第二章:本の海の中で
「代償?」美玲は老人の言葉を繰り返した。
老人はゆっくりと頷いた。「そう、代償です。しかし、それについては後ほど。まずは図書館をご案内しましょう」
美玲は周囲を見回した。図書館の広さは想像以上だった。中央のカウンターを囲むように無数の本棚が放射状に広がり、その先には階段があり、二階へと続いている。天井は高く、アンティークのシャンデリアが柔らかな光を放っていた。
「この図書館には何冊の本があるのですか?」美玲は尋ねた。
「正確な数は数えたことがありません」老人は微笑んだ。「生きているすべての人、そして生きていたすべての人の物語がここにあります」
「死んだ人の本も?」
「ええ。完結した物語です」老人は本棚の一角を指さした。「あちらは『完結した物語』のセクションです。読むことはできますが、もう書き換えることはできません」
美玲はその方向に歩き出した。本棚に近づくと、様々な名前が並んでいる。知らない名前ばかりだが、時々聞いたことのある名前も見つかる。
「あ、これは…」
美玲は一冊の本を手に取った。「中島敦の物語」と書かれている。
「文学者ですね」老人が後ろから声をかけた。「読んでみますか?」
美玲は本を開いた。そこには中島敦の人生が詳細に記されていた。彼の思考、感情、経験のすべてが、まるでそれを生きた人間にしか知り得ないような視点で書かれている。
「これは…信じられない」美玲は息を呑んだ。「でも、なぜ私がこの図書館に?」
老人は答えなかった。代わりに、「他に興味のある本はありますか?」と尋ねた。
美玲は考え込んだ。「母の本を見たい」
老人の表情が少し曇った。「お母様の名前は?」
「佐藤(旧姓:田中)咲子です」
老人は美玲を別の本棚へ導いた。そこには「田中咲子の物語」と題された本があった。
美玲は本を手に取ったが、開くことをためらった。
「読まなくても構いません」老人は優しく言った。「時間はたっぷりあります」
美玲は本を棚に戻した。「今はまだ…」
代わりに、美玲は自分の本に戻った。カウンターの上に置かれたままの「佐藤美玲の物語」。
「この本、私の将来も書いてあるんですか?」
老人は首を横に振った。「未来はまだ書かれていません。あなたが選択する道によって、これから書かれていきます」
「じゃあ、この本を書いているのは誰なんですか?」
「それは誰でもありません」老人は謎めいた笑みを浮かべた。「物語は自ら書かれるのです」
美玲は納得できなかったが、それ以上は追求しなかった。代わりに、友人の本に興味を持った。
「マリの本を見てもいいですか?」
老人は頷き、美玲を別の棚へと案内した。そこには「井上マリの物語」があった。
美玲は本を手に取り、ページをめくった。そこには、マリが明日の文学レポートのことで悩んでいる様子が書かれていた。締め切りに間に合わない不安、教授からの評価を気にする気持ち。
「マリ、こんなに心配してたんだ…」美玲は呟いた。「何か手伝えることはないかな」
そのとき、美玲はあることに気づいた。マリの本のページには、鉛筆で書き込めそうな余白がある。
「これは…書き換えられるの?」
老人は静かに頷いた。「可能です。ただし、一度書き換えたら、元に戻すことはできません。そして、必ず何かが変わります」
美玲は本を見つめた。友人を助けたい気持ちと、未知の結果への恐れが交錯する。
「試してみてもいいですか?」
老人はペンを差し出した。「これをお使いください。ただし、慎重にお考えください」
美玲はペンを受け取り、マリの本の最新ページを見た。そこには、マリが部屋でレポートに取り組めずにいる様子が描かれていた。美玲は余白に書き込んだ。
『マリはスマートフォンを手に取り、美玲からのメッセージを見た。そこには文学レポートの重要なヒントが書かれていた。』
文字が書かれると、不思議なことに、それがページの本文に溶け込んでいった。まるで最初からそこに書かれていたかのように。
「これで…」
美玲が言い終わらないうちに、自分のスマートフォンが震えた。電源が切れていたはずなのに。画面には「メッセージ送信完了」と表示されている。
「どういうこと?」美玲は混乱した。
「あなたが書いたことが現実になったのです」老人は説明した。「今、あなたの友人はそのメッセージを受け取ったでしょう」
美玲は息を呑んだ。「本当に変えられるんだ…」
「ええ。しかし、小さな変更でも、思わぬ波紋を呼ぶことがあります」老人は警告した。「すべての選択には責任が伴います」
美玲はマリの本を棚に戻した。頭の中は様々な可能性で一杯だった。自分の人生だけでなく、知っている人たちの人生も変えられる力。その可能性と恐ろしさが同時に押し寄せてきた。
「もっと知りたいことがあります」美玲は決意を固めた。「この図書館の目的は何ですか?そして、なぜ私がここに?」
老人は微笑んだ。「あなたは特別な存在です、佐藤さん。あなたには物語を感じる力がある」
「物語を感じる力?」
「そう。多くの人は自分の物語の中に閉じこもっています。しかし、あなたは他者の物語に共感し、時には介入したいと思う。それは稀有な才能です」
美玲は自分の手を見つめた。「でも、私はただの大学生です」
「誰もがただの登場人物であり、同時に作家でもあるのです」老人は哲学的に言った。「あなたは今日から、この図書館の訪問者として、多くの物語に触れることになるでしょう」
「毎日来られるんですか?」
「いいえ。真夜中の時間だけです。そして…」老人は時計を指さした。「その時間も終わりに近づいています」
壁の時計は午前4時58分を指していた。
「もうこんな時間?」美玲は驚いた。「でも、まだ聞きたいことが…」
「明日また来てください」老人は穏やかに言った。「毎晩、真夜中の鐘が鳴ると図書館は開きます」
美玲は自分の本を見た。「これは持ち帰れますか?」
老人は首を横に振った。「すべての本はここに留まらなければなりません。これが図書館の掟です」
時計が5時を打った瞬間、図書館内の光が徐々に薄れ始めた。
「お急ぎください」老人は出口を指さした。「また明日」
美玲は急いで出口へ向かった。振り返ると、図書館の内装が徐々に消えていき、元の廃墟の姿に戻りつつあった。老人の姿も霞んでいく。
外に出た美玲は、朝の冷たい空気に包まれた。頭上には薄明るい空。一晩中起きていたことが信じられなかった。
スマートフォンの画面が点灯した。マリからのメッセージがある。
「美玲、ありがとう!そのヒントすごく助かった!レポート、なんとか間に合いそう。でも、こんな夜中に起きてたの?」
美玲は微笑んだ。本当に変化が起きたのだ。
疲れた体を引きずりながら、美玲はアパートへの道を急いだ。頭の中では、無数の本の物語が交錯していた。明日の夜が待ちきれない。