(あとがきにかえて ~鏡花の仮想読者~)
泉鏡花という人は、大衆の読者というものをあまり考えず、いつも、たった一人の特定の読者に向けて、小説を書いていたのではないかと、読んでいてふと、そういう気がするときがある。
いや、大衆を下に見る高踏主義という意味ではなくて、喜ばせる相手を具体的に思い浮かべなければ、筆が進まないタイプだったのではないか。とにかくその人を楽しませ、驚かせたいという、いわゆる仮想読者を、つねに設定していたのではないか。わかるはずもない百年以上も前の作家の心の裡を、勝手に想像しての話なのだけれど。
師の尾崎紅葉が存命のうちは、まず紅葉に読まれる前提があったから、問題はその没後(明治三十六年十月以降)なのだが、鏡花が筆に勢いを得た初動にさかのぼれば、『婦系図』は登張竹風、『歌行燈』は笹川臨風、『山海評判記』は柳田國男と、個人の名前に行き着くことが多い。逆順を考えれば、彼らがここで言う、仮想読者とおぼしき人たちなのである。
『楊柳歌』の場合、執筆のきっかけとなり、かつ仮想読者とされたのは、間違いなく新派の女形俳優、初代・喜多村緑郎(1871(明4)年 - 1961(昭36)年)だろう。
新派の演目に多くの作品を提供して、その育ての親の一人といってもいいほどの鏡花は、とくに、文学的教養を身につけた喜多村緑郎とは話が合ったようで、交流は生涯にわたった。
鏡花は、喜多村を通じて深く知ることになる演劇界に興味津々であり、喜多村もまた、
緑郎と鏡花をかたる京の夜も更けてかなしくせせらぎを聴く(吉井勇)
という歌が残るほどの熱心な鏡花の愛読者だった。
明治三十九年五月までは関西で活動していた喜多村は、東京に拠点を移してからも京阪で興業をする機会が多く、明治四十三年二月には京都へ、明治四十四年十月には大阪へと鏡花を招いている。じつは鏡花は若いころにも京都を訪れたことがあって、明治二十六年に金沢に帰省した際に、京都を訪れていた尾崎紅葉の後を追って、一泊の慌ただしさで市中を見物している。
ろくに記憶に残らなかっただろう十数年前の訪京とくらべれば、余裕をもって関西の風俗や芝居の周辺を観察したのだろう鏡花が、このときの見聞をもとに書いたのが『楊柳歌』と『祇園物語』(明44)だった。京都では、多忙な喜多村が身代わりの案内役として、子持ちの芸妓を鏡花につけたそうで、まるでそのままの体験が『楊柳歌』の設定に活かされている。
訪京二ヶ月後という速さで発表された『楊柳歌』を、最も胸を躍らせながらひもときはじめたのは、喜多村緑郎だったにちがいない。鏡花自身だと思われる人物が、つい先日、京都で見せた様子そのままに、ユーモラスな見聞録ふうの小説中に登場するのだから。
だが、中盤にさしかかるころには、物語はすっかり不穏な影に覆われる。熱心な読み手(喜多村)は、ヒロインの異常な言動に驚きながらも、それに対する主人公のリアクションのなかに、自殺者と間近に接した過去をほのめかしたり(十節)、継母を煙たがったり(十二、十三節)といった、鏡花作品ではお馴染みのモティーフがまぎれこもうとすることに、満悦の笑みをうかべたことだろう。読み手その人が、作家が題材とした京都を知り尽くしているのである。鏡花が新鮮な気持ちで接した、自身の親しいあれやこれやが、この作家らしく味づけされつつ、極上の作品に昇華することを、念じながら読み進めたのかもしれない。
二十六節で、
▶「清之助はん、」◀
と、お桐が呼びかけたとき、清之助は「呼ばれた我が名に愕然と」する。どうやらこの主人公は、名を伏せて、お忍びで旅行をしているらしい。とすると、この人は鏡花自身ではないのではないかと、一抹の疑念を抱いたのではないか。
そして、クライマックスの二十九節で、
▶清之助は、痩せぎすな中背の、羽織の袖をぐいっと締めつゝ、お桐の手を確乎と取って、
「顔をご覧。」
と言ふ。◀
ここで仮想読者(喜多村)は、あっと驚いたはずである。
「羽織の袖をぐいっと締めつゝ」とは、女形役者が筋力を使って肩を落として、男性の体型から女性の体型へと骨格を変化させる意図的な動作にほかならない。鏡花自身と見当をつけて読んでいた主人公は――歌舞伎か新派かは明確に書かれていないとはいえ――なんと、女形俳優である喜多村自身と重なる人物だったのである。
〇
作家が想定した仮想読者を、これほどまでに驚かせた小説はないのではないかと思わせる、そして、それ以外の読者もその驚きに巻きこまずにはおかない『楊柳歌』は、ふと見聞きした素材を、いかに鏡花が巧みに料理するかのかを、如実に示す作品だろう。
芸子、舞子の風俗に限らず、京都の車夫や露天商や警官の、東京とは異なる風俗に驚く様子は、旅先での経験が戯画化されて写し取られているのだろうし、産寧坂(三年坂)の下り口でお桐が「塩舐女子」のフリをして舞子たちを威すのは、お座敷で戯れる女たちの様子から採ったのかもしれない。二十二章で「黄昏も光氏も共に詣ずる御堂である」と、清水寺への過去の参詣者の名前に『偐紫田舎源氏』の登場人物たちが追加されたのは、もしかしたら執筆中にふと目を上げて彼らのことを思いだした、ということもありえる。鏡花の遺品には、『偐紫田舎源氏』の口絵の貼交屏風があるのだから(本作執筆直後に転居することになる番町の家の書斎に飾られていたその屏風が、もしこの時点で入手されていたらという上での想像になるのだけれど)。
そんな即興的な筆の勢いにも本筋はすこしも揺らぐことなく、いつか決着がつくとは思えない、どこまでも根深い女性の後悔が着々と清之助の突破口をふさいでいく。けれども、「行こうよ……児ヶ淵へ。」と、ついに口にするまで追い詰められたどたんばで、事態は鮮やかに逆転して、女の悲惨は名優の芸談という額装に飾られる。美しい心根ゆえの彼女の悲劇は、往事の廓では、むしろありふれた俗話かもしれない。それが一瞬にして、振袖火事の古物語と肩を並べる伝説に昇華する。それに至るまでの叙述が周到であることには、再読のたびに驚かされることになると思われる。
『歌行燈』のようなシャープな造形の作品に比べると、「水」と「火」のモティーフがいささか乱雑に入り乱れている気はするものの、東西のあらゆる小説のなかでも、これほどの驚きの結末を、ここまでうまく収めきった作品は稀なのではないか。
……とはいえ、その仮想読者というものに、問題がないわけでもない。
鏡花が想定するその読者(喜多村)が、あまりにも教養豊かで、特殊な風俗に習熟し、稀な技能を身につけているせいで、百年後にそれを読む凡人読者(わたくし)が、なかなかついていけないのだ。
まあ、そんなに卑下をしなくても、現代のかなりの割合の読者が、途中で投げだしたくなるような難物なのはたしかだろう。よく読まれている小説と同程度に読み取ることがきわめて難しいからという理由だけで読まれないのは、あまりにももったいなさすぎる、充実した作品なのだけれど。
おまけに明治後期以降からの鏡花においては、自身が理想とするスタイルに文章をはめこみ、そこからはみ出した部分を躊躇なく剪定するような傾向が加速する。いくつかの原稿調査の論文で目にしたのだが、そこを削ったら意味がわからなくなるだろうという部分を、ばっさりと塗りつぶして語調をととのえている(逆に考えればそれは、鏡花は決して詩的な雰囲気でごまかしたりするようなことはせず、写実と知識に基づいた、考えればどうしてそう書いたのかがわかる、隅々まで明晰な文章を綴る作家であって、わかりにくいのはそれが、技法的な朧化や、さまざまな様式への「なぞらえ」を経ているからだ、ということでもある)。
現代語訳などといってはいるが、そんな、原稿上で塗りつぶされた部分を、あるいはそれ以前に、鏡花の頭のなかで削除された部分を想像上で復元して、自分のつたないことばで書き直すことに躊躇し続ける、情けない作業の連続だった。さらに京ことばで書かれた部分にいたっては、エセ京都弁で補わなければならない。……
いや、つい愚痴に走ってしまった。
ちなみに本作で使われている京ことばは、『膝栗毛』などから吸収した京談に、実際に耳にしたばかりの京都弁を加味した鏡花流のものなのだろう。本作から一年以上あいだを置いて『祇園物語』(明44/7)を書いたときには、訪京直後の本作ほどの自信がなくなったようで、『祇園物語』作中の京ことばが、「上方の檀那と洒落れ」てみせた『膝栗毛』の弥次郎兵衛が化けの皮を剥がされたように、細部においては「おのぼり式」になってしまったという、自嘲めいた「はしがき」が添えられている。
〇
『楊柳歌』には「なろう」上に先行して、秋月しろうさんの訳がある。作品に関連する資料を網羅して参照した労作で、当時の鉄道事情や京都市内の移動経路などは、秋月さんのページを見なければ気づけないことも多かった。
一方でこちらは、普通の小説のようになめらかに読めることを優先したリライトで、できるだけ細かく根拠のある書き直しをしたつもりだけれど、言わんとすることを取り違えた部分も多いと思う。諸賢のご指摘を乞う……などといっても、なかなかご指摘を得る機会もないような、鏡花作品中でもマイナーな小説ではある。
しかし、読めば読むほど面白い。傑作なのである。
(了)
追記
二十二章。
▶思いなしか、我を導くお桐の姿が、小袖の褄を、友染の色ある花の影に宿して、菱形の其の綟子張の下を行く◀
「菱形の其の綟子張」とは何か。よくわからかったのだが、『参宮日記』(大正二)三十四節に、
▶但其の雪洞の形は、菱形に枠を透彫で、厳島の渡殿を思う、清水の回廊を思う、奈良の御堂を思う、宮、寺に掛けた燈籠の一種に似て居たことを忘れない。◀
とある。「菱形」とは燈籠のことで、その枠が綟子張(麻糸を綟じって荒く織った綟り織を張って漆を塗ったもの)でできていたのだと思われる。
〇
十五章。坂の上の暗闇から三千歳、岸勇が姿を顕す場面で、
▶見迎へ顔が穂に出でつゝ◀
(訳文:先に気づいてましたよという表情をありありと浮かべながら)
とあるのだが、これには典拠というか含みがあって、小唄・端唄の「露は尾花と」に基づく言い回しのようだ。
〽露は尾花と 寝たと云ふ 尾花は露と 寝ぬと云ふ アレねたといふねぬといふ 尾花がほに出てあらはれた
……という歌詞。
国文学者の久保田淳が、上の唄が引用された『由縁の女』について書いている箇所を読んで気づいた。(「泉鏡花とうた・うたひ・音曲」)
この曲は歌舞伎の周辺では有名で、というのも、だんまり、殺し場の下座としてよく使われるからだという。
だんまりというのは、暗闇のなかで役者たちが手探りをしながら立ち回りを見せる場面なので、こんな細部にまで状況にぴったりな表現が使われていることに驚かされる。と同時に、現代語訳などでそんなニュアンスが汲み取れるはずもなく、自分の作業の無意味さを思い知らされるのだけれど、ここではせめてストーリーだけでも楽しんで、機会があれば原文に接していただければ、と思う。