第三章:選択の重み
翌日、美玲は大学の授業中もずっと夜のことを考えていた。真夜中の図書館は本当に存在するのか、それとも疲れからの幻覚だったのか。しかし、マリのレポートのことを考えると、あれは確かに現実だったはずだ。
「佐藤さん、質問に答えてくれますか?」
教授の声に、美玲は我に返った。
「すみません、聞き逃してしまいました」
教室に笑い声が広がる。普段の美玲なら絶対にありえないことだった。
「大丈夫?」隣に座っていたマリが小声で聞いた。「なんか朝からボーっとしてるよ」
「ちょっと寝不足で…」
「あのメッセージ、助かったよ。おかげでなんとか提出できた」マリは笑顔で言った。「でもどうして深夜にあんなヒント思いついたの?」
美玲は言葉を選んだ。「ちょっと思いついただけ」
授業が終わると、美玲は図書館へ向かった。今日は早く帰って仮眠を取っておきたい。今夜、もう一度あの場所に行くつもりだった。
アパートに戻った美玲は、目覚ましをセットして眠りについた。目が覚めると外は暗く、時計は11時30分を示していた。
「間に合う」
美玲は急いで服を着替え、建物のある場所へと向かった。校舎は日中よりも不気味に見えた。周囲には誰もいない。
建物に近づくと、昨夜入った裏口を探した。鍵がかかっているはずなのに、美玲が触れると簡単に開いた。中は真っ暗で、廃墟そのものだった。
壊れた床板、落ちてきた天井の破片、埃だらけの古い机。美玲は昨夜のような豪華な図書館の面影を探したが、何も見つからなかった。
「やっぱり夢だったのかな…」
美玲は失望しながらも、建物の中央に向かって歩いた。そこにはカウンターがあったはずだ。
時計を見ると、11時59分。
「もう少しで真夜中…」
そして時計が午前0時を指した瞬間、不思議なことが起きた。
美玲の足元から光が広がり始め、廃墟の床が磨かれた木の床に変わっていく。壊れた壁は本棚へと姿を変え、天井からはシャンデリアが現れた。空間全体が変容し、再び豪華な図書館へと戻ったのだ。
「お帰りなさい」
老人の声が背後から聞こえた。美玲が振り向くと、黒いスーツの老司書が立っていた。
「本当だったんですね」美玲は感嘆の声を上げた。
「もちろんです」老人は微笑んだ。「今夜は何をなさいますか?」
美玲は考えた。「昨日、代償について話していましたよね。それについてもっと知りたいです」
老人は頷いた。「物語を変えれば、必ず何かが失われます。小さな変更なら小さな代償、大きな変更なら大きな代償です」
「具体的には?」
「それはケースバイケースです」老人は慎重に言葉を選んだ。「友人のレポートを助けた代償は、あなたの一夜の睡眠でした。小さな変更には小さな代償です」
美玲は昨日の疲労感を思い出した。確かに、図書館にいる間は時間が経過しているのだ。
「もし大きな変更をしたら?」
「それは試してみればわかります」老人は謎めいた表情で言った。「ただし、代償はあなた自身だけでなく、他の物語にも影響することがあります」
美玲は考え込んだ。「誰かを助けるために本を書き換えることはできますか?たとえば、病気の人を治すとか」
老人の表情が曇った。「命に関わることは慎重に。一つの命を救えば、別の命が危険にさらされることもあります」
「バランスのようなものですか?」
「そう理解していただいて構いません」
美玲は本棚を見回した。「他にどんな本があるのか、もっと見てみたいです」
老人は手で示した。「どうぞ」
美玲は図書館を歩き回り、様々な本を手に取った。知らない名前、有名人の名前、果ては歴史上の人物の名前まであった。
そして、一冊の本が目に留まった。「山田健太郎の物語」
「この人は…」美玲は思い出した。「大学の同じクラスの人だ」
健太郎は美玲と同じ文学の授業を取っている学生だが、あまり話したことはない。おとなしい性格で、いつも一人でいる印象だった。
美玲は本を開いた。そこには健太郎の日常が描かれていた。驚いたことに、彼は深い孤独感を抱えていた。友達はほとんどなく、親との関係も複雑だった。そして、最近のページには、大学を辞めようか考えているという記述があった。
「こんなに悩んでいたなんて…」
美玲はページをめくり続けた。健太郎は文学に情熱を持っていたが、自分の才能に自信が持てず、誰にも相談できずにいた。
「何か手伝えることはないかな」美玲は考えた。
ペンを取り出し、最新ページの余白に書き込んだ。
『次の授業で、山田は隣に座った佐藤美玲から声をかけられた。彼女は山田の文学レポートに感心し、どんな本を読んでいるか尋ねた。』
文字は再び本文に溶け込んでいった。
「これくらいなら、大丈夫かな…」美玲は小さな変化から始めることにした。
老人が近づいてきた。「人との繋がりを作ろうとしていますね」
「ええ。彼は孤独みたいで…」
「親切な行動です」老人は頷いた。「明日、結果を見てみましょう」
美玲は他の本も探索し続けた。そのうち、自分の母親の本「田中咲子の物語」に戻った。前日は開く勇気がなかったが、今夜は違った。
本を開くと、母の人生が詳細に描かれていた。幼少期の苦労、結婚前の夢、そして美玲が知らなかった一面—母が若い頃、作家になりたかったという事実。
「お母さん、こんな夢があったなんて…」
最近のページには、母が日常に追われながらも、密かに小説を書いていることが記されていた。しかし、家族に言う勇気がなく、引き出しにしまい込んでいた。
美玲は考えた。母を応援したい。しかし、大きな変更をすれば、大きな代償が伴う。どうすべきか。
「時間は限られています」老人が時計を指した。午前4時30分だった。
「もう少しだけ」美玲は母の本を見つめながら、決断を下した。ペンを取り、書き始めた。
『咲子は長年隠していた小説の原稿を取り出し、家族に見せることを決意した。』
文字が溶け込むのを見届けた後、美玲は本を閉じた。
「これで良かったのかな…」
「それは明日わかります」老人は言った。「さあ、そろそろお時間です」
図書館の光が薄れ始め、建物が元の廃墟に戻りつつあった。美玲は急いで出口へ向かった。
「また明日」
老人の声が消えていく中、美玲は外の世界に戻った。空はまだ暗く、早朝の5時を告げていた。
帰り道、美玲は考えた。二人の人生に小さな変化を起こした。その結果はどうなるのか、そして代償は何なのか。
アパートに着くと、電話が鳴っていた。母からだ。こんな早朝に何があったのだろう。
「もしもし、お母さん?どうしたの、こんな時間に」
「美玲、ごめんね、起こしちゃって」母の声は興奮していた。「でも、あなたに見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「私ね、実は小説を書いてたの。長いこと誰にも見せなかったんだけど、今朝になって、急に家族に読んでもらいたくなったの」
美玲は息を呑んだ。本当に変わったのだ。
「読ませて」美玲は笑顔で答えた。「すごく興味あるよ」
電話を切ると、美玲は疲れた体を横たえた。目を閉じる前に、明日の授業のことを考えた。健太郎と話せるだろうか。
そして、もう一つの疑問が浮かんだ。自分の物語はどうなっているのだろうか。明日また図書館に行って、自分の本を読んでみよう。
だが今は、眠りが美玲を包み込んだ。