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「ツンとしているけど気取らない、澄ましていても人なつっこく、あどけないのによく気が利く。……このあいだも床の間の脇の丸窓を、ひょいっとまたいで座敷に入ってきたが、まるで月のなかから出てきたようだった。それでも無作法に見えないのは、人品(じんぴん)が備わっているからだね。……あれじゃあ木登りでもしかねないが、(あや)なす(すそ)がかぶされば、枯れ木も珊瑚(さんご)に見えるだろう。

 だからまったくのところ、ご飯を八杯食べたなんて言うけどさ、そんな話を聞いても、庇髪(ひさしがみ)の姉さんが金平糖が喉につかえて目を白黒させたという話より、つつましくて上品に思えてしまうからいいんだよな」

「でも(あて)がそんなに食べたら、ご飯がここまで……」

 と、指を反らせながら、手をあごの上に持ち上げて、

「いっぱいえ。……そしたら喉を突いたとき」

 と寂しく笑いながら、

「汚のうおすやろ、な」

 と、真顔で言った。

 清之助の、自腹を切ろうという軽口を受けて、『(あて)、どうしような』と言ってから、お(きり)のほうはそんな凄惨(せいさん)な想像をしていたのである。

 おのぼりさんは、また沈黙を強いられた。

 お桐は小さくため息をついて、

「綺麗な血が出たら美しおすやろ。死ぬるにはな、喉を突いたほうがようおすやろか。刃物を使(つこ)うては女子(おなご)にしてはいかついやろか? え?」

 しだいに坂にさしかかる途上で、お桐は平然と言う。寄り添う彼女の姿を見ながら清之助は、今日はずいぶん歩かせてしまったなと思った。……そのうえ強風にも(さら)されたのだから、さすがに花月巻(かげつまき)に束ねた髪ははらはらと乱れてはいるが、(えり)()せぎすな首筋にぴったりと添って、羽織の紐も傾いてはいない。途中で休憩をしても、蔭で身ごしらえをするでもなく、帯を揺り直すわけでもなく、ただ下締めの緋色の紐の結び目が、雑踏で押し合ううちにずるりと緩んでいるだけで、急ぎ足になっても(つま)が崩れず、(なま)めかしい下着が覗く(すそ)の開きも松葉のかたちを保っている。……そもそもが京の女は裾をやや長めに着て、駒下駄の歯を見せることもしないから、坂を登るというよりも、黄色いような、薄赤いような、青いような路が上のほうからおぼろげに落ちてきて、まるで空から降りてきた雲に包まれながら、お桐を引き上げているようにも見える。

 意識して身繕(みづくろ)いをするわけでもない女が、これほどまでに襟も崩さず、(そで)の振りや身八ツ口をだらしなく広げもせずに、あらかじめ刻まれた足跡の上をたどって白い足先を進めるような、端然としたという印象を通り越して、凄みを帯びた寂しさすら感じさせるのは、もしかすると死を覚悟しているのかもしれない。……そして彼女がその顔に浮かべているのは、人がこの世から、此岸(しがん)の人々から離れるにあたって、神か鬼かに寄り添われながら導かれるときに、ふと垣間見(かいまみ)せる表情である。

 清之助にとってそれは、かつて覚えのあるありさまだったから、彼はふとそのとき、お桐の過去と未来が見えたという気がした。

 通りしなに、病院らしき大構えの白い門がガス灯で照らされ、その奥にある大きな玄関に電灯が一つ、(しん)として点っているのを目にして以来、この辺りでは(ともしび)をちらりとも見かけなかった。

 といっても、人家が絶えたというわけではなく、横手の土塀に沿って坂道を登っているのである。塀の向こうは植え込みになっていて、松がこんもりと茂っている。

 かろうじて物のかたちは見えるが、見れば見るほどお桐の姿は羽織の下の(すそ)だけが目立って、足は闇に溶けている。

 ありきたりの状況であれば、彼女の手を取って引き返しただろう。

 けれども目指しているのは音羽山(おとわやま)、音羽の(たき)も音に聞く清水寺(きよみずでら)の観世音である。夜の暗さも楊柳観音(ようりゅうかんのん)が右手に持った柳の差しかかる(かげ)だとは思えないか。ああ、また一つ星が出た。観音のお慈悲の(つゆ)が光るのだろう。

 紫の風船が浮いている。――あの、(おきな)(めん)を思わせる、風船売りの白いあごひげが想い浮かんだ。

「お桐さん、もうすぐなのかい」

「くたびれやしたか」

「いや、私は男だ。……と言うとまた、(あて)やかて女どすえ、なんて言うんだろうが、ずいぶん歩かせてしまって申し訳ない。……北野から壬生(みぶ)までがかなり長かった。そこからまた、二条まで行ったんだ。……二条駅から松原小橋までは電車に乗ったとはいえ、疲れただろう。……どこで見たっけね、町なかに用水路のようなものが流れて、軒並みが揃ったにぎやかな通りの向こう横丁から、(のぼり)をひらひらと何本も掲げて、真っ赤な(かみしも)を着たおやじと、御殿女中(ごてんじょちゅう)のかつらをつけて裲襠(うちかけ)を尻ばしょりして毛脛(けずね)を出した若者が先頭に立って、道中笠をかぶった連中が大勢で練り歩いていたよね。

『あれも、おばけってやつなのかい?』

 って聞いたら、節分おばけで仮装をするのは女だけで、あの人たちは新京極の歌舞伎座に『重の井』の芝居がかかる宣伝をしているんだって、お前さんが笑ったっけね。実はあの辺りでもう、座り込みたいほど疲れていた。口じゃあ男だ、なんて言ってたけどね」


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