第六章:物語のバランス
病院の待合室で過ごした数時間は、美玲にとって人生で最も長く感じられた。マリはコーヒーを買ってきて美玲に差し出した。
「少し飲んで」マリは優しく言った。「顔色悪いよ」
美玲はコーヒーを受け取ったが、喉を通る気がしなかった。胸の痛みは少し和らいでいたが、代わりに罪悪感が押し寄せていた。
「私のせいかもしれない」美玲は思わず呟いた。
「え?何が?」マリは不思議そうに尋ねた。
「いや、なんでもない」美玲は首を振った。
そのとき、医師が待合室に入ってきた。美玲とマリは立ち上がった。
「山田健太郎さんのご友人ですか?」医師が尋ねた。
「はい」二人は同時に答えた。
「状態は落ち着きました」医師は安心させるように言った。「急性の不整脈でしたが、命に別状はありません」
美玲は安堵のため息をついた。
「ただ、原因がはっきりしません」医師は続けた。「彼の年齢で既往症もなく、このような症状が出るのは珍しい。詳しい検査が必要です」
「お見舞いに行けますか?」マリが尋ねた。
「短時間なら」医師は頷いた。「ただし、お一人ずつでお願いします」
マリが先に面会し、美玲は待合室に残った。疲れと安堵で体が重く感じられる。
「メッセージ、ありがとう」
振り返ると、鈴木梨花が立っていた。
「先輩」美玲は驚いた。
「友達が病気になったって聞いて」梨花は心配そうに言った。「大丈夫?」
「ええ、命に別状はないそうです」美玲は答えた。
「よかった」梨花は安心した様子で席に座った。「実は私、あなたのメッセージで本当に救われたの」
美玲は黙って聞いた。
「昨日は…死のうと思ってた」梨花は静かに打ち明けた。「就職が決まらなくて、自分に価値がないって思い込んで…窓から身を投げようとしてたの」
美玲の胸が締め付けられた。
「でも、あなたからのメッセージが来て」梨花は続けた。「誰かに必要とされてるって感じられて、思いとどまったの」
「そう…だったんですね」美玲は複雑な気持ちで言った。
「だから、お礼を言いたかった」梨花は真剣な表情で美玲を見た。「あなたは私の命を救ったのよ」
美玲は言葉に詰まった。梨花を救ったこと自体は間違っていなかった。でも、その代償が健太郎に降りかかったとしたら?
マリが戻ってきた。「美玲、次はあなたの番だよ」
美玲は立ち上がり、梨花に小さく頷いて病室へ向かった。
病室に入ると、健太郎はベッドに横たわっていた。顔色は悪かったが、目は開いていた。
「やあ」健太郎は弱々しく微笑んだ。
「大丈夫?」美玲はベッドの脇に立った。
「うん、突然胸が痛くなって…」健太郎は説明した。「でも今は大分良くなったよ」
「よかった」美玲は安堵しながらも、罪悪感で胸が痛んだ。
「心配させてごめん」健太郎は言った。「文学祭のプロジェクト、一緒にやれるかな」
「もちろん」美玲は笑顔を作った。「あなたが良くなったら、一緒にやろう」
短い面会を終え、美玲は病院を後にした。帰り道、胸の痛みは和らいでいたが、心の痛みは増していた。
夜になり、美玲は決意を固めて真夜中の図書館へ向かった。今夜は健太郎の本を書き換えて、彼を完全に健康な状態に戻さなければならない。
図書館に入ると、老人は厳しい表情で美玲を迎えた。
「予期しなかった結果が起きましたね」老人は静かに言った。
「健太郎さんのことですか?」美玲は尋ねた。「私が鈴木先輩を救ったせいで、彼に影響が出たんですか?」
老人は頷いた。「物語は繋がっています。あなたが梨花さんの命を救ったとき、バランスが崩れました」
「どういうことですか?」
「命を救うという大きな変更には、相応の代償が必要です」老人は説明した。「通常、その代償は読者自身が負います。しかし、あまりに大きな変更の場合、代償は他の物語にも及ぶことがあります」
「それで健太郎さんが…」美玲は愕然とした。
「そうです。あなたの変更が、彼の物語に影響を与えました」
「でも、なぜ健太郎さんが?他の人じゃなくて」
「あなたが最初に変えた物語だからです」老人は答えた。「最初に繋がりを作った物語は、特に影響を受けやすい」
美玲は震える手で顔を覆った。「私は何てことを…」
「しかし、梨花さんの命を救ったことは間違いではありません」老人は優しく言った。「難しい選択でした」
美玲は決意を固めた。「健太郎さんの本を書き換えて、彼を健康にします」
「それは可能です。しかし…」
「どんな代償でも払います」美玲は断固として言った。「今度は私だけが負います」
老人は深く頷いた。「わかりました。山田健太郎の物語をお持ちします」
老人が本を持ってくる間、美玲は中央カウンターで自分の本を見つめていた。「佐藤美玲の物語」—この本に書かれる結末は、自分の選択次第で変わっていく。
老人が「山田健太郎の物語」を持ってきた。美玲は本を開き、最新のページを読んだ。そこには健太郎が病院に運ばれ、不整脈の診断を受ける様子が詳細に描かれていた。
美玲はペンを取り、余白に書き込んだ。
『検査の結果、健太郎の心臓に問題はなかった。医師は一時的なストレスによる症状と診断し、彼は翌日には退院することになった。』
文字が本文に溶け込んでいくのを見て、美玲は安堵した。しかし、書き終えた瞬間、激しい痛みが全身を襲った。まるで胸を鋭い刃物で突き刺されたような痛み。
美玲は床に膝をつき、苦しそうに呼吸した。
「代償です」老人は静かに言った。「今回は全てあなたが負っています」
「大丈夫…です」美玲は歯を食いしばった。「耐えられます」
痛みが少し和らぐと、美玲は立ち上がった。「他に…知っておくべきことはありますか?」
老人は真剣な表情で美玲を見た。「あなたはまだ読者としての力を理解し始めたばかりです。もっと学ぶ必要があります」
「教えてください」美玲は懇願した。
「まず、代償について」老人は説明を始めた。「代償は三つの形を取ります。身体的な痛み、時間の喪失、そして最も重いのは…記憶の喪失です」
「記憶の喪失?」
「はい。特に大きな変更をした場合、読者は自分の記憶の一部を失うことがあります」老人は警告した。「それは最も恐ろしい代償です」
美玲は震えた。「他には?」
「次に、バランスについて」老人は続けた。「あなたが変えた物語は、他の物語とのバランスを保つために調整されます。一つの幸福が他の不幸を生むこともあれば、その逆もあります」
「じゃあ、誰かを完全に幸せにすることは…」
「不可能です」老人は断言した。「完璧な物語はありません。すべての物語には光と影があります」
美玲は考え込んだ。この力は思ったより複雑だった。
「もう一つ」老人は付け加えた。「図書館の外でも、あなたは物語に触れることができます。本を読まなくても、直感的に人々の物語を感じることができるでしょう」
「どういうことですか?」
「人々と接するうちに、あなたは彼らの過去や可能性を感じ取れるようになります」老人は説明した。「それが読者の力です」
美玲が答えようとしたとき、図書館の奥から声が聞こえた。
「美玲さん」
振り返ると、マイケルが立っていた。
「マイケルさん」美玲は驚いた。
「聞きました」マイケルは近づいてきた。「大変な選択をしたそうですね」
「ええ…」美玲は頷いた。「友達を救うために」
マイケルは真剣な表情で美玲を見た。「最初は誰もが間違えます。私も同じでした」
「どういう間違いを?」
「バランスを無視したことです」マイケルは説明した。「人を救おうとして、別の人を危険にさらしました」
「どうやって克服したんですか?」美玲は切実に尋ねた。
「一つずつ学びました」マイケルは答えた。「そして、小さな変更から始めること。大きな変更は大きな波紋を呼びます」
「では、これからどうすればいいですか?」
「自分の体に耳を傾けてください」マイケルはアドバイスした。「代償を払い過ぎると、取り返しのつかないことになります」
美玲は頷いた。「でも、助けが必要な人がいたら…」
「選択は常にあなた次第です」マイケルは微笑んだ。「それが読者の宿命です」
マイケルは自分の本を手に持っていた。「私も今夜は変更をしました。小さな変更ですが」
「どんな変更を?」
「東京で一人暮らしの老人が、明日、近所の少年と出会います」マイケルは説明した。「それだけです。でも、その出会いが二人の人生を少し明るくするでしょう」
「小さな変更から始める…」美玲は理解した。
時計を見ると、午前4時を過ぎていた。
「もう行かなければ」美玲は言った。
「また会いましょう」マイケルは微笑んだ。「読者同士、支え合うことが大切です」
美玲は頷き、出口へ向かった。体の痛みはまだあったが、少し心が軽くなった気がした。
外に出ると、冷たい夜気が美玲を包み込んだ。アパートに戻る道すがら、美玲は考えた。
この力をどう使うべきか。大きな変更は危険だが、小さな親切は可能だ。人々の物語を感じ取り、そっと手を差し伸べる。それが読者としての役割なのかもしれない。
翌朝、美玲のスマートフォンが鳴った。健太郎からだった。
「おはよう、佐藤さん。信じられないかもしれないけど、医者が言うには何も問題がないんだって。今日にも退院できるそうだよ」
「本当に?」美玲は嬉しさと安堵を感じた。変更が現実になったのだ。
「うん。医者も不思議がってた。ストレスが原因じゃないかって。とにかく、心配かけてごめん」
「気にしないで」美玲は微笑みながら言った。「早く良くなるといいね」
電話を切った後、美玲は鏡を見た。顔色は悪く、目の下にクマができていた。胸の痛みはまだあったが、昨日よりは和らいでいた。
これが代償なら、受け入れよう。美玲は決意した。
大学に向かう途中、美玲は街の人々を観察した。老人が言った通り、なんとなく彼らの物語が感じられるような気がした。疲れた表情の会社員、不安そうな学生、幸せそうな親子連れ。それぞれに物語がある。
学校に着くと、マリが笑顔で迎えてくれた。
「健太郎、退院するって!医者も原因がわからないって言ってたよ」
「本当によかった」美玲は答えた。
「あ、それと鈴木先輩から連絡があったよ」マリは言った。「美玲に会いたいって」
「わかった、後で連絡するよ」
授業が始まり、美玲は文学について学びながら、自分自身が物語の一部になっていることを感じた。すべての人が物語を生きている。そして時に、その物語は交差する。
放課後、美玲は図書館のカフェで梨花と会った。
「調子はどう?」美玲が尋ねた。
「うん、昨日よりずっといい」梨花は笑顔で答えた。「実は、就職のことで良いニュースがあるの」
「本当?」
「うん、小さな出版社だけど、編集アシスタントの面接が決まったの」梨花は嬉しそうに言った。「私の文学の知識が役立つかもしれない」
「それは素晴らしいね!」美玲は心から喜んだ。
「あなたのおかげよ」梨花は真剣な表情で言った。「あなたが私に希望をくれたから」
美玲は微笑んだ。小さな変更が、大きな違いを生むこともある。
その夜、美玲はノートに書き始めた。
『読者としての記録』
自分の経験、学んだこと、そして今後の指針を記録することにした。これから出会う物語のために。
「小さな変化から始める」美玲は書いた。「一度に世界を変えようとしない。一人の人生に小さな光をもたらすだけでいい」
窓の外を見ると、星空が広がっていた。無数の星、無数の物語。
美玲は深呼吸した。この力は祝福であり、同時に責任でもある。これからどんな物語と出会い、どんな選択をするのか。その答えはまだ白紙のページのように、未知のままだった。
でも、一つだけ確かなことがある。物語には力がある。そして、その力を正しく使うことが、読者としての使命なのだ。