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「いや、そんな意地悪を言われても、不思議なほど優しく聞こえる……」

「ありがとうおすえ。奥様(おかみはん)によろしゅう」

「そんなにご丁寧な挨拶に加えて、家内にお(こと)づけまでうけたまわると、もう駅に駆けつけて東京(うち)に帰らなくちゃいけない気になってしまう。さあ、真面目にご案内をしておくれ。……とにかくここの路面電車は、話しながら線路を横切れるくらいのんびりしてるのがいいね。ええと、ここをまっすぐに行くんだっけ」

「そうどす。この辺もちょっとにぎやかだすやろ」

 と、人通りのなかを通りを横切ると、酒屋の(くら)らしき白壁造りの横町を通って、鴨川(かもがわ)の岸のあたりに出た。すぐに行き当たった橋は、ほんのりと白い姿を夕陽の名残(なごり)で薄く染めて、お渡りやすとたおやかに、渡る人を迎えているようである。そのままの橋の姿を浮かべた川面(かわも)の向こう岸には、軒行燈(のきあんどん)がまだまばらに(とも)されはじめたばかりで、東山(ひがしやま)(そで)を飾ろうとしているかのよう。流れに映る灯りも今は一つ、二つだが、歩みを進めるごとに日は暮れて、水面(みなも)(くれない)も増えていくのだろう。

 屋根の上に干された、まるで枯れ草が酔っぱらったような赤い合羽(かっぱ)の上を、冷たい風が静かに渡る。そこへ真っ白な腹を見せながら、ひらひらと千鳥(ちどり)が飛んだ。京の街に寒気を運ぶ比叡(ひえ)おろしが、これから雪を降らせようか、それとも晴れにしようかと、そっと様子を見に来たのだろう。それ、比叡山の峰のあたりを、寒そうな雲がスーッと流れていく……。「東風(こち)吹かば……」という歌そのままに、比叡おろしの東風が吹く気配だろうか。あの雲の動きによって、星が霜になるのかもしれない。

「寒くはないかい。君もコートを着てくればよかったのかな」

「いえ、大したことおへん」

 と、口では言いながら、つやつやとした黒い毛皮の襟巻(えりまき)に、細いあごを(うず)めている。

「あんたはん、寒うおすか」

「私は男だ」

(あて)かて女え」

 そんな唇がちらりと赤い。岸にはまた一つ灯りが増えた。

「この橋は?」

松原橋(まつばらばし)どす。あちらのが五条の橋え」

「ああ、そうなのか」

 と言ったが、清之助はこのとき、源氏の御曹司(おんぞうし)牛若丸(うしわかまる)のことさえ忘れていた。この松原の橋こそ、源平の世に京の五条の橋と呼ばれていた橋である。およそ名所旧跡を巡るにあたって、美人の案内役ほどふさわしからぬ者はない。現に彼は女に気を取られて、あろうことか武蔵坊(むさしぼう)弁慶(べんけい)のことも思い出さなかったのである。

 そのくせ、この橋を渡って清水寺(きよみずでら)に参るなら、女は(うちぎ)、男は狩衣(かりぎぬ)と、古風な姿(なり)で渡るのがふさわしいなどと考えていた。……しかも橋の向こうから四、五人の工夫(こうふ)がどやどやとやって来るのに出会ったときは、墨染めの法衣(ころも)鉢巻(はちまき)をして、七つ道具を背負っているのではないか、などと見つめていた。荒々しい描線の大津絵(おおつえ)から抜け出したような連中で、(ひげ)を生やした男は(やっこ)さんのように荒ぶっていたから、清之助は腰をかがめて、ふらふらと踊るようにすれ違う。彼らがみんなほろ酔い加減なのは、向こう岸に連なる墨絵で描かれたような(ひさし)のどこかに、節分の鬼の面を掲げた酒屋があって、白酒を売っているからかもしれない。

 橋を渡って中央にさしかかると、嵯峨野(さがの)に落ちる日の光なのか、音羽(おとわ)の森に昇る月の気配なのか、二人の姿が欄干(らんかん)のあたりにうっすらと浮かびあがる。その空に、ふわふわと(おお)うように東山(ひがしやま)の薄紫の蔭が、色を重ねていっしょに落ちて、橋は芽生えの季節を感じさせる、春めいた空気につつまれている。

 この、京都が肩に薄衣(うすごろも)を掛けたような、東山のなだらかな稜線と重なる、松原橋の欄干を越えた、高いとも低いともどっちつかずのとりとめない中空(なかぞら)に、ぼんやりした、丸い形の……光っているわけでもない、赤みがかった薄紫の、たとえて言えば鳳凰(ほうおう)の卵のようなものが、二人の間を、お(きり)の黒髪の上のあたりを、ふわふわと浮きながらついてくる。

 清之助は頭をぼんやりさせて歩きながら、それをじっと見ていたのだが、橋のたもとにさしかかったころになって、急に思い出したように笑った。

「ああ、まだ風船を持っているんだね。私はさっきからどうも、これはなんだろうと気を取られて、景色も見ずに歩いていた。橋の途中からずっと考えていたよ」

「あなた、何や思いやした?」

 と、(そで)ごと(ひも)をつかんでいた白い手を少しかかげたお桐が風船を見上げると、かすかに白歯(しらは)がこぼれる。そんな彼女が口でくわえているようにも思える風船が、鴨川から浮きあがるようにひょいっと動いて、はずみもつけずに、二、三寸ほどふわりと高くなる。

 ちりちりと千鳥が鳴いた。


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