十二
十二
お桐はなんにも言わないまま、少し顔を上げてちらちらとこちらを見ると、頭をぶるぶると振った。この明瞭かつ簡潔な否定によって、疲れているのだろうとか、寂しいのだろうとかいった、彼女に対する遠慮も気配りも心遣いも慰めも、すべてが意味を失ったのである。
そこで清之助は、
「父親はいるのかい?」
と聞いてみた。
夜の暗さが彼女の反応を覆っていたが、
「赤ちゃんの父さんかいな、私の父さんかいな」
と、闇のなかから声が聞こえる。悪意もなく他意もなく含みもなく、ただ若い声でそう聞き返されたことが、清之助の胸に刺さった。言われてみれば彼自身も、どちらのつもりで聞いたのか、とっさには判断ができなかった。
少しの間、ためらってから、
「お前さんのだよ」
「実家に母はんといやはります」
「ああ、お母さんも達者なんだね」
と、ようやく見つけた希望にすがりつくように言う。
だが、お桐は力ない声で、
「私のお母はんとは違うとるのだっせ」
「えっ、継母なのかい。いや、それは……」
と、また壁にぶつかった気がしたが、この話を続ければ、また気まずい話題を繰り返すことになりそうなので……。
「じゃあ赤ちゃんの父さんは」
「いやはる」
と軽く答えて身動きをした、お桐の袖が闇のなかで触れた。さらりと衣ずれの音がする。まだ夜になったばかりだというのに――そういえばこの辺りの坂には、いわくありげな名がつけられているわりには、何があるというわけでもなく――ひっそりとしている。しばらくは家並みも絶えた。
自分の足音がやけに響くのに気づいた清之助は、ときおり耳を澄ませてみたのだが、お桐のほうからは裾が動く気配がするだけで、駒下駄の音が聞こえない。
「じゃあ心配はいらない。その父さんに頼んで、もっといつも赤ちゃんを抱けるようにしてもらいなよ。……無理なのかい」
「できんことおへんのどす。……稼業もやめよ思えばやめられますのどすえ。お金もたくさんくれはるよって、勤めも気ままやけ、今日のように運動して遊ぼ思や遊べるのえ」
「だったらなぜ芸者をやめないんだね。旅の者が無責任に、心にもない親切ごかしをしてると思うかもしれないけど、私だって言いたくって言ってるんじゃない。早い話が、お前さんが堅気の娘だったり、決まった夫がある奥さんだったりすれば、なにも赤ちゃんを家に置いて、一日じゅう私といっしょに歩かなくっても済むわけだ。
嫌がらずに聞いてくれよ、いいかい」
と、いったん気持ちを抑えて、
「お前さんくらいの年齢から、もっと年上の芸子なら、好き勝手もできるだろうからちょっとはましかもしれない。だが舞子となると、ありゃひどいもんだ。なかには母親の乳首より硬いものは口にしたことのないような娘が、歯に盃をかちかち当てながら酒を飲んでる。あれはどんなものかね。……客も酔って有頂天になっているから、考えもなく飲ませようとする。また娘たちも無我夢中で、やってやろうという気でいるだろう。がぶがぶと酒を飲む。芝居の文句じゃないが、背中を断割り鉛の熱湯、てなもんで、やってることは拷問責めみたいなもんだ。なんのことはない、鶯の口をこじ開けて、塩をなめさせるのと同じことです。……ひな祭りの白酒だって、お雛様の口にちょっとでもついたらどう思う?……
昨日だっけか、劇場で見かけたが、上は十四、五歳くらいの、極彩色に着飾った舞子たちが七、八人、仮花道の根元の、桟敷席の下の枡席にずらりと並んでいた。着物なら襟もとだっていう客席の目立つところに、赤い色を添えるために呼ばれたような娘らだ。
どの幕だったかの幕間になって、彼女らが鰻だか鯛だかのどんぶりを食べていたんだが、あの、板みたいに堅そうな帯をぴんと伸ばしたまま、うつむきもしないのは行儀がいいのかもしれないが、土間席のほうを向いてずらりと並んでる姿は、ちょっと異様だったね。
しかもですよ。膚撓まず、目逃がず――白刃を突きつけられたって肌も目玉もピクリとも動かさないっていうけど、まさにそんな感じだった。スズメのおむすびほどの量を割り箸でほじっては、粛々と口に運んでいる。……なにも胡座や立て膝で飯を食うなと言ってるんじゃない。人間が飯を食うのに、あれほどツンと取り澄ました姿を、これ見よがしに、臆面もなく見せつけられたら、私はともかく、ほかの地方からの旅行者は、見ちゃいられないと思うだろう。
あんなものは、江戸の風俗にはないね」