十
十
「ツンとしているけど気取らない、澄ましていても人なつっこく、あどけないのによく気が利く。……このあいだも床の間の脇の丸窓を、ひょいっとまたいで座敷に入ってきたが、まるで月のなかから出てきたようだった。それでも無作法に見えないのは、人品が備わっているからだね。……あれじゃあ木登りでもしかねないが、綾なす裾がかぶされば、枯れ木も珊瑚に見えるだろう。
だからまったくのところ、ご飯を八杯食べたなんて言うけどさ、そんな話を聞いても、庇髪の姉さんが金平糖が喉につかえて目を白黒させたという話より、つつましくて上品に思えてしまうからいいんだよな」
「でも私がそんなに食べたら、ご飯がここまで……」
と、指を反らせながら、手をあごの上に持ち上げて、
「いっぱいえ。……そしたら喉を突いたとき」
と寂しく笑いながら、
「汚のうおすやろ、な」
と、真顔で言った。
清之助の、自腹を切ろうという軽口を受けて、『私、どうしような』と言ってから、お桐のほうはそんな凄惨な想像をしていたのである。
おのぼりさんは、また沈黙を強いられた。
お桐は小さくため息をついて、
「綺麗な血が出たら美しおすやろ。死ぬるにはな、喉を突いたほうがようおすやろか。刃物を使うては女子にしてはいかついやろか? え?」
しだいに坂にさしかかる途上で、お桐は平然と言う。寄り添う彼女の姿を見ながら清之助は、今日はずいぶん歩かせてしまったなと思った。……そのうえ強風にも晒されたのだから、さすがに花月巻に束ねた髪ははらはらと乱れてはいるが、襟は痩せぎすな首筋にぴったりと添って、羽織の紐も傾いてはいない。途中で休憩をしても、蔭で身ごしらえをするでもなく、帯を揺り直すわけでもなく、ただ下締めの緋色の紐の結び目が、雑踏で押し合ううちにずるりと緩んでいるだけで、急ぎ足になっても褄が崩れず、艶めかしい下着が覗く裾の開きも松葉のかたちを保っている。……そもそもが京の女は裾をやや長めに着て、駒下駄の歯を見せることもしないから、坂を登るというよりも、黄色いような、薄赤いような、青いような路が上のほうからおぼろげに落ちてきて、まるで空から降りてきた雲に包まれながら、お桐を引き上げているようにも見える。
意識して身繕いをするわけでもない女が、これほどまでに襟も崩さず、袖の振りや身八ツ口をだらしなく広げもせずに、あらかじめ刻まれた足跡の上をたどって白い足先を進めるような、端然としたという印象を通り越して、凄みを帯びた寂しさすら感じさせるのは、もしかすると死を覚悟しているのかもしれない。……そして彼女がその顔に浮かべているのは、人がこの世から、此岸の人々から離れるにあたって、神か鬼かに寄り添われながら導かれるときに、ふと垣間見せる表情である。
清之助にとってそれは、かつて覚えのあるありさまだったから、彼はふとそのとき、お桐の過去と未来が見えたという気がした。
通りしなに、病院らしき大構えの白い門がガス灯で照らされ、その奥にある大きな玄関に電灯が一つ、寂として点っているのを目にして以来、この辺りでは灯をちらりとも見かけなかった。
といっても、人家が絶えたというわけではなく、横手の土塀に沿って坂道を登っているのである。塀の向こうは植え込みになっていて、松がこんもりと茂っている。
かろうじて物のかたちは見えるが、見れば見るほどお桐の姿は羽織の下の裾だけが目立って、足は闇に溶けている。
ありきたりの状況であれば、彼女の手を取って引き返しただろう。
けれども目指しているのは音羽山、音羽の瀧も音に聞く清水寺の観世音である。夜の暗さも楊柳観音が右手に持った柳の差しかかる蔭だとは思えないか。ああ、また一つ星が出た。観音のお慈悲の露が光るのだろう。
紫の風船が浮いている。――あの、翁の面を思わせる、風船売りの白いあごひげが想い浮かんだ。
「お桐さん、もうすぐなのかい」
「くたびれやしたか」
「いや、私は男だ。……と言うとまた、私やかて女どすえ、なんて言うんだろうが、ずいぶん歩かせてしまって申し訳ない。……北野から壬生までがかなり長かった。そこからまた、二条まで行ったんだ。……二条駅から松原小橋までは電車に乗ったとはいえ、疲れただろう。……どこで見たっけね、町なかに用水路のようなものが流れて、軒並みが揃ったにぎやかな通りの向こう横丁から、幟をひらひらと何本も掲げて、真っ赤な裃を着たおやじと、御殿女中のかつらをつけて裲襠を尻ばしょりして毛脛を出した若者が先頭に立って、道中笠をかぶった連中が大勢で練り歩いていたよね。
『あれも、おばけってやつなのかい?』
って聞いたら、節分おばけで仮装をするのは女だけで、あの人たちは新京極の歌舞伎座に『重の井』の芝居がかかる宣伝をしているんだって、お前さんが笑ったっけね。実はあの辺りでもう、座り込みたいほど疲れていた。口じゃあ男だ、なんて言ってたけどね」