一
一
松原小橋の停留所で、二人がいっしょに路面電車から降りたのは、その日のたそがれ時だった。
「ここだ、ここだ」
と清之助は、肩に引っかけた外套の下で腕組みをして、通りの西側をさらさらと浅葱色の水を波立たせて流れる、高瀬川の岸を覗きこんで、
「ここに着いた晩のことだったよ。……東京じゃあ電車くらい乗り慣れたもんだという気で、ひらりと威勢よく飛び降りたんだが……もうちょっとで危うくこの運河に落ちるところだった。足もとは真っ暗だったし、勝手はわからないし。いやはやおのぼりさんは、のっけからびっくりさ。……たしか、この辺りだった」
夕刻の帰宅時で、人通りが多いなかを立ち止まっている。これでは自分から言いださなくても、土地に不慣れだと言っているようなものだ。……徳川時代の都名所図会には、祇園の前の二軒茶屋で、赤前垂れをした姉さんがずらりと並んで、とんととと、とんとんとんと豆腐を切っていて、長い煙管をだらりと構えたオランダの異人が、ぼんやり口を開けてその顔に見蕩れている絵があるが、実際のところ彼は、京都といえば今でもそんなふうだろうと思いこんでいたほどのおのぼりさんなのだった。
そんな彼と同行しているのが若い美人だというのは、まあ、京都という土地柄ゆえの事情があったと思っていただきたい。木の葉一枚流れぬ高瀬川の清い水面にあでやかな袖を映しているのは、舞子から芸子になって二、三年目の若手、花の都に紫のおもかげを浮かべるお桐という女で、花見小路の鼓のお師匠さんでもある。
とはいっても派手な女ではない。いつもうつむきがちで、ほっそりとした姿に襟もとを深く合わせて、褄を取った大島紬の下には、同じ紬の小袖を重ね着して内着にしている。身頃に空いた八ツ口から、帯にかけて白羽二重がなよなよと細く覗いているのが、白無垢のように清らかに思えて、白い肌には冷たそう。その上には三つ紋の黒縮緬の羽織をはおっていて、図柄は八重桔梗だというのだが、どことなく白桃のようにも見えるその紋は、鬢の生え際あたりのこまやかな毛から透かし見える星のような簪の珠とともにこの女の艶やかな容姿にふさわしく、濃い紫の地色のなかに映えている。
身動きするたびに、菫の薫りをただよわせながら、
「あんたさん、闇夜やったのに覚えておやすか」
と、目もとも清しげに、優しい声で言う。
「驚いたから覚えていますとも。だけど、それにしても、あの夜より通りの幅が広いように思えるな」
「あのな」
と、身体を進む先に向けたまま、顔だけ振り向いて、
「電車が往きやはる、来やはるよって、家が引っ込みはったんえ」
と、露もしたたりそうな黒目がちの瞳を向けて教える。
清之助は真顔になって、
「どういうことだい……ははは」
と笑いだした。
「そうかい、いや、家が引っ込みなさったら、人間はお出かけになられるしかないのかね」
お桐はあくまでもきまじめなふうで、
「何を笑いやはる。私いややえ」
と、何ごとにも感じやすそうな瞳で振り返りながら、
「頬になんか着いてやへんの」
「着いてませんよ。ほっぺたに着いてるといえば、そりゃえくぼが着いてるよ。それより口が変だぜ」
「えっ」
と、お桐は袖口を口に当てる。袖に白抜きされた紋の花びらが揺れて、含まれた呼吸に触れた。
「冗談だよ。お前さんと私がこうやって歩いてるだけだ。紅がはがれたりはしないだろう。……口のきき方がおかしかったってことだよ。家が引っ込みやはる、なんて」
この人は京ことばを珍しがっているのだとやっとわかって、お桐はにっこりとさせた切れ長の目を伏せて、
「意地悪な人やな。そないひどいこと言やはるなら、私もう清水様へ連れてってはあげへんえ」
と、肩をすぼめて、ツンと伸びあがるように横を向く。
「ああ、ごめんごめん。今日のところは私の杖となってくれ。なにぶんにもお頼み申す」
「それな、あんたやかてそない言やはる。私のこと杖やって、おかしなこと。ちょっと、もしな、お爺はんでいやすかえ」
そんな揚げ足取りで言い返すさまが、なんとも若々しい。
今日、昼頃から一緒に歩いているお桐は、じつに親切な案内ぶりで、電車が走り抜けただけでも、あれ往きやはると教えてくれる。――青い放電光を散らして走る車両も、この人の説明にかかれば、真綿の上をすらすらと滑るように感じられて、実のところ清之助はおかしがるどころか、その柔らかな京ことばが、身に沁みて慕わしく思えていたのだった。