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「へい、お許し」

 と車夫が一人、お(きり)の脇をすりぬけて、二人の舞子に添って行く。……地蔵堂が近くて下乗(げじょう)となるので、この先は(くるま)では行けないようだ。

 群衆にまぎれて足もとがおろそかになっていた清之助は、自分の下駄がカタカタと鳴って初めて、石橋のたもとを踏んでいることに気づいた。東京でいえば根岸(ねぎし)で見かける橋のように、(みぞ)の上に掛かっている。

 それを渡ると土手になって、わびしげな家が五、六軒並んでいた。なかに何か隠れてでもいそうな小家である。やがて紅梅もちらちらと咲くだろうし、蚊遣(かやり)()く季節になれば、燃え立つような緋縮緬(ひじりめん)を着た遊女が、夕闇のなか、白塗りの顔を覗かせるのかもしれない。家々がある以外は水田が広がり、吹き止んだ風のなごりが、どんよりと砂煙(すなけむり)をためた空気を透かして、ところどころが深くえぐれたような陰影を刻んでいるのだが、空は朗らかに(あお)い。空を映した水田は、昼間の月の光が漏れだすように刈り稲の根もとを輝かせている。

 壬生寺(みぶでら)の堂の屋根は群集の上に、御輿(みこし)のように(あらわ)れた。

 清之助も饒舌(じょうぜつ)なほうだ。……お桐も、もの静かなのは生まれつきだが、今日はおのぼりの案内役に徹していて、(すそ)っぱしょりの勢いとまでは言わないが、なりふり構わず話し続けている。人混みに()まれながら寺の裏門をくぐったが、堂の正面までまっすぐに行けるようにも思えない。

 自分が踏んでいる敷石も見えないほど、ぎっしりと連なった人混みのなかで、鳩が立ちつくしたような恰好のまま、すれすれに顔を近づけて、お互いにほっとため息をついた拍子に目を合わせた。

「お堂に(のぼ)らはるかいな」

 と、呆然とした表情を浮かべる。

「いや、神様には勘弁してもらって、ここから(おが)もう」

堪忍(かんにん)おしやすや」

 と、お桐は襟巻(えりまき)を外して片手拝みをする。拝んだその手にぶつかっていく人もいるほどの混雑である。

 カチカチ、バタバタと、猿芝居の拍子木(ひょうしぎ)が聞こえる。

 何かの興業の木戸番(きどばん)が、台に飛び乗った。この地でも変わらず、活動写真は繁盛しているようだ。

「ちょっと……待っておくれやすや」

 と、なよやかに掛けた襟巻さえ重そうに(そで)を持ち上げたままのお桐が、するりと横手へ身を移した。するすると(すそ)をさばいた身ごなしにもかかわらず、裾先の乱れを見せない。すらりと背丈が伸びたような後ろ姿を見せながら、そこに店を出した風船屋の前にたたずんで、すこし(かが)み腰になって肩をすぼめると、内側で持ち上がった帯が曲線を作る羽織の背の品の良さには、若い貴婦人といった(おもむき)があり、なおかつ華奢(きゃしゃ)な母親の物腰をも感じさせる。

 こんな雑踏のなかで思い出すのもいかがなことかと思うが、お桐は赤ん坊を産んで、産後の肥立(ひだ)ちをようやく終えたばかり。稼業のほうも出たり休んだりで精を出していたわけではないから、清之助の案内役にはもってこいの立場だった。先ほどから彼がお桐の疲れをしきりに気にしていたのも、そんな彼女の容態(ようだい)を気遣っていたからである。

 お桐は、紐の先に浮かんだ風船を見上げて、その色を選ぶのにさえ、

「どれがようおすやろ」

 と、外套(がいとう)の下で懐手(ふところで)をして立っている清之助に聞いた。

「紫のがきれいだ……欲しいね」

「いややわ、赤ちゃんのえ。あんたにはあげへん」

 と微笑みながら、細い黄金(きん)の鎖を軽やかにたぐって、帯の間から気取った紙入れを引き出したが、出てきたのが大きな銅貨だったのが可愛い。

「はい、はい、ありがとうございます。……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 と、風船売りは、目が(ふさ)がらんばかりに笑みをうかべる。あごにちょんぼりと白い(ひげ)を生やした面長(おもなが)な老人で、頭巾をかぶっていた。

 まるで歌枕の深草の里からやってきたような翁である。その(おもむき)は受け取ったが、ちぐはぐな念仏がちょっと可笑(おか)しい。

「なんであんなこと言うんだろう。子どものおもちゃを売ってるんだから、バンザイとでも言ったらいいのに。日の丸の旗でも振ってさ。お念仏とは陰気じゃないか」

 どことなく元気のないお桐の様子を見た清之助は、通行を仕切る綱に添って歩きながら、門を出たところでそんな軽口を言ってみた。

 お桐はにこりともしない。

「あのなあ、(あて)らが赤ちゃんやけ、拝んでくれやしたほうがいいのどすえ」

(あて)らが赤ちゃんって、どういうことだい?」

 と、清之助は真顔で聞き直す。彼の額の上には、紫の風船がポンと浮かんでいる。


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