二
二
「いや、そんな意地悪を言われても、不思議なほど優しく聞こえる……」
「ありがとうおすえ。奥様によろしゅう」
「そんなにご丁寧な挨拶に加えて、家内にお言づけまでうけたまわると、もう駅に駆けつけて東京に帰らなくちゃいけない気になってしまう。さあ、真面目にご案内をしておくれ。……とにかくここの路面電車は、話しながら線路を横切れるくらいのんびりしてるのがいいね。ええと、ここをまっすぐに行くんだっけ」
「そうどす。この辺もちょっとにぎやかだすやろ」
と、人通りのなかを通りを横切ると、酒屋の蔵らしき白壁造りの横町を通って、鴨川の岸のあたりに出た。すぐに行き当たった橋は、ほんのりと白い姿を夕陽の名残で薄く染めて、お渡りやすとたおやかに、渡る人を迎えているようである。そのままの橋の姿を浮かべた川面の向こう岸には、軒行燈がまだまばらに点されはじめたばかりで、東山の袖を飾ろうとしているかのよう。流れに映る灯りも今は一つ、二つだが、歩みを進めるごとに日は暮れて、水面の紅も増えていくのだろう。
屋根の上に干された、まるで枯れ草が酔っぱらったような赤い合羽の上を、冷たい風が静かに渡る。そこへ真っ白な腹を見せながら、ひらひらと千鳥が飛んだ。京の街に寒気を運ぶ比叡おろしが、これから雪を降らせようか、それとも晴れにしようかと、そっと様子を見に来たのだろう。それ、比叡山の峰のあたりを、寒そうな雲がスーッと流れていく……。「東風吹かば……」という歌そのままに、比叡おろしの東風が吹く気配だろうか。あの雲の動きによって、星が霜になるのかもしれない。
「寒くはないかい。君もコートを着てくればよかったのかな」
「いえ、大したことおへん」
と、口では言いながら、つやつやとした黒い毛皮の襟巻に、細いあごを埋めている。
「あんたはん、寒うおすか」
「私は男だ」
「私かて女え」
そんな唇がちらりと赤い。岸にはまた一つ灯りが増えた。
「この橋は?」
「松原橋どす。あちらのが五条の橋え」
「ああ、そうなのか」
と言ったが、清之助はこのとき、源氏の御曹司、牛若丸のことさえ忘れていた。この松原の橋こそ、源平の世に京の五条の橋と呼ばれていた橋である。およそ名所旧跡を巡るにあたって、美人の案内役ほどふさわしからぬ者はない。現に彼は女に気を取られて、あろうことか武蔵坊弁慶のことも思い出さなかったのである。
そのくせ、この橋を渡って清水寺に参るなら、女は袿、男は狩衣と、古風な姿で渡るのがふさわしいなどと考えていた。……しかも橋の向こうから四、五人の工夫がどやどやとやって来るのに出会ったときは、墨染めの法衣に鉢巻をして、七つ道具を背負っているのではないか、などと見つめていた。荒々しい描線の大津絵から抜け出したような連中で、髯を生やした男は奴さんのように荒ぶっていたから、清之助は腰をかがめて、ふらふらと踊るようにすれ違う。彼らがみんなほろ酔い加減なのは、向こう岸に連なる墨絵で描かれたような廂のどこかに、節分の鬼の面を掲げた酒屋があって、白酒を売っているからかもしれない。
橋を渡って中央にさしかかると、嵯峨野に落ちる日の光なのか、音羽の森に昇る月の気配なのか、二人の姿が欄干のあたりにうっすらと浮かびあがる。その空に、ふわふわと覆うように東山の薄紫の蔭が、色を重ねていっしょに落ちて、橋は芽生えの季節を感じさせる、春めいた空気につつまれている。
この、京都が肩に薄衣を掛けたような、東山のなだらかな稜線と重なる、松原橋の欄干を越えた、高いとも低いともどっちつかずのとりとめない中空に、ぼんやりした、丸い形の……光っているわけでもない、赤みがかった薄紫の、たとえて言えば鳳凰の卵のようなものが、二人の間を、お桐の黒髪の上のあたりを、ふわふわと浮きながらついてくる。
清之助は頭をぼんやりさせて歩きながら、それをじっと見ていたのだが、橋のたもとにさしかかったころになって、急に思い出したように笑った。
「ああ、まだ風船を持っているんだね。私はさっきからどうも、これはなんだろうと気を取られて、景色も見ずに歩いていた。橋の途中からずっと考えていたよ」
「あなた、何や思いやした?」
と、袖ごと紐をつかんでいた白い手を少しかかげたお桐が風船を見上げると、かすかに白歯がこぼれる。そんな彼女が口でくわえているようにも思える風船が、鴨川から浮きあがるようにひょいっと動いて、はずみもつけずに、二、三寸ほどふわりと高くなる。
ちりちりと千鳥が鳴いた。