かに言った。「なぜ私たちが選ばれたのか。老人は多くを語りませんが、何か大きな目的があるように感じます」
美玲も同じ疑問を持っていた。「何か気づいたことはありますか?」
「一つだけ」マイケルは声を低くした。「私たちのような読者は世界中にいます。そして、私たちが変えた物語は、何かのバランスを保つために存在しているように思えるのです」
「バランス…」美玲は先日の老人の言葉を思い出した。
「また図書館で会いましょう」マイケルは立ち上がった。「今夜は来ますか?」
「はい、行くつもりです」
別れた後、美玲はマイケルの言葉について考えた。図書館の目的とは何だろう。なぜ自分が読者に選ばれたのだろう。
その夜、美玲は母の小説を読んでいた。母の文体は繊細で、感情を巧みに描写していた。この才能がずっと隠されていたことが不思議だった。
「美玲、まだ起きてるの?」
ドアが開き、母が顔を覗かせた。
「お母さんの小説を読んでたの」美玲は微笑んだ。「本当に素晴らしいよ」
母は照れたように笑った。「ありがとう。実は次の小説も構想中なの」
「本当に?」
「ええ。長年書きたいと思っていたストーリーがあるの」母は部屋に入ってきた。「不思議な図書館の物語なの」
美玲は驚いて母を見た。「図書館?」
「そう。真夜中にだけ現れる不思議な図書館。そこには世界中の物語が集められているの」
美玲の心臓が早鐘を打った。「どうしてそんな物語を?」
「実は子どもの頃、そんな夢を見たことがあるの」母は懐かしそうに言った。「とても鮮明な夢で、今でも覚えているわ。白髪の老人が私を案内してくれて…」
美玲は息を呑んだ。母も図書館を見たことがあるのだろうか。それとも単なる偶然?
「面白そうだね」美玲は冷静を装った。「完成したら、真っ先に読ませてね」
「もちろん」母は嬉しそうに頷いた。「おやすみ、美玲」
母が部屋を出た後、美玲は考え込んだ。これは単なる偶然なのか、それとも何か意味があるのか。今夜、図書館で老人に尋ねてみよう。
深夜、美玲は廃墟の建物に向かった。真夜中の鐘が鳴り、図書館が姿を現すと、老人が静かに迎えてくれた。
「お帰りなさい、美玲さん」
「お母さんのことで聞きたいことがあります」美玲は切り出した。「母も図書館を知っているようなんです」
老人は微笑んだ。「鋭い観察力ですね」
「母も読者だったんですか?」
「いいえ、あなたのお母様は『訪問者』でした」老人は説明した。「読者になる前の段階の人です。物語を感じる力を持っていましたが、読者としての能力は目覚めませんでした」
「どうして?」
「全ての訪問者が読者になるわけではありません」老人は静かに言った。「それは本人の選択と、物語との相性によります」
美玲は考えた。「ということは、私が読者になったのは…」
「あなた自身の選択です」老人は頷いた。「物語を変えたいという強い願いが、あなたを読者にしました」
「でも、母はただの夢だと思っています」
「多くの訪問者はそう思います」老人は微笑んだ。「それもまた、一つの選択です」
美玲はさらに尋ねた。「図書館の目的は何ですか?マイケルさんも気になっていました」
老人の表情が少し曇った。「それはまだお話しする時ではありません」
「でも、知る権利があるのでは?」美玲は食い下がった。
「すべてには時があります」老人は穏やかだが断固とした口調で言った。「今はまだ、あなたが学ぶ時です」
美玲は諦め、本棚へと向かった。今夜は何か新しい物語を探してみようと思った。
本棚を歩いていると、一冊の本が目に留まった。「高橋誠の物語」
高橋誠—その名前にはどこか見覚えがあった。しばらく考えて、美玲は思い出した。彼は地元の新聞に時々載る作家だった。
本を手に取り、ページを開くと、中年の作家の人生が描かれていた。彼は若い頃に成功を収めたが、最近はスランプに陥っていた。新作が書けず、酒に溺れる日々。さらに、最新のページには衝撃的な内容があった。
『誠は窓の外を見た。雨が激しく降っていた。デスクの上には未完成の原稿と酒瓶。そして、引き出しには拳銃が入っていた。「もう終わりにしよう」彼は思った。』
美玲は息を呑んだ。これは自殺を考えているのだろうか。しかし、梨花の件で学んだことがある。大きな変更は大きな代償を伴う。
「どうしましょう」美玲は迷った。
そのとき、マイケルが近づいてきた。
「何を読んでいますか?」マイケルは尋ねた。
「高橋誠という作家の本です」美玲は説明した。「自殺を考えているようで…」
マイケルは本を見て、深く息を吸った。「難しい状況ですね」
「どうすべきでしょうか」美玲は尋ねた。「前回、梨花先輩を救ったとき、健太郎さんに影響が出ました」
「そうですね」マイケルは考え込んだ。「直接命を救うのではなく、小さな光を与えるのはどうでしょう」
「小さな光?」
「はい。完全に状況を変えるのではなく、希望の種を植える程度に」マイケルはアドバイスした。
美玲は頷いた。ペンを取り出し、最新ページの余白に書き込んだ。
『その時、誠の携帯電話が鳴った。古い友人からの連絡だった。「久しぶり、元気?実は君の初期作品を今読み返していてね、やっぱり素晴らしいと思ったんだ」』
文字が本文に溶け込んでいくのを見て、美玲は続けて少しだけ書いた。
『誠は電話を取り、久しぶりに長話をした。友人の言葉に、忘れていた情熱が少しだけ蘇った。』
「これくらいでしょうか」美玲はマイケルを見た。
「良いでしょう」マイケルは頷いた。「彼自身が決断を下す余地を残しています」
美玲が本を閉じると、軽い頭痛を感じた。前回より軽い代償だった。
「他に何か興味のある本はありますか?」マイケルが尋ねた。
「実は…」美玲は迷いながら言った。「マリの本を読みたいと思っています。何か隠していることがあるような気がして」
「友人の秘密を探るのは慎重にすべきです」マイケルは警告した。「知ってしまった秘密は、あなたたちの関係を変えるかもしれません」
「でも、もし彼女が困っているなら、助けたいんです」
マイケルは理解を示した。「それなら、読みましょう。ただし、必要以上に深入りしないように」
美玲は「井上マリの物語」を探し、本棚から取り出した。ページを開くと、マリの日常生活が描かれていた。そして、最近のページには意外な記述があった。
『マリは医学部の志望理由書を何度も書き直していた。文学部で学びながら、こっそり医学部への編入試験の準備をしていることは、誰にも言っていなかった。特に親友の美玲には。』
「医学部?」美玲は驚いた。「マリが医者を目指しているなんて知らなかった」
さらに読み進めると、マリの悩みが書かれていた。幼い頃から医者になりたかったが、両親は文学部を勧めた。いつか本当の夢を追いたいと思いながらも、友人や家族の期待を裏切ることを恐れていた。
「彼女にはこんな悩みがあったなんて…」美玲は胸が締め付けられる思いがした。
「あなたはどうしますか?」マイケルが尋ねた。
美玲は少し考えた後、ペンを取り出した。しかし、今回は変更を書くのではなく、ただのメモを余白に書いた。
『マリの夢を応援したい。どうすれば自然な形で彼女の話を聞けるだろうか。』
「変更しないんですか?」マイケルは少し驚いた様子だった。
「いいえ」美玲は本を閉じた。「これは友達として直接話し合うべきことです。物語を変えるのではなく、現実で彼女の味方になりたいんです」
マイケルは温かく微笑んだ。「素晴らしい選択です。読者の最も賢い使い方かもしれません。物語を知り、現実で行動する」
美玲は本を棚に戻した。「そうですね。すべてを変更できるわけではない。時には、ただ理解するだけで十分なんだと思います」
時計を見ると、午前3時を過ぎていた。
「もう少し探索してから帰りましょう」美玲は提案した。
二人は図書館の奥へと進んだ。今まで見たことのない書架があった。「完結した物語」のセクションだ。
「ここにはどんな本があるんですか?」美玲は尋ねた。
「亡くなった人々の物語です」マイケルは静かに答えた。「もう変更はできませんが、学ぶことはできます」
美玲は恐る恐る一冊の本を手に取った。「田中健一の物語」—見知らぬ名前だった。
本を開くと、戦時中に生きた男性の物語が描かれていた。困難な時代を懸命に生き抜き、家族を守るために尽くした一生。最後のページには、彼が平和の中で穏やかに息を引き取る場面があった。
「一つの完結した人生…」美玲は感慨深く呟いた。
別の本を手に取ると、「山本さくらの物語」—若くして病に倒れた女性の物語だった。短い人生だったが、彼女は周囲の人々に大きな影響を与えていた。
「これらの物語から何を学びますか?」マイケルが尋ねた。
「人生は長さではなく、どう生きたかが重要なんだということ」美玲は答えた。「そして、私たちは皆、誰かの物語の一部になっているんだということ」
マイケルは頷いた。「その通りです」
突然、図書館の奥から物音がした。美玲とマイケルは顔を見合わせた。
「誰かいるの?」美玲は声をかけた。
返事はなかった。代わりに、一冊の本が棚から落ちた。
美玲が拾い上げると、それは「佐藤美玲の物語」だった。
「私の本?どうしてここに?」美玲は驚いた。自分の本は中央カウンターにあるはずだった。
本を開くと、最新のページには図書館での今夜の出来事が描かれていた。しかし、その先に一行だけ書かれていた。
『美玲は真実を知らなければならない。』
「これは…」美玲は言葉を失った。
マイケルは本を覗き込み、表情が硬くなった。「これは普通ではありません」
「どういう意味ですか?」
「自分の物語が自ら語りかけてくることはないはずです」マイケルは警戒心を露わにした。「老人に見せましょう」
二人が中央カウンターに戻ると、老人はすでに待っていた。
「これを見てください」美玲は本を差し出した。
老人は本を見て、深く息を吸った。「予想より早いですね」
「何が早いんですか?」美玲は混乱した。
「あなたが問いを持ち始める時です」老人は静かに言った。「図書館の真の目的について」
「今、教えていただけますか?」
老人は頭を横に振った。「まだ時ではありません。しかし、その時は近づいています」
「なぜですか?」美玲は少しイライラし始めた。「私には知る権利があるはずです」
「知識には準備が必要です」老人は答えた。「あなたはまだ読者としての旅を始めたばかり。すべてを一度に知ることは危険です」
マイケルが間に入った。「老人の言うことには理由があります、美玲さん。私も最初は焦りましたが、時間をかけて理解することが大切なんです」
美玲は諦めざるを得なかった。「わかりました。でも、いつか教えてくれますよね?」
「その時が来れば」老人は約束した。
時計が午前4時50分を指していた。
「そろそろ時間です」老人は告げた。
美玲とマイケルは出口へ向かった。
「また会いましょう」マイケルは言った。「何か不安なことがあれば、大学で探してください」
美玲は頷いた。「ありがとう、マイケルさん」
外に出ると、夜明け前の冷たい空気が美玲を包み込んだ。頭の中は疑問で一杯だった。図書館の目的とは何か。なぜ自分が選ばれたのか。そして、本に書かれていた「真実」とは何なのか。
アパートに戻ると、美玲は疲れた体を横たえた。しかし、眠る前に一つの決意をした。
「真実を探し出そう」
図書館は多くの謎を秘めている。読者としての自分の役割、物語を変える力の本当の意味。それらを理解するために、美玲は一歩一歩進んでいくことを決めた。
眠りに落ちる前の最後の思いは、本に書かれていた一行だった。
『美玲は真実を知らなければならない。』